[携帯モード] [URL送信]

落花流水
11


稜宮の前庭に一本の木が植えられることになった。
それは庭師の汪嗣が、成花の為に選んでくれたものだった。
薬玉のように丸く白い花を咲かせる沈丁花。
まだ苗のそれを成花の庭に植えると、まだ花も咲かず小さいというのにどこからか香りが漂っているような気にさえなる。
「いつ咲きますか? どのくらいで大きくなる?」
作業をしている汪嗣の手元を覗き込んでそう言う成花にくすりと苦笑を漏らした慶那が庭のテーブルにお茶をもって来てくれる。
「成花様、そうそうすぐに咲くものではありませんよ。 ねえ、陳?」
「そうですね。 ・・・・来年には、きっと綺麗な花を咲かせてくれると思います」
泥だらけになった手で土をいじり、目線だけ上げた汪嗣と成花の目が合う。
寡黙そうだと思った唇は、想像通りあまり開かれることはない。
だがそれでも、汪嗣の穏やかな気性は一緒にいればすぐに成花に伝わった。
口にしてはあまり何も言わないけれど、汪嗣はとても優しい。
相変わらず了准には辛く当たられ、冷たい眼差しで見据えられることに成花は疲れていた。
だからか汪嗣の優しさは余計に暖かく成花の胸に灯り、了准のことも忘れてぽかぽかと幸せな気持ちになれるものだった。
「成花様の木です。 来年には、きっと綺麗な花を咲かせますよ」
慶那はここ数日ふさぎ込んでいたのが嘘のようにこの日にこやかに過ごしていた。
それは成花が嬉しそうにしているからか、ただ過ぎた日を胸にしまい込んだからなのか。
「私の木! 嬉しい・・・・・・・・・」
汪嗣が座り込んだ隣にしゃがみ込み、成花は植えられたばかりの苗にそっと触れる。
「ありがとうございます。 お・・・汪嗣・・・・」
人を呼び捨てでなど呼んだことのない成花だったが、慶那からも汪嗣からも敬称をつけられるのは困ると言われ、仕方なく名を呼ぶが、やはりどこかぎこちない。
自分のような身分の低い、家名も学もない人間が貴妃と呼ばれ何不自由ない生活を送っていることも。
自分よりも年上の人を召使のように呼ぶことにも、いくら時間が経っても慣れることが出来ない。
榮植は、そんな成花だからこそ愛しいのだと言ってくれるが・・・・。
申し訳なくて、時々怖くなる。
少し前までは貧しい暮らしをしていた。
その日食べるものにさえ困るような村の暮らしは、決して楽ではなかった。
ボロボロになった服を着て、日照りが続けば野草を取って食べることすらあった。
井戸が枯れて、数キロ離れた川へ一日に何度も往復した。
毎日は人生を楽しむ為ではなく、食べる為だけに生きていた。
それが当たり前で、ここに来る事がなかったらそうして一生を終えていただろう。
その自分が、今はこうして高貴な人に愛され、大事にされ、ただ毎日与えられるだけの生活を送っている。
村を思い返せば、胸が痛む。
罪悪感に胸が詰まされるのだ。
長は今も切れ切れになった布を着ているのだろうか。
夜遅くまで畑で働いて、それでも楽にはならない生活を送っているのだろうか。
そう思うと、堪らなく悲しくなる。
自分ばかりがこのような生活を送っていることが、まるで悪のような気さえしてしまうのだ。
ごめんなさいと、何度思っただろう。
誰に向かって謝っているのかも分からないままに、成花はそんな思いにいつまでも縛られていた。
榮植に愛され、愛しているのに、まだ何か足りないとでも言うのだろうか。
どこかで、満たされきっていない自分がいた。
「成花様・・・・・?」
小さな苗を見つめたまま黙り込み、暗い表情になった成花に汪嗣の耳に心地良い声が響いた。
ハッと顔を上げると、穏やかな琥珀の瞳が見つめている。
労わり、慈しむようなその温かな眼差しにジン・・・・・と何かが胸に染み渡った。
「汪嗣・・・・・・」
「成花様っ! あ・・・・、あの、こちらへお座り下さいな。 珍しいお茶菓子を陛下が取り寄せてくださったのですよ」
見つめあう汪嗣と成花をまるで引き離すように慶那が折れそうな白い腕を取り立ち上がらせる。
「あ・・・・」
その為汪嗣の琥珀の瞳が成花からはずれ、また苗に移るのが堪らなく寂しく感じた。
もう一度こちらを見て欲しいような気がして、成花は慶那に腕を引かれながら座っている汪嗣の背中を見つめた。
だが汪嗣はこちらを見ることもなく、淡々と苗の周りに肥料を敷き詰め、汚れた手を払う。
「では、私はこれで失礼致します」
立ち上がり振り返った汪嗣は成花を見て、ふっと口元に笑みを見せると何気なく手を伸ばした。
「陳!・・・・」
だがそれは椅子に座る成花に届く前に慶那の鋭い声によって遮られた。
慶那は青褪めた顔で、汪嗣を見つめて緩く首を振る。
「慶那・・・? どうしたんですか?」
何が起こったのか分からない成花は焼き菓子を手にしたまま瞬きを繰り返す。
汪嗣は、慶那の表情に一瞬眉を顰め、だが分かっているというように頷いた。
そして成花に差し出そうとした手の平を見下ろし、自嘲気味な笑みを漏らした。
「汪嗣? 慶那? どうしたの・・・・?」
「なんでもございません。 それより、お味はいかがですか?」
「え・・・? あ、美味しいです。とても・・・・」
頭を下げ、静かに成花の前からいなくなる汪嗣の背中を見つめながらぼんやりとそう答えると、慶那が小さな布を差し出した。
「お口元に、ついておりますよ」
小さな子供に笑いかけるように慶那は微笑み、成花はあっ・・・と顔を赤らめて布を受け取り口元を拭う。
汪嗣はそれに気付いて口元についたお菓子のくずを取ろうとしてくれていたのだ、もし慶那が止めなければあの手が、触れていたのだと思うと急に鼓動が激しく波打ち始めた。
更に顔を赤くした成花がただ恥ずかしがっているだけだと思ったのか慶那は微笑ましそうに見つめている。
触れられたら、どうなるのだろう。
あの大きな、榮植とは違う傷だらけの、ささくれた指に触れられたらどうなのだろう。
それは、酷く甘美な想像で、触れて欲しいと思った。
そんなことを思っていい立場に自分がいないと分かっているはずなのに。
榮植は約束したとおり汪嗣に花の名や、木について教えてもらうことを快く許してくれた。
それ以来、こうして了准の授業が終わった後の時間を成花は汪嗣と共に過ごしている。
口数は少なく、余計な事は一切口にしない汪嗣だったが、彼の傍は酷く心地良い。
朝の澄んだ空気を胸いっぱい吸い込んだような、そんな気持ちの良い心地。
そして成花は、汪嗣の瞳が好きだった。
穏やかな太陽のような、大地のような色合いに満ちた汪嗣の姿も、とても好ましくて傍にいると心が落ち着く。
本当はもっと一緒に居たいが、それは許されない。
汪嗣は庭師で、成花と違って忙しいし、あまり長い時間を過ごすことは榮植が許してはくれないだろう。
本来ならば稜宮に住む貴妃は皇帝の許可なく自由に外庭を歩くことが許されている。
だが榮植は成花にはそれをよしとはしなかった。
出来れば一切外に出さず、宮の中に閉じ込めておきたいと榮植が思っていると、成花は知っている。
口に出してそう言われたわけではないが、そう思っているのをひしひしと肌で感じるのだ。
愛されていると分かっているから、そして成花も榮植をアイシテいるから、榮植が嫌がることはしたくない。
「成花様、あまり・・・。 あまり陳と近づきすぎぬよう、どうかご注意されてください。 もしも陳が陛下のお怒りを買うようなことがあれば、陳は王宮から追い出されてしまいます。 彼の居場所はここしかないのですから、どうぞそのことをお忘れなきように・・・・・」
お茶を啜る成花に諭すようにそう言って、慶那は悲しげな顔を見せた。
「榮植様が何故怒るのですか? 汪嗣は了准先生と同じで、私の先生でしょう?」
「それでも・・・・どうかお願いします。 お聞き下さい、どうか・・・・」
頭を下げた慶那に驚き、成花は立ち上がると項垂れるように頭を下げたままの慶那の肩に手を置き、顔を上げさせた。
「慶那さ・・・・、慶那」
「差し出がましいことを申しました・・・・。 申し訳ありません」
慶那は辛そうな顔をして、だがその顔をすぐ笑顔に変えると成花の器にお茶を継ぎ足した。





[*前へ][次へ#]

11/24ページ

[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!