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運命はその手の中に
第2話



いつでも出ていけるように身の回りの整理をしていた綾人は、玄関が開かれる音に手を止め立ち上がると寝室を出てリビングへと向かった。
ゆっくりとした足取りが聞こえて、聞き慣れたその足音に心臓が早鐘のように鳴り始める。
知らず手が汗ばんで、綾人はそれをジーンズに擦り付けて深呼吸を繰り返した。
思ったとおり現れたのは樹本人で、久しぶりに会った男は相変わらず力強く逞しく、思わず見惚れた。
綾人など見下ろしてしまう長身に程よくついた筋肉は今はスーツに隠されているが、どんな硬さでどんな肌触りなのかも知っている。
「何をしていたんだ」
だがリビングに足を踏み入れた途端そう言った男の言葉にハッとして、綾人は強張る頬で笑みを作ると寝室へ目を向け小さく首を傾げた。
「何って、片付けてたんだ。 服はもらっていくね、いらないだろうし」
そう答えた綾人に樹は目を眇め、そして小さく舌打ちを鳴らすと綾人を押しのけ寝室へ入っていった。
後を追った綾人は寝室へ入った樹が旅行鞄に詰めていた荷物を全て床に放り出すのを見て目を瞠った。
「樹さん? なんで・・・・・・・」
空っぽになった旅行鞄を持ち上げ、勢いよく壁に投げつけた樹に言葉をなくし立ち竦む綾人を振り返ると、樹は口元を歪ませ笑みを浮かべていた。
「ここが気に入らないなら新しいマンションを買ってやる。 他には何が欲しい、何が不満だ」
優しかった樹が、こんな風に苛々した声を出すようになったのはいつ頃からだったろう。
綾人を見る目が、優しかった目が、苛立ちを含みだしたのはいつ頃だっただろう。
「何って・・・・・・、何言ってるの? 僕は、もう」
「ここが嫌なんだろう? なら新しいマンションを用意しよう。 お前が好きな場所を選べ。 気に入る物件がないなら建ててやる」
「・・・・・樹さん?」
眉を寄せて顔を凝視する綾人にまた苛立ちをあらわに双眸を細め、樹は手を伸ばすと細い腕を掴み引き寄せた。
久しぶりのその感触に思わず溜め息が漏れそうになって、綾人は慌てて樹の腕の中から逃げようと体を反らした。
だが強く抱き寄せられて体中の力が抜けそうになる。
この腕の中は安全なんだと、守られていると実感出来ていたのは、もう遠い昔だ。
「樹さん、僕は新しいマンションなんていらないんだ。 僕は、ここを出ていくよ。 もう大丈夫だから、樹さんのおかげで体だって丈夫になったし、もう熱を出すこともなくなったし、大丈夫だから」
早口でそう言うと、腕の力が更に強まって綾人は苦しさに体を強張らせた。
だが不意に体が離されて、綾人は自分の体を抱き締めるようにしてその場に座り込んだ。
「出て行くことは、許さない。 俺は出ていっていいとは言ってない」
吐き捨てるように言われた言葉に顔を上げると、何かを耐えるように拳を握り締めた樹がそこにはいて、どうしてと聞こうと開いた唇を思わず閉ざした。
もういらないはずなのに。
もうここには来てもくれないくせに。
どうしてと、言いたいのに思い詰めたような樹の表情に何も言えなくなる。
いつだってそうだった。
樹の顔を見ると、綾人は何も言えなくなる。
いつだって、辛そうに見える樹に、綾人は何も言えないのだ。
「いいか、絶対に出て行くことは許さない。 俺はお前を・・・・・・・・。 逃げ出しても無駄だからな、分かったのか!?」
突然怒鳴りつけられて息を飲んだ綾人にまた舌を鳴らして、樹は綾人の前に屈みこんでその髪を掴んだ。
髪を掴まれた痛みに顔を歪ませると、樹はくっと咽喉を鳴らして笑った。
「何が大丈夫なんだ? 今更、お前が働いて一人で生きていけるとでも思っているのか。 男のくせに、男の愛人なんてやっていたお前を雇ってくれるところがあると思っているのか。 それとも、新しい男でも見付けるつもりだったのか・・・・?」
「ちが・・・・・・。 違う・・・・・」
「お前の命を買ったのは俺だ。 お前を自由にできるのは俺だけだ。 俺だけなんだ」
端正なその顔を歪ませて唸るように告げる樹が酷く怒っていることは分かっていた、だけど綾人が出て行くことを許してくれないことの意味が分からなかった。
会いに来てもくれない、声を聞かせてもくれない。
他に相手だっているくせに、何故こんなことを言うのか綾人には全く分からなかった。
世の中の女性、いや男性だって見惚れるその容貌と地位を持っていて、欲しいものは何でも手に入る樹が綾人を手放したがらない意味が、分からない。
「樹さ・・・、僕は。 僕はもう・・・・」
耐えられない。
傍に居られないのに、ここにいるのは辛すぎる。
樹の傍に他の誰かが居るのに、ここで待っているのは辛すぎる。
いつか来てくれることだけを願って、待っていることにはもう疲れたんだ。
そう伝えたくて、だけど口にすることは出来ずに綾人はただ唇を震わせて首を振っていた。
「・・・・・出て行くことは、許さない」
どこか暗く、澱んだ樹の眼が泣いているように見えるのは何故だろう。




親から引き継いだとはいえ大勢の社員を抱え、社運を左右する決断を常にしてきた樹にまず惹かれたのはやはりその強さだったのだろう。
自分にはない強さに、揺るぎない眼差しに惹かれた。
そして包み込んでくれる優しさに、撫でてくれる大きな手に全てを委ねていいんだと思えた。
この人の傍に居れば、何も怖くないと思えた。
愛されているかもしれないと、思ってさえいた。
樹に嫌われることだけが怖かったのに、樹に疎まれることだけを恐れていたのに。
もっと早く離れていれば良かった。
もっと早く、気付いていれば良かった。
樹にしがみついて、みっともない醜態を見せる前に離れてしまいたかったのに。
樹はただ、「分かった」とだけ言ってくれればいいんだ。
ただ綾人に背を向けて、いなくなってくれればいいんだ。
そうしたら、綺麗に消えてしまえたのに。



樹が、好きだ・・・。




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