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運命はその手の中に
第12話



カチャカチャと誰かが台所で作業している音がぼんやりと聞こえた。
お湯が沸いているぐつぐつとした音、包丁がまな板を叩く音、冷蔵庫を開け閉めする音。
うっすらと目を開けると、真っ白な天井が見えた。
横を向くと額から何かが滑り落ちる。
酷く重たい頭を起こすと眩暈がして綾人は再び枕に頭を下ろした。
喉が酷く痛み、頭が痛い。 熱が出ているようだ。
「・・・はぁ」
ここ半年ほどは一度も熱は出なかった。 以前のように貧血を起こすこともなくなったし、少しの無理も平気だった。
だからもう大丈夫だと思ったのに、一晩外で過ごしただけで熱を出すなんて情けない。
「・・・・・っ」
そこまで考えて綾人はハッと息を飲んだ。
そうだ、自分はあの後、樹に追い出された後そのまま扉の前に座りこんで・・・樹が出てきてくれるのを待っていた。
とても寒かったことだけは、よく覚えている。
「ここは・・・・」
カーテンの隙間から入る眩しい光に目を細めながら綾人は周囲を見渡した。
見覚えのある室内に胸が詰まる。
あの時のままだ、綾人が出て行ったあの日のまま、全てがそのままにそこにあった。
壁にかけられたカレンダーは出て行った日付のまま。
棚には綾人が好きな作家の本、そしてお気に入りのDVD。
大事に育てていた観葉植物もあの時のまま元気そうだ、誰かが水を与えてくれていたのだろう。
部屋は何事もなかったかのように全てがあの日のままで、目が覚めた今、まるで何もかもが夢だったかのようだ。
込み上げてくる嗚咽を堪えながら綾人は無理矢理身体を起こした。
吐き気を感じたがなんとか押さえ、布団をはいで床に足を下ろすと冷たさに肌が粟立つ。
ふらふらとリビングへのドアへ向かい、深く息を吸い込んでそれを開いた。
すぐに目に飛び込んできたのは大きくな背中、台所に立ち何かしている樹の姿だった。
「・・・・樹さん?」
ハッとこちらを振り向いた樹にどこかぼんやりとしたまま綾人は首を傾げる。
どこかで、こんな場面を見たことがあるような気がした。
「何をしている。 ベッドに戻れ」
だが舌打ちを鳴らし目を逸らした樹に綾人は戸惑い、そして小さく溜息を吐いた。
「あの・・・、僕どうして」
いつのまにか着替えさせられていたらしい見慣れたパジャマの裾を握り締め、綾人は背を向けた樹へと近づく。
そんな綾人に気づいて、樹は諦めたように息を吐き後ろを見やった。
「玄関の前に倒れていたんだ。 とにかくベッドに戻れ」
煩わしげにそう言いながらも、目は綾人の体調を測っているように見える。
そんな樹の眼差しにも見覚えがあった。
以前はよく熱を出した。 その度に樹はそんな顔をした。
「ごめんなさい・・・、また、迷惑」
「綾人!」
ふらりと前に倒れそうになった綾人が膝をつく前に、樹の腕によって抱きとめられる。
そのまま横抱きに抱えられ、ベッドへと戻された。
「樹さん・・・・、ごめ」
「今は、何も考えなくていい。 ・・・・考えるな」
綾人を横たえ、布団を掛けると樹はベッドの端に腰掛け汗が浮かぶ額を指先で撫でた。
そして枕の横に落ちている濡れたタオルを取るとリビングに戻り、すぐに戻ってきたその手には小さめの皿を持っていた。
「少しでいいから、食べるんだ。 熱が下がったらあの男にでも迎えに来てもらえばいい・・・・」
湯気が立つそれに思わず目が潤む。
いつも綾人が熱を出すとこうして、お粥を作ってくれて食べさせてくれた。
「樹さん・・・・」
サイドテーブルに皿を置き、綾人の身体を起こすと背中に枕を置いてくれる。

もう期待しないと、二度と顔を見せるなと言ったのに、こんなところは変わっていない。
優しくしてくれるのにたいした意味などない、分かっているのにそれに縋りたくなる。
手を伸ばせば、届くんじゃないかと期待してしまう。
「ほら」
スプーンで掬ったお粥を口元に運ばれる、一度樹の顔を見て、それから綾人は口を開いた。
「美味しい・・・・・」
ポタリと、涙が零れ落ちた。
懐かしい味、懐かしい光景に涙腺が壊れてしまったかのように涙が止まらない。
「っ・・・・・」
もう駄目だと思った。
離れてなんていられる筈がない。
もういい、どんなに邪険にされてもいい。 憎まれたって構わない。
樹の傍にいたい。
「ごめっ・・・なさ」
「泣くな。 頼むから、泣かないでくれ・・・・」
顔を両手で覆い、肩を震わせる綾人に手を伸ばし、樹はその背中をさすった。
あやすように、慰めるように動くそれが更に綾人の胸を詰まらせた。
どうして今更そんなに優しいのか、最後だと思っているから、だからそんなに優しいのかと思うと堪らなかった。
自分から出た。 もう傍には居られないと逃げて、この場所を捨てたのは自分自身なのに。
捨てないで欲しいと心が叫ぶ。
樹を待つだけのこの場所には居られないと思った。 他の誰かの存在を知りながら知らない振りをして、いつか自分の所に来てくれると待っているだけなんて耐えられなくて逃げたのに。
それでもいいとさえ思っている。
時々でもこうして会えるのなら、それでも。
「傍に、い、いたいんです・・・・、お願いします。 僕、僕を・・・樹さんの傍に居させて下さ」
「ふざけるなっ!」
「樹さ・・・・」
背中をさすっていた手が離れ、樹は立ち上がると苛立たしげに髪をかきあげ怒りを抑えるかのように固く目を閉じた。
そして深く息を吐き、自分を見上げて泣く綾人の顔を見据えた。
「・・・お前はあの男を選んだんだろう。 あの男の元へ戻るんだ・・・、またここを出て、俺の前から消える・・・・。 俺に、二度失わせるつもりか・・・」
「っ・・・違う! 高井戸さんとはっ・・・・、そう・・・しようと思った。 でも出来なかった!」
「嘘をつくな!」
「嘘じゃないっ、本当です!・・・・僕は、僕は樹さんが、好きだ・・・・」
初めて告げた言葉だった。
2年も一緒にいて、一度も伝えたことなどない。
伝えることが怖かったから、言えないまま消えなかった言葉。
それを口にした途端、ストンと何かが収まったような気がした。
もう何も怖くない気がして、綾人は息を飲み目を瞠る樹を見つめた。
「僕は樹さんが好きです。 ずっと、出会った時から、好きだよ。・・・樹さんの傍に居られないなら、僕は生きていられない。 迷惑なのは分かってる、でも、どうしてもちゃんと伝えたかった。 何も言わないまま・・・逃げてしまったから」
ぎゅっと手を握り締め、綾人は唇を引き締めた。
生まれてから初めて、胸を張って言えたかもしれない。
ほんの少しだけ、強くなれた気がした。
「自分勝手な事を言ってるのは分かってる・・・。 でも言わなくちゃ後悔する、何も言わないまま逃げても仕方ないって分かったんだ。 だから、樹さんが聞きたくなくても言わせて欲しい。 僕は樹さんが好きだった・・・、だから耐えられなくて、ここを出たんだ」
「お前は、一度もそんな事」
「言えなかったんだ。 言ったら、困らせるんじゃないかと思って、うっとおしいと・・・・思われたくなかった」
樹の顔がぐしゃりと歪み、目元を片手で隠すと俯いて震える息を吐いた。
いつも大きくて凛々しく見えていた樹が何故か小さく見えた。
「樹さん・・・・・」
「本当なのか・・・・。 本当に、俺が好きなのか」
「好きだよ・・・・、だから辛かったんだ。 樹さんが、他の人と会っているのが辛かった。 会いに来てくれないことも、待つだけの自分も、嫌だったんだ・・・・。 でももう、それでもいいよ。 樹さんが許してくれるなら、ここで、樹さんを待っていたいんだ・・・・。 会いに来てくれるまで、僕はずっと、待ってる」
「っ・・・・・」
気がつくと綾人は樹に抱きしめられていた。
骨が軋むほどきつく抱きしめられて綾人は溜息を漏らした。
懐かしい匂いが鼻腔を擽る。
この匂いに、ずっと抱きしめられたかった。
「分かっているのか、ここに戻ってきたら、もう二度と俺はお前を逃がさない。 もし逃げようとしたら、俺は・・・・お前を死なせてしまう・・・・・」
絞り出すように抑えた声が耳に響いた。
樹の身体が震えているのを感じて綾人はその背中に両手をまわし抱きしめた。
「もう逃げないよ・・・・。 傍に置いてくれるなら、もう何も望まないから・・・、我慢するからだから」
「二度目はない。 次に逃げ出すなら・・・・、遠くに逃げてくれ・・・・・・。 俺は、お前を死なせたくはないんだ。 だが見つけたら、きっと俺は耐えられない。 お前を」
「樹さ」
「・・・お前を、愛しているんだ」
心臓がどくりと音を立てた。
低く染み渡る樹の声が、綾人の息を止める。
抱いていた手を離し、樹は綾人の顔を上げさせ苦しげに眉を顰めた。
「びっくり、した。そんなこと言ってもらえるなんて、考えてもなかったから」
信じられなかった。
ただ綾人は自分の気持ちを伝えたかった。
そして許されるなら、傍に居させて欲しかっただけだ。 それが、まさか樹にそんな言葉を与えられるなんて露ほども考えていなかった。
だから信じられなくて、綾人は樹から目を逸らした。
「とにかく、その・・・、僕は」
「綾人、頼むから俺を見てくれ。 綾人・・・・、俺はお前を愛している。 本当だ。 だがお前は、俺を見てくれなかった、いつも俺を見ていなかった。 俺が何をしても、何を言っても、お前は俺を見てなかった。 初めはお前が何か反応してくれるんじゃないかと思って・・・・、他の女を抱いた」
ヒュッと喉が鳴った。
そうだと知っていても、実際に樹の口から聞かされると苦しくて胸が痛い。
唇を震わせる綾人に樹は目を閉じ、口を開いた。
「お前は、何の反応も見せなかった。 気づいたはずだ、女の匂いと、跡を見てお前は気づいたはずなのに、何も言わなかった・・・・・・。 何度繰り返しても何も言わない。 だから、お前に会うのが辛かった・・・・」
どんどん深みにはまり、どうしていいか分からなかったのだと顔を歪ませる樹に綾人は両手を伸ばした。
樹の頬を両手で包み、零れる涙をそのままに口付けた。
「綾人・・・・」
樹の大きな手が綾人の頬を撫でる。
優しいその仕草にまた涙が零れ落ちた。




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