[携帯モード] [URL送信]

運命はその手の中に
第1話



「そろそろ、ここを出て行こうと思っているんです」
そう告げた瞬間、あの人の秘書だという男は、ただ微かに眉を寄せただけだった。



出会ったのはあの人には決して似合わない場末のバー。
飲めもしない水割りを飲み干して、ここを出たら死のう。 人生を閉じようと思っていた僕の前にあの人は突然現れて、そして僕のもうすぐ消えてしまうはずだった命を買い取った。
いらないならくれと、そう言って僕を連れ帰って、生まれ変わらせてくれたのはあの人だった。
切れ長のきつい双眸と、いつも厳しく引き締まった口元が僕の為だけに和らぐのが、とても心地よかった。
あの人は優しくて、いつだって優しくて。
優しかったから僕は、自分がどれ程のものか忘れていたんだ。
高校生で親を亡くして、引き取ってくれた親戚に病弱なせいで疎まれて。
高校だけは出してもらったのに、その体の弱さのせいでどんな仕事も続かなかった。
やっと独り立ちしたのに、仕事が続けられないせいで家賃さえ払えなくなって、帰る部屋を失って、熱も下がらなくて、咳も止まらなくて、お金もなくて、もう死んでしまおうと思った。
もういらないと、思ったんだ。
だけどあの人は優しくて、痩せて骨だらけの、全然柔らかくない僕の体を優しく何度も抱いてくれて。
俺はいらなくなんてないんだと、そう言ってくれたんだ。
だけど僕はあの人に何も返せなくて、何の言葉も返せなくて、ただあの人に優しくされるだけの存在でしかなくて。
あの人が来なくなって、やっと気が付いた。
あの人は、僕だけで満足できるような人じゃない。
あの人は、もう僕をいるとは、きっと言ってくれない。




綾人は秘書の男が帰っていった廊下をぼんやりと眺めて、小さな溜め息をひとつだけ漏らした。
社長に報告しておきますとだけ告げた男が、他の言葉を吐いてくれるなど期待していたわけではない。
ただ、2年以上も顔を合わせてきたのに、最後の言葉がそれだけというのはやはり悲しい気がした。
だけど男は自分の存在をもともと認めていたわけではないから、仕方がないのだろうと綾人は顔を歪ませた。
2年、もう2年だ。
テレビも新聞もあまり見ない綾人はよく知らないが、広く名の知れた大きな企業を経営しているというあの人に拾われて、2年。
「樹さん・・・・・」
奥平さんと、最初の頃は下の名前で呼ぶことが出来ずにそう呼んでいた綾人を抱き寄せて、樹と、呼んで欲しいと言ってくれていたあの人は、最後に顔を合わせてくれるだろうか。
最後に一度だけでいい、笑いかけてくれるだろうか。
毎日のように綾人の為に用意してくれたマンションに来てくれていた樹が、1年が過ぎるころから徐々に来なくなって、3日に一度になり、一週間になり、一ヶ月になって。
そして2年が過ぎた今、樹の顔をもう2ヶ月近く見ていない。
電話さえくれなくなってようやく、いや本当は樹が少しずつ離れていることに気付いていたのに、怖くて何も言い出せなかった。
樹の周囲から女性の存在を嗅ぎ取っても、綾人には何も言えなかった。
もういらないと、言われるのが怖かった。
お前なんてもういらないと、樹の口から言われるのが怖かった。
だけどいい加減現実を見なきゃいけないんだと、いつまでも樹に甘えていてはいけないんだと思って。
やっと、綾人は秘書の男を呼びこのマンションから出て行くと告げた。
生きていたって仕方ないなんて思っていた2年前の自分を拾って、救ってくれた樹にこれ以上迷惑はかけたくない。
もう、1人で生きていける糧をもらったから。
もう、大丈夫だから。
だからせめて、最後に一度でいい、笑いかけてくれないだろうか。
しばらくその場に立ち竦んだまま、綾人は諦めにも似た笑みを浮かべていた。




[次へ#]

1/13ページ

[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!