不可解な熱 7 翌朝、渡したネクタイを締めた高田が寝室から出てきた時、どうしてあの色のネクタイを自分には似合いもしないのにわざわざ買ったのか加賀谷は一人笑った。 あの色に見たのは高田だったのだ。 淡い藍色、それが高田にはよく似合った。 照れくさくて新聞に目を落とす、そんな加賀谷の隣で高田は加賀谷の作った朝食に口をつける。 今までにはなかった穏やかな時間。 加賀谷は新聞の影からそっと高田を盗み見た。 どこといって特別なものなどない普通の男。 さしたる趣味もなければ、人に自慢できるような特技もない。 だが優しく人を包み込む穏やかさに満ちた雰囲気。 実際、柔らかく包み込むその温かさに加賀谷自身救われているような気がする。 だから傍に置いておきたいのか、傍に居て欲しいのか・・・。 自分自身どうしたいのかなど分からない、だが手放したくはない。 それからというもの、日を空けずに加賀谷は高田を呼び出した。 どことなく明るくなっていく高田が、会社で同僚と談笑しているだけでその日一日機嫌が悪く、夜高田に当り散らしてしまう。 何事もなければ蕩かすように甘く優しく接することが出来る。 まるで恋人同士のようだと加賀谷は暗く哂う。 そんな甘い関係ではないと思いながらも、それが正しくも思えた。 高田の夜の時間を取られたくなくて、同僚に高田を利用することを禁止した。 自分の仕事は自分でするようにとまるでよき上司のように言いながらも、実際は高田が残業するのも、他の男の仕事を手伝わされるのも嫌だっただけだ。 子供じみた独占欲。 そんな自分に呆れつつも、自分だけが独占しておきたかった。 そして高田が少しずつ、自分に心を開いてくれているような錯覚。 だがそんな甘い期待も、課長の一言で砕け散った。 「この高田君が今日限りでうちを退職する、本当は内緒にしておいてくれと言われたんだがそれじゃあんまりにも今まで共に働いてきて寂しいじゃないか。そのうち送別会をしよう。」 その時の感情をどう言えばいいだろう。 驚きと怒り、そして絶望。 周囲のざわめきも耳から遠ざかり、ただ一点、蒼白した高田だけを見詰めた。 黙って俺から遠ざかろうとしている。 そう思うと殺意さえ感じた。 課長が何か言っている間に逃げ出した高田を、周囲の目も忘れて追いかけた。 逃げようとする高田を捕まえ、無理やりタクシーに乗せてマンションまで連れてくると、高田は怯えて体を震わせている。 思わず高田の体を壁に打ちつけ、前髪を掴んで顔を上げさせた。 「どういう事だ・・・。いきなり退職だと?俺に一言も言わずにか?」 高田の襟首を掴み、苦しくて顰める顔を見据えて加賀谷は低く唸る。 逃げ出そうとしているなら、無理やりにでも繋ぎとめておくだけのこと。 絶対に、逃がさない。 「どこにもやらねぇぞ・・・、どこにも逃がさねぇ・・・。」 怒りのままに高田の体を肩に担ぎ、寝室のベッドに投げつけた。 ぐっと高田の顎を掴み、歯がぶつかり合うような口付けを落とし、体を抱き締める。 殺してやろうか・・・。 一瞬でもそんな考えが浮かんで、加賀谷はその考えを押し殺した。 ネクタイを外し、それを腕に巻きつけようとすると突然高田が抵抗し始める。 「嫌だっ・・・!もう嫌だっ!こんなのはもう嫌!」 泣きじゃくりながら訴える高田を鼻で笑い、加賀谷は尚も腕を拘束しようとする。 「誰が逃がすかよ・・・。」 「・・・っもう・・・、もう加賀谷さんの事なんて好きじゃないっ!僕は加賀谷さんを好きじゃないっ。」 ハッとしたように加賀谷は身を起こし、顔を覆う高田を凝視した。 もう好きじゃない。 その言葉が加賀谷の胸に突き刺さる。 「それは本気か・・・・?」 自分の発した声が、酷く掠れている。 咽喉が苦しくて、思うように声が出なかった。 これはもう俺のものではないのか・・・? 「本気で、言っているのか?・・・もう俺の事は好きじゃないのか。」 確かめたくもないのに、否定して欲しくて何度もそう問いかけた。 「ぼ・・・僕は、もう加賀谷さんとは・・・会わない。」 高田の目から溢れる涙にも気付けないほどに、加賀谷は動揺していた。 「お前も・・・俺の前から消えるのか・・・。」 小さく呟いた声がまるで自分の声ではないように弱々しい。 「・・・分かった、お前の望み通りにしてやろう。二度とお前の前には現れない、それで満足か?それでお前はこれから自由になるんだ、嬉しいか!?」 高田の体から身を離し、立ち上がって加賀谷は怒鳴りつけた。 手が震える。 「出ていけ・・・、お前こそ二度と俺の前に姿を見せるな。もし俺の前に現れたらその時は、鎖で縛り付けて閉じ込める。それが嫌なら二度と顔を見せるな!」 ビクリと体を強張らせた高田を睨みつけ、加賀谷は荒い息を吐く。 糸が貼ったような緊張した空間に震える高田の腕を取り、力任せに抱き寄せた。 「くそっ・・・、なんでお前なんかに・・・っ。」 抱き寄せたときと同じように唐突に高田の体を離し、加賀谷は顔を背ける。 これが最後だ、もう高田は俺のもとには来ない。 俺は本当に温もりを失ってしまったのか。 「出て行け・・・・。」 顔を背けた加賀谷に高田が手を伸ばす気配を感じて、怒りのままにその手を振り払った。 同情されるなどまっぴらだ。 どうしても俺から離れると言うなら、もうこれ以上温もりを残してなど行くな! 顔を見たら自分が止められなくなるような気がして、加賀谷は高田の顔を見ることが出来なかった。 「加賀谷さ・・・・。」 「出て行け!今すぐだ・・・・!」 しばらく逡巡していた高田が部屋から出て行く音が聞こえる。 そして玄関の扉が閉まる音を聞いた時、加賀谷は全てを失くしたと気付いた。 目の前が暗くなっていく。 「くそっ・・・・。」 手元にあった枕を壁に投げつけようとした時、高田が忘れていったネクタイが目に入った。 それを掴み上げ、額に当てる。 失くしたものはもう二度と戻ってはこない。 自分を捨て去ったものは、もう誰も戻ってこない。 「はっ・・・、お笑いだな、失くして気がつくなんて・・・。道化もいいところだ・・・。」 好きじゃない、そう言われて初めて気がついた。 自分はいつしかあのつまらない男に想いの全てを持っていかれていた。 どうしても手離したくない、傍に居て欲しいと願うのは、好きだったからだ。 だがもう遅い、あいつはもう此処には戻ってこない。 何故もっと優しく出来なかった。 何故もっと早くに気がつけなかった。 今更思っても仕方のないことばかり考えてしまう。 初めから、あいつだけは特別だった。 他の人間とは違うと思いたくて、試すことばかりしていた。 そしてあの温もりが、ひたむきな純粋さが、自分だけのものだと思いたくて縛り付けた。 誰とも違う、柔らかな温もりが、自分を暖めてくれると願って。 あいつが逃げ出してもしょうがない、俺は優しくなどなかった。 本当の絶望とはこんなものなのか。 欲しいものなど他にはなにもない、本当に欲しいものはこの手をすり抜けていった。 終わったのだと認めたくなくて、加賀谷は酒に溺れるようになっていった。 [*前へ][次へ#] [戻る] |