恋狂い
7
冷たく水が滴るものが額に当てられ、唇に温かな感触を感じて真澄は軽く身じろいだ。
「う・・・・・。」
押し付けられ、唇を塞がれて息苦しさに呻くと髪を優しく梳かれた。
薄っすらと瞼を開けると暗い室内を小さな光が照らしていた。
柔らかく体を包み込むシーツに気づき、真澄は目を彷徨わせた。
「熱が出ているんだ・・・・、ゆっくり休め。」
真澄が寝かされているベッドの横のソファに柊が座っている。
手を伸ばせば届くところに居る男に、真澄は初めての出会いを思い出す。
あの感触は、この男の唇だったのか・・・・・。
あの時には、すでにこの男は自分を狙っていたのだろうか。
「此処は・・・・・・。」
見渡せば真澄のアパートの一室が丸々入っても余るほどに広い室内。
壁一面の窓からは月が覗いていた。
「俺の家だ。お前はこれから此処で暮らすんだ。」
柊の言葉に真澄は目を瞠った。
「僕は・・・・自分の家に帰る・・・。此処に住むなんて・・・嫌だ・・・・。」
呆然と帰ると繰り返す真澄に柊の鋭い視線が突き刺さる。
柊の顔が凶悪に歪むのを真澄は失意の中で見つめた。
「まだ分からないのか。お前にもう自由などない・・・・。これからは何をするにも俺の許可が要ることを忘れるな。」
すでにアパートは解約の手続きが完了し、勤めていた会社にも退職願を出していると告げる男に真澄は青褪める。
柊が真澄の傍に歩みより、汗の滲む額から張り付いた髪をかきあげる。
その手の感触にさえ怯える真澄に柊は顔を顰める。
「大人しくしていれば、お前にはいくらでも贅沢をさせてやる。だが俺をあくまで拒否するなら、お前の家族は皆首を括ることになる。」
冷酷な柊の言葉に真澄の目に涙が溢れる。
家族を助けたい。
だがこの男をすんなり受け入れる事など真澄には出来るわけが無かった。
選択肢は無いという柊の言葉どおり、逃げ場を塞がれていく。
「嫌・・・・、嫌だ・・・。」
柊の視線から逃れて真澄は体を捩る。
途端に体に響く鋭い痛みに真澄は呻いた。
「しばらく眠れ・・・・・。」
柊に背中を擦られて真澄は体を強張らせる。
だがいつまでも優しく触れる手に、真澄はいつしか夢の中へと落ちていった。
真澄に自由は全く与えられなかった。
柊の自宅から出ることは許されず、誰にも連絡さえ取らせてはもらえない。
真澄の両親の多額の借金は利子の分を全て帳消しにされ、借用書は銀行へと戻された。
そんな事をいとも簡単に成す柊の権力に真澄は絡め取られていた。
常に誰かが真澄を監視し、自由に歩きまわれるのは家の中と高い塀で囲まれた庭くらいだった。
柊に拘束されてから2週間。
全く柊に心を許す気配のない真澄に日毎柊の顔は険悪になる。
柊に触れられる度に怯える姿に苛立ちを募らせているようだった。
だが真澄にとって柊は憎しみの対象でしかない。
無理やりに体を奪われ、軟禁されて家族にも会うことさえ許されない。
そして、真澄の最も愛しい存在にも・・・・・・。
「真澄さん、紅茶入れました。そんなところに立っていると体が冷えますよ、中に入ってください。」
広い庭で空を眺めていると後ろから若い男の声が真澄に呼びかけた。
振り返ると居間からこちらを心配げに見ている大田が居た。
まだ20歳になったばかりの大田は下っ端の構成員だ。
若いながらもよく気が付き、腕っ節も強い。
頭の回転も速いことから、真澄の監視役としてこの家にやってきた。
もちろん監視しているのは大田だけではない。
家の周りにも常に数人の男が見張り役として張っているらしかった。
万が一にも真澄が太田を振り払って逃げ出すことがないようにだ。
無愛想で厳つい男達より、真澄は明るい大田のほうが一緒には過ごしやすかった。
まだ成熟しきっていないその体を毎日鍛えているのだと大田は笑って言う。
そんな何気ない会話に、真澄は少しの安心感を感じていた。
「ありがとう、頂くよ。」
もともと細い真澄の体が、日増しに小さくなっていく事を大田は心配している。
だが捕らえられ、縛られたこの家の中で真澄は満足に食が進む事は無かった。
特に柊の早い帰宅に食卓を共にさせられると全く食べられなくなる。
真澄はもう一度空を見上げて小さく溜息を吐いた。
そして大田の待つリビングへと足を向けた。
ソファに腰をかけるとすぐに大田が紅茶を運んできてくれた。
大田の入れてくれた紅茶をゆっくりと傾けながら真澄はすぐにその話術に引き込まれる。
ナンパした女の子に振られた話。
友達と悪ふざけで乗ったバイクで田んぼに頭から落ちた話。
大田が身振り手振りで話す話題に、真澄は思わず顔を綻ばせた。
小さく微笑んだ真澄に大田は言葉を止める。
「・・・・・・?」
どうしたのかと太田を見詰めて頭を傾げると大田の顔が破顔した。
「真澄さん、もっと笑いなよ。その方が絶対いいですよ!」
大田が大きく口を開けて笑うと、喧嘩で欠けたという犬歯が覗いた。
それが目に入ったとき、真澄は笑っていた。
笑いが止まらずにお腹を抱えていると大田が照れたように頭を掻く。
「楽しそうだな・・・・・・、真澄・・・・・。」
突然響いた低い声がリビングの雰囲気を打ち破る。
その声に真澄は体を震わせる。
大田が慌てて立ち上がり、柊へと頭を下げる。
「お帰りなさい!社長。」
柊の突然の帰宅に笑顔が消えた真澄に大田は気遣わしげな視線を寄越す。
その時、柊の拳が大田の顔を直撃していた。
真澄は驚いて立ち上がり、壁にぶつかって倒れた大田の傍に走った。
「何を・・・・・・。」
大田の前に座り込み、顔に手を伸ばそうとすると髪を掴まれ後に引かれた。
「痛いっ・・・・。」
凄まじいまでの柊の形相に真澄は背筋に冷たいものが走る。
大田は殴られて鼻から血を流したまま柊に土下座をした。
「すみませんっ・・・・・!」
手をついて謝る大田の姿に、真澄は理不尽なものを感じた。
いきなり殴りつけたのは柊だ、何故大田が謝らなければならないのか。
「出て行け、その面を二度と見せるな。」
青褪めた大田を残して、柊は真澄を抱きかかえて部屋を出て行こうとする。
柊と共に来たのか真澄を社長室まで案内した座間という男が柊と入れ違いにリビングに入り、大田の腕を掴んで立たせていた。
「柊さんっ・・・・・!」
柊の足を止めようと肩を叩いて叫ぶと冷たい眼差しで拒まれた。
何がそこまで柊を激昂させたのか真澄には分からなかった。
柊が真澄を抱えて寝室へと消えた後、大田は座間の顔を見上げて呟く。
「俺・・・・、ただ元気を出して欲しくて・・・・・。それで・・・・。」
大田の顔にこびり付いた血をハンカチで拭きながら座間は息を吐いた。
「分かっている、お前の事は私から社長に取り成しておくから。」
この若い男がした事は柊の情人にとっては決して悪い事ではない。
だがそれが柊の逆鱗に触れた。
柊の怒りが嫉妬から来ているのは座間には手に取るように分かっていた。
あの柊がどれほどあの凛とした細い男に執着しているのかも。
情人にとって、不幸でしかない出会いは柊をも堕としていく。
もしかしたら、柊をも狂わせてしまうほどに・・・・・・。
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