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Blue lace flower
第9話



それが世間一般でいうところの愛なのかと聞かれれば、分からないとしか応えられない。
うっとおしくて会いたくはなくて、何もなかったように自分の前から消えて欲しいと確かに望んでいた。
だが本当に嫌で仕方ないなら、遠ざける方法は探せばきっとあった。
警察に訴え出ることも出来ただろうし、最悪刺し違えてでも本当に嫌ならば逃げたはずだ。
そうしなかったのは、愛おしく感じる心が僅かでもあったから。
まるでこの世には己しかいないかのように、全力で心を伝えてくるあの男が、酷く哀れで愛しくて。
いつしか、常に心の片隅にはあの男の姿があった。
うんざりしながらもどこかであの男に愛されていることに慣れていた。
常に男の存在が纏わりついていて、そしてそれが当たり前で。
いなくなったらきっと、胸にぽっかりと穴があいてしまうのだろう。
何かあるごとに、あの男の存在を確かめて、そしていないことに落胆する。
それは愛なのかと問われれば、きっと愛ではないのだろう。




蒸し暑い空気と降りしきる雨が梅雨の訪れを知らせる。
今年は例年より少し遅れて梅雨入りが宣言された。じめじめとした空気が苦手で、仕事以外では出来れば外出は控えたい。
それでも今日優斗は妹が去年プレゼントしてくれた淡い緑色の傘を差し、雨の中一人雑居ビルの一室を見上げていた。
麻雀店や飲食店が入ったそのビルの最上階に、高槻は自身の事務所を構えている。
以前連れていかれたことのあるそこに、今も高槻がいるかは分からない。
だが優斗から連絡を取ろうにも、連絡先などは一切知らなかった。
今までは何かあれば勝手に高槻から接触してきていたから、知る必要もなかったのだ。
この日の為に、優斗は今までほとんど使っていなかった有給休暇と本来の休日を利用して1週間の休みを取っていた。
高槻が自分に危害を加えることはないと分かってはいたが、もし何かあった時の為に部屋には書き置きも残してある。
雑居ビルの上を見上げたまま優斗は大きく息を吐き出し、そして一歩を踏み出した。
エレベーターに乗り込み、7階を押す。すぐに体が浮き上がる感覚がして壁に背中を押し付けた。
思えばこれまできちんと向き合って話をしたことなどなかったように思う。
だから優斗は高槻のことは何も知らない。
何が好きで、何が嫌いかも。
普段は何をしていて、どんなことを考えているのかも、何も知らない。
それを知らないままなのが少しだけ惜しい気がした。
最後にきちんと顔を合わせて、そして決別を伝えようと思っていた。
あの男がすんなり納得するとは優斗とて思っていない。
だがそれでも、会って話さなければと思っていた。
これまで避けてきたそれに、お互いが向かい合わなければいけないのだ。
放置してきたのは優斗が弱かったせい。
この関係に振り回されていたのは本当は優斗ではなく、きっと高槻の方。
口では嫌だと言いながらも受け入れる優斗を、あの男はどう感じていたのだろう。
小さく音を立てて止まったエレベーターが、ゆっくりと扉を開く。
優斗はぎゅっと両手を握り締め、高槻の事務所へと向かった。
両開きの扉の向こうには人の気配があった。数人いるであろう男の声が廊下まで響いている。
何の事務所なのかも扉には何も書かれていない。
少し薄汚れたそれを思い切りよく開くと、すぐにいくつかの机と椅子とそこに座る男達が目に入った。
昔と全く変わらず壁は黄色く変色し、煙草の煙が充満している。
「高槻はいますか」
柄の悪そうな男達が優斗が口にした名前に眉を顰め、そしてその中の一人が立ち上がり優斗へと歩み寄ってくる。
口に煙草を銜えたままの男に、優斗は思わず顔を背けた。
「高槻がいないなら、片岡さんでもいい。ここにいないなら呼んでくれないか」
優斗の上から下までをじろじろと見て胡散臭そうにする男に、ぞんざいに言い放つと部屋に居た男達の視線がきつくなる。
それを無視して優斗は再び口を開いた。
「久江優斗だ。言えば分かる」
自分の名を口にすると、目の前に立っていた男が目を見開いて。
「片岡さんに聞いたことがある。少し待ってろ」
そう言って男は部屋の奥にあるドアへと向かい、そこを数回ノックして中へと消えていった。
何かを言っている声が聞こえて、それからすぐに奥の部屋から片岡がほんの少し驚いた顔をして飛び出してきた。
「優斗さん?どうしたんですか」
冷静沈着を絵に描いたような男が初めて見せる表情に苦笑しながら優斗は小さく首を傾げた。
「高槻に会いに来た。話があるんだ」
「・・・若は今外出してます。でもすぐ戻りますから、こちらで待っていて下さい」
片岡が奥の部屋へと優斗をいざない、それから男達にお茶を用意するように告げた。
奥の部屋は高槻が使っているのだろう、そこだけは壁が白く煙草の匂いもほとんどしなかった。
以前来たときにはここも煙草臭くて、すぐに立ち去ったのを覚えている。
大きめのソファに座り、何気なくそれらを眺めていると後ろから小さな笑い声が聞こえた。
「綺麗になったでしょう。ここ、全部やり変えたんですよ」
そういえばカーペットも綺麗になっているし、染みがついていたソファも変わっている。
「優斗さんが来ても大丈夫なように、変えたんですよ」
「・・・来る予定なんてなかったけど」
「それでも、いつ来てもいいようにしたかったんです。どうぞ、お茶です」
比較的若い男がお盆に載せてきたお茶を優斗の前に置き、片岡も向かいのソファに腰を下ろした。
そういえば忘れがちになるが、この目の前の男もお茶を運んできた男も、そして向こうの部屋にいる男達も普段であれば接することもない人種なのだ。
ごくごく一般的なサラリーマンである優斗が、こうしてやくざ者の事務所でふんぞり返っているのは傍から見るとおかしいだろう。
そう思いながら、優斗は自嘲気味な笑みを漏らした。
「今若に連絡をさせてます。きっと飛んで帰ってきますよ」
くつくつと笑みを漏らしながら片岡が優斗を見やる。
「初めてですね。あなたから来るなんて」
「さっきも言っただろう、話があるんだ」
そっけなく応えると、片岡がすっと目を細め表情を変えた。
柔和にさえ見える男は、だがやはり裏の社会に生きる人間なのだ。
優斗を見据えるその目には、冷酷さが滲んで見えた。
「若はあなたを傷つけるようなことはしません。あなたを危険な目に合わせるつもりもない。あなたの家族さえも、若はきっと守るでしょう。それでも、ですか」
低く言われた声に優斗は軽く目を瞠る。
だがすぐに乾いた笑いを漏らし、出されたお茶に手を伸ばした。
優斗が何故ここに来たか、そして何を言おうとしているのか知っているのだ。
何故、とは思わなかった。
優斗の全てに目を見張っているのだ、大原に会ったことは既に知られていたのだろう。
「男とか女とかではなく、あの人はあなたという人間に心底惚れてるんです」
独り言のように呟いて、片岡はため息を漏らした。
高槻の為に存在し、高槻の為に生きている男。
どこかでその関係を羨ましく感じたことはなかったか。
誰に咎められることもなく、傍にいることが当然のその存在に。
自分には決して出来ないその生き方が、優斗には少しだけ羨ましかった。
「しばらく、そちらにいる奴らも席を外させます。もう若も戻ってきますから」
諦めたように立ち上がると、それだけ言って片岡は部屋を出ていった。
そして向こうからざわざわとした声がして、しだいに何も聞こえなくなった。
優斗はソファから立ち上がると高槻がいつも使用しているのだろう、革張りの大きな椅子へと向かいそこに腰を落とした。
柔らかくしっかりした作りのそれに身を預け、整頓されたとはいえない机の上へと目をやる。
電話の傍に置いてある小さめの茶色の布のケースが目に入り、何気なくそれを手に取った。
二つ折りになっているケースを開いて、すぐに閉じて両手で握り締める。
中にはいつ撮ったのか、まだ若い頃の優斗の写真が入っていた。
多分知り合った当初の写真なのだろう。誰かに向けて笑っている顔だった。
それを大事に持っているのか、時折出しては眺めているのか。
なんて恥ずかしい男だと思い、同時にやるせない気持ちになった。
会えない時、この写真を見ていたのだろうか。
そして、何を思っていた?
「ああ、くそっ・・・」
あった場所にケースを戻し、机に突っ伏して強く目を閉じる。
浮かぶのは、切ないまでにこちらを見つめ続ける男の姿だった。
どれくらいそうしていただろう、不意に物音がした気がして顔を上げ耳を澄ました。
時計を見ると、片岡が出て行ってから30分も経ってない。
すぐそこで足音が聞こえたかと思うと部屋の扉がゆっくりと開かれた。
「早かったな。えーと、おかえり?」
片手で頬杖をついてひらひらと手を振る優斗に、高槻がふっと笑みを漏らす。
急に気恥ずかしさを感じて優斗は椅子から立ち上がり、ソファに座り直した。
「なに突っ立ってんの?座れば」
二人きりで会うことなど、これまでいくらでもあったのに。
いつもは高槻が現れて連れ去られていたが、今日は自分から会いにきたのだ。
その内容がなんであれ、こうして優斗が自分から動いたのはこれが初めてだった。
だからか、妙に居心地が悪い。しかも高槻に応えるために来たのではなく、その逆なのだから。
「話があって来たんだ。もう、分かってるとは思うけど」
高槻が向かいに座るのを待って、優斗はそう切り出した。
それに高槻ははっと鼻で笑い、優斗を睨み付けた。
糸を張ったような緊張感が辺りに漂う。
暗い目をしてこちらを見据える高槻を真正面から見返して、優斗は覚悟を決めて口を開いた。
「終わりにしたい。もう俺には関わらないでくれ」




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