春のかたみ
五
土下座する平助君の後ろに立っていたのは、逆光を背に受けた左之助さんだった。
「こんな所に居やがったのか、お前ら」
呆れた表情で見下ろされる。しかし衣服の乱れた私と、土下座する平助君を見てその表情が一変した。
「……平助、お前っ」
「あ、やっ、その!違うんですよ左之助さん、平助君は悪くないですって!」
拳を握り締めた彼を慌てて制止する。
「何がどう悪くないんだ?平助が土下座してるってことは、こいつがお前に何かしたんだろうが」
「……っ、」
平助君もまた拳を握り締めた。左之助さんと違って、怒りを押さえ付けるためにではない。自身がしたことに対して悔やむ心があるからだろう。
私は繰り返す。
「平助君だけが悪いんじゃないです。……これは私達の間で起きたことですから」
ここは収めて下さい。そう言外に告げる。
左之助さんが眉を潜めた。それでも一度溜息を吐き出し、感情を落ち着かせてくれる。
睨むような視線が平助君を見下ろした。
「平助。俺にぶん殴られたくなかったら、今すぐ道場に戻れ。自主参加じゃねえお前んとこの隊士達が、解散出来ねぇで残ってる」
確かに調練は隊務の一環だ。いくら師範役が時間を過ぎて戻らなくとも、勝手に終われるものじゃない。
平助君と目が合う。気まずさを含んだ視線に私は笑顔を返した。
「いいよ、行って。平助君は組長なんだから」
平助君が立ち上がる。部屋を出ていく際にもう一度だけ『ごめんな』と謝罪が告げられた。
■ ■ ■
再び気まずい雰囲気が残される。
どうしてこうも自分に何かある時に誰かと鉢合わせてしまうのだろうか。
広い屋敷とはいえ男所帯の集団生活。個人の私的生活など存在しないということなのかもしれない。
一人で諦めの境地に至っていると、左之助さんから声が掛かった。
「いい加減着物を直せ。……目のやり場に困る」
そうだった。いくら晒しを巻いているとはいえ、上衣は完全に肩から落ち、肘の辺りに引っ掛かっている状態。
ただ、それを左之助さんに言われると微妙な心境だ。
「私だって左之助さんの衣服に見慣れるまで、大分かかったんですけどね」
軽い皮肉を投げつつ着物を着直す。しかしここまで着崩れてしまうと、返って着替えてしまった方が早いかもしれない。どの道腰紐を解かねばどうにもなるまい。
一応直そうと試みる。が、どうにも衿だけは綺麗に詰まらない。
(あー、困ったな)
見下ろされる視線から、彼が満足していないことがわかる。普段の自分ならこの程度で良しとしてしまうのだが。
左之助さん方を伺う。
目が会うと彼は溜息のようなものを吐き出した。
「……隠れてねえんだよ」
彼の長い指が鎖骨の辺りをなぞる。
そこに触れていた平助君の唇と舌の感触を思い出した。
左之助さんの行動と発言を脳内で結び付ける。それらが指す意味を理解。
――痕が残っているのか。
片手で目元を覆う。……恥ずかしい。
「一度着直します。すいません、着物脱ぐんで外に出てもらっていいですか?」
左之助さんを見上げる。何故か眉を顰められた。
「お前な……。全っ然わかってねえ」
「?」
私は疑問符を浮かべる。
発言の意図が解らなかった。監察方としては由々しき事態かもしれない。
「間違っても、男の前で『脱ぐ』とか言うな。今度こそ襲われても知らねえからな」
以前の私だったら笑い飛ばしていただろう言葉。自分の顔が美女とは言い難いことぐらい自覚している。
それでも今だけは『有り得ない』と笑うことは出来なかった。
その言葉で過去の自分を振り返る。
「あー、そう、ですね。平助君には悪いことしちゃったかも」
思えば過去を含め、平助君の前でかなり煽るような行為をしていたことに思い至る。
「平助君に、ね。俺のことは数に入らねえ訳か」
……別にそういう意味ではなかったのだが。
琥珀色の瞳に浮かぶのは心外そうな感情。彼も立派に成人男性だ。
しかしそれは大人という意味でもある。
左之助さんは自身のことを短気だと言う。しかしさっきだって自分の感情よりも私の意思を尊重してくれた。
優しい人だと思う。彼が女性に人気があるのはそういう理由からではなかろうか。
「まぁ平助君は若いですし。左之助さんはずいぶん島原でモテるって聞いてますからねえ」
女の人には事欠かないでしょう?
そう微笑めば左之助さんの表情が変わる。
いかにも『しまった』と言いた気な顔だ。先程とは逆に左之助さんの方が気まずそうに指で頬を掻く。
「お前な、そういう情報は一体どこで仕入れて来るんだよ……」
がっくりと肩を落とす。どうやらあまり知られたい情報ではなかったようだ。
まぁそうだろう。本当の男同士なら自慢話にもなるだろうが、異性に『軽い』と思われるのは嬉しいことではない。
「まあ、諸士調役兼監察ですから」
「諸士調役って、お前いつの間に……。つうかそれ、口外しちゃまずいんじゃないか?」
確かにそうかもしれない。が、私は笑って返す。
「いいんじゃないですか?左之助さん組長だし」
「いや、良くはねえだろうよ……」
呆れる彼を今度こそ笑い飛ばす。
私は着替えのためだと言ってその背を廊下に押し出した。
■ ■ ■
元治元年十一月。平助君が江戸に発って既に三ヶ月が経っていた。
私は盆に湯気の経った燗を載せて暗い廊下を進む。
最近では冷え込みも厳しくなって来ていた。
廊下の角を曲がる。
目的地の部屋はからは楽しげな笑声が漏れる。しかし楽しそうにしているのは、近藤さんともう一人の男だけだった。その男は藤鼠の羽織を着込んでいる。
どこか線の細さを感じさせるが、纏う空気に隙はない。流石北辰一刀流の手練といったところか。
伊東甲子太郎。
水戸学に明るく、剣客としての実力もある男。
彼が遂に弟を含めた七名を引き連れ、江戸より到着したのだった。
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