春のかたみ
三
「そう、なんだ」
少しだけ、複雑な心境になる。
必要に迫られれば、いつの日か私も同じことをするんだろう。
「名さんが気にすることはないのよ。それよりも……あの娘は大丈夫?」
千姫の所にも既に情報は回っているのだろう。京一帯に広がる八瀬の里に属する鬼の数は計り知れない。その情報力も。
「恐らく風間さんは気付いただろうね。千鶴ちゃんも自分が只人ではないことに気付いてる」
二人並んで道を歩く。
何気ない空気。世間話の空気を纏って歩き続ける。
公衆の場所の方が情報交換には安全な場合もある。近付かれ過ぎないし、後を付けられていればすぐに気付ける。
私は続けた。
「真実を知る日も遠くないんじゃないかな。血の濃い女鬼は多くない。その存在を知られれば、周囲が放っておかない」
隣を歩く千姫の表情が少しだけ硬くなる。
前方には大路同士が交わる辻。
互いに確かめなくても、そこまで行けば自然と別れる。暗黙の了解だった。
長時間の接触はまだ、双方避けた方がいいだろう。
私は新選組として八瀬の里に接触した訳ではない。
東の鬼の血を引く千鶴ちゃんの傍に在る者として。
古来、日ノ本の中心で鬼側の世界を鎮守してきた八瀬の里に近付いた。
今はそのことを誰かに知られたくはなかった。
「じゃあまたね、千」
軽く手を振って別れの挨拶をする。千姫も表情に明るさを取り戻して笑顔を作った。
「ええ。貴女があの娘を護ってくれる限り、私達は同胞。……今度は女の子として会いましょ、名さん!」
陽光のような笑顔につられてこちらも自然と口角が上がる。
人間が溢れる雑踏に紛れて見えなくなる姫鬼の背を、私は暫くの間視線で追っていた。
■ ■ ■
千姫と別れた後、鍛冶屋に赴き暁の鞘を受け取る。
なんの変哲もない黒鞘から暁を抜く。その白い刃を光沢のある本来の鞘へと帰した。
刃物を研ぐような音。かちりと音を立てて刀身が収まった。
暁を腰に挿し直す。
鍛冶屋に礼と代金を支払い、私は頓所へと来た道を戻る。
腕の傷も癒え、暁も元の姿を取り戻した。
私もいつまでも滅入っている訳にはいかない。
長州、土佐、薩摩の動向からは目を離すことは出来ないし。
幕府の慶喜公と朝廷の関係も常に気にしておく必要がある。
変若水の存在や羅刹化した隊士への対処、綱道氏の所在。各潘に助力している鬼達の存在もある。
そして何より、治安が悪化への対処として人員を増やした新選組の内部統制。
晴れて監察方へ復帰した際には、山積した問題が私を待ち構えているのだった。
■ ■ ■
屯所へと戻った私は久方振りに道場へ向かう。
汗をかくのは嫌いなんだけれど。
しかし今はそんなことも言っていられない。
隊務に復帰するというのに、腕が鈍っていてはまずいだろう。ただでさえ、監察方としての自分は実力不足なのだから。
木刀を打ち鳴らす音が重なり合う絶え間無い騒擾の中に、身を滑り込ませる。
今日の道場稽古の師範役は平助君が行っていた。
取り合えず稽古用の木刀を手にする。
手頃な相手がいないか首を巡らしていたところ、誰かに名を呼ばれた。
「姓さん!」
声が上がった方へと振り返る。そこには木刀を片手に汗を滴らせた一隊士、奥沢さんがいた。
「どうして貴方がここに?」
戸惑いを含んだ声。彼はまるで幽霊でも見たような顔をしている。
「どうして、って……怪我も治ったし、腕が鈍りそうだったから稽古しに来たんだけど?」
右手をひらひらと振って見せる。
実際に袖の下には目に付くような痕は残っておらず、痛みもない。
「まだ休んでいた方がいい!あの怪我では――」
私は静かに笑みを浮かべた。それは表情筋を意識的に動かすことで作られる、人工的な笑顔。
奥沢さんが表情の裏に潜ませた感情に気付く。私を制止する言葉が途切れた。
「ふうん。貴方がそれを言うんだ?」
次第に周囲の人間の目が集まり始めていた。水の波紋のように広がってゆく、微かなざわめきが耳に入る。道場の一角に僅かに異質な空気が流れた。
「おい、あれ誰だ?」
「確か監察方の……」
「天王山に向かった隊に……」
周囲から漏れ聞こえて来る言葉。
そんなものが聞き取れるのも、目の前の奥沢さんが黙っているからだ。
彼は私が次に発する言葉に恐怖していた。
『怪我をしたのは貴方のせいなのに』
私が、この言葉を紡ぐことを。
そんな感情の動きが表情に現れてしまっている。
別に、そんなことを言うつもりはさらさらないんだけどね。
「……忠告を無視するからだよ。貴方は自殺志願者か?」
「なっ」
私は笑顔に怒りを込める。奥沢さんが一歩足を引いた。
私が怒っているのは自身が怪我をしたことに対してではない。せっかく死なずに済んだ命を、むざむざ危険に晒す短慮さへの怒りだった。
「ちょっとそこー!一体何やってんだよ!?」
他の隊士達よりも一回り小柄な彼の声は、聞こえども姿は見えない。
道場の隅ならば気付かれまいとも思ったが、どうやら調練の邪魔になってしまったようだ。
「ああごめん平助君。邪魔だった?」
「……って、あれ?名じゃん」
何やってんの?
と目を丸くさせた彼に、私は不遜な笑みを湛えた。木刀を水平に掲げ、その先を向ける。
「稽古をつけてもらおうと思ってさ。……ねぇ、師匠?」
平助君の掌が木刀の先を掴む。
挑発的な態度を受け、彼の湖翠の瞳にも闘争を楽しむ感情が浮かび始めていた。
「なるほどな。――いいぜ。当分の間お預けになっちまうし」
口角を上げて言う平助君はいかにも楽しそうだった。
ざわりと周囲のどよめきが一際大きくなる。いつの間にか八番組の隊士を中心とした調練は中断となってしまっていた。
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