春のかたみ
二
視界の端に小さな小瓶が転がっていた。何か白い液体が詰められていたのだろう。中が少し白濁している。
「ん、く」
こくり。
粘度のあるそれが咥内に満たされていき、私は思わず嚥下した。
僅かに口の端から漏れた白い雫が顎を伝って鎖骨に落ちる。
「ん、はっ、ぁ……」
押し当てられていた唇が白い糸を引きながら離れていく。
私は乱れた呼吸を整え酸素を貪った。
「ば、か。自分で、飲めるっ、つの」
右腕に今まで以上の熱が宿っていた。正直、熱い。
「薬効で傷口が熱を持って痛むだろうが、明日までには塞がるはずだ」
「あー、はい、そうですか……」
呆れ口調で返す。
それにしても熱があって助かった。
赤く染まった頬も、目尻に浮かんだ涙も。全て熱のせいにしてしまえばいい。
今更になって彼の綺麗な顔を見るのが気恥ずかしくなっていた。
風間さんが立ち上がる。
「休め。俺はもう帰る」
私の意識は既に殆ど保てていない。それでもその背に一応感謝の言葉をかける。
「ありが、とう。来て、くれて……嬉し、い……」
段々と瞼が落ちていく。
開いた障子が閉じられる音とほぼ同時に、私も意識を失った。
■ ■ ■
身支度を整える。
右腕の傷はもはや殆ど確認できない程に完治していた。僅かに白い線が残っているだけである。
白い線を左手でなぞる。
結局、屯所に戻った私は負傷による熱で二日程寝込んだ。本来ならもう数日は発熱していたはずだったのだが。
薩摩潘邸より匿名で送られてきた薬により、呆気ない程簡単に熱は下がったらしい。
私は薬を与えられた時の事をよく覚えていないのだが。
夢現に金色の鬼に会っていた気がしていた。
日中の暑さはまだ厳しく、秋が近付いて来るにはまだ少し早い。
今日は【暁】の鞘を引取りに鍛冶屋へ赴かなければならない。腰に差された暁は、今は艶消しを施された変哲の無い黒鞘に収まっている。
あの禁門の変があった日。
暁の朱雲の鞘は風間さんの手によって深い皹が入っていた。あのまま放っておけば数日中に割れていただろう。
故に今は修理に出していた。
そういえば。
あの日、奥沢さんは何故飛び出したのだろう。
せっかく池田屋では助かったのに。
本人は六月に自分が死ぬはずだったことは知らない。だから、仕方がないとは思う。
それでも今の自分が無力感を感じているのは確かだ。
たとえ変わっても、物語は在るべき形に戻ろうとするのではないか。
しかし私には立ち止まっている暇は無い。悩んでいる暇も、迷っている暇も。
解ってはいるのに。
色々なモノが心の奥底で澱となって凝っている。それが私の意識と決断を鈍らせていた。
(あー、完全にPTSDだな。これは)
己の症状は自覚出来ている。したからといって、直ぐに治るもんじゃないが。
取り合えず、今は誰かを誘う気にはならなかった。人気のしない廊下を選びながら玄関へ向かう。
結局、屯所を出るまで誰にも見つかることはなかった。
観察方としての能力が確実に身に付いてきている。喜ぶべき事実すら、今は私の心を複雑にさせるだけだった。
■ ■ ■
閑散とした通りを歩く。
今は朝廷から幕府に長州討伐の命が下り、西国二十一潘が出兵準備を行っている。
長州は今、四カ国連合と交戦中だろう。
しかし戦力の差がありすぎる。数日と持たないだろう。もしかしたら、既に終わっているのかもしれない。
そして京は先の戦禍で家を失った者も多い。
内外に不安要素が溢れ、京の雰囲気は日に日に悪化していた。
人身が乱れれば犯罪も横行する。
町方も今は手が回らないんだそうだ。
そしてそれは新選組にとっても言えること。明日には平助君が江戸へ発つ予定だ。
あの、伊東甲子太郎を引き込むために。
一応土方さんに自分は反対だと告げている。彼は新選組のためにはならないと。
それには土方さんも同意してくれたのだが。
当の近藤さんが取り合ってはくれないらしい。
一度は直接直談判しにも行った。
しかし。近藤さんがあんまりにも悲しそうな顔をしたから。
私はそれ以上は何も言えなくなってしまったのだった。
そして今日に至っているのである。恐らくこの段になってしまえば、伊東さんの入隊は止められないだろう。
「はあぁ〜〜……」
盛大に溜息を吐き出す。
憂鬱だ。
ただでさえ最近気が晴れないというのに。待ち受けている頭痛の種は消えてくれそうにない。
「……ぷっ」
誰かが小さく笑いを噴き出す。
私はその気配を探し、見覚えのある姿を捉えた。
「……人を見て笑うとは失礼ではございませんか、千姫」
暗紅色の髪に山吹色の着物。牡丹色の瞳が印象的な少女。
八瀬の里を束ねる古の鬼の長がそこにいた。
周囲を確認してみるが、君菊さんの気配は感じられない。どうやら今日は一人のようだ。
千姫はにこにこと愛らしい笑みを浮かべて近くに寄って来る。
「あらやだ名さん、私のことは千でいい、って言ったじゃない!」
肩をぺしぺしと叩かれる。私は彼女の無邪気な様子に苦笑を浮かべた。
八瀬の里は【里】の名を冠していても、鬼独自の集落を持っている訳ではない。人に紛れ、人の傍で密かに血脈を繋いできた一族だ。
今この京には薩摩、長州、土佐、そして滅んだ筈の東の鬼が集結している。
いずれは千姫の助言と助力が必要となる。そのために接触を試みたのだった。
「では失礼致します。……今の京を一人で歩くなんて、また君菊さんが嘆くよ?千」
「あら大丈夫よ。それにお菊なら昨日は『お客』を取ったから、一日休ませているの」
にっこりと笑ってはいたが、その笑みには上に立つ者の自覚と責任が伺える。
君菊さんは千姫の護衛の他に、島原の遊女として諜報活動に就いている。
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