春のかたみ
一
「会津藩から正式な要請が下った。只今より、我ら新選組は総員出陣の準備を開始する!」
背中を預けた板越しに聞こえて来る、近藤さんの朗々とした声。
控えの間で待機していた私は、少し離れ位置にいる山崎君に視線を遣った。
「――総員出陣だってさ。それって私も出なきゃなのかなぁ」
日が当たらない控えの間とはいえ、空気はじっとりと蒸していた。
広間から漏れ聞こえてくる歓喜の声を聞きながら、私はうんざりとした表情で天井を仰いだ。
「何を言ってるんだ。止めたところで貴女は聞かないだろう?」
冷めた視線が降り注ぐ。
一緒に体感温度も下がってくれればいいのに。
最近以前に増して山崎君の態度がが厳しい。気のおけない仲、といえば聞こえは良いけれど。彼の私に対してのイメージは一体どうなっているのだろう。
「あー、うん。まあね」
私は気の無い返事を返す。それでも口の端には苦笑にも似た笑みが浮かんでいた。
■ ■ ■
「そういえば、千鶴ちゃん。もし新選組が出陣することになったら、一緒に参加したいとか言ってたよな?」
「……え?」
永倉さんが思い出したように口を開く。
以前十番組の巡察に同行した時の会話のことを言っているのだろう。
逡巡する時間は必要ない。私の中で返答は既に決まっている。
「名ちゃんも参加するんですよね。だったら、私も行きます」
それは曖昧にではなく、はっきりとした声音で発せられた。明確な意志が込められていた。
平助君と沖田さんは今回は大事を取って参戦しない。しかしその平助君にも持ち上げられ、少しだけ動揺する。
副長・総長の二人の反論には斎藤さんが助け舟を出してくれた。
しかし二人を説得するにはあと一歩足りない。
一体どんな言葉だったら認めてくれるんだろう。
私はただ、名ちゃんの支えになりたいだけなのに。
言葉を探して視線を彷徨わす。そこへ意外な人物から救いの手が上がった。
「戦場に行くんだってことがわかってるなら、後は君の好きにすればいいと思うよ」
やっぱり沖田さんの言葉は厳しいものだった。それは救いの手であると同時に、覚悟を迫る言葉でもあった。
目の前で真剣が火花を上げて人の命が散っていく。
生存本能が呼び起こす、脳髄を侵食する恐怖。
池田屋事件の際に味わった恐怖は今だ生々しく記憶に刻まれている。
どろりとした澱んだ潮のような、鉄錆のむせ返る血臭。粘つき、そして空気に触れて褐色に変わる糊のような血液。そこに微かに混じる悪臭。
それらを思い出し、恐怖と不快感を押さえ込むように両手を握った。その姿は異教徒が神に祈りを捧げる行為にも似ている。
それでも首を縦振ることに躊躇いはなかった。
「……はい。だからこそ行きたいんです。名ちゃんばかりが辛い目に遇っているのを、ただ見ているのはもう嫌ですから」
彼女だけが背負い、苦しむ様を見ていたくない。
監察方としての隊務から帰ってきた日の夜には、決まって悪夢にうなされ。血臭を纏って帰ってきた日には膚が赤くなるまで、執拗に体を拭う。
名ちゃんは私そのことにが気付いていることを知らない。だからこそ、今も気付かない振りを続けている。
知ってしまえば、彼女は完全にその部分を人に見せなくなってしまうと思ったから。
どちらにしても、名ちゃんの心には大きな負担となっているのは明らかだった。
でもそれを負わせているのはきっと私。
「そうか。では雪村君、姓君のことは君に任せよう。……彼女を守ってやってくれ」
近藤さんも、いや、ここにいる多くの人達が少なからずそれに気付いているのだろう。
名ちゃんが強いのは、そう在ることを自らに課しているから。
誰かに傷付けられ、命を奪われる心配の無い時代を生きていた彼女は、特別なヒトなんかじゃない。
血を恐れ、傷付けられることを恐れ、そして傷付けることを恐れる、一人の女性だ。
私の参加を許可した近藤さんの言葉に、異を唱える人はいなかった。それが局長の言葉だからという理由だけではないのは皆の表情を見ればわかる。
皆、自分と同じように名ちゃんを心配している。
それが嬉しく、また心強い。
大きく首を縦に降り、頷く。
「……っ、はい!」
私は決して大きくは無い彼女の背を思い出した。
その背に、存在に、護られているばかりでは嫌だ。
せめてその背を支えたい。その背に負っているものを一緒に背負いたい。
そう、思った。
■ ■ ■
出陣準備の最中、私は土方さんに呼び出される。引き戸を開け、入室しようと足を一歩踏み出す。
しかしそこには土方さんの他に、何故か山崎君と千鶴ちゃんがいた。
敷居を跨いだまま、足が止まる。
「えーっと。一体どういう組合せで、この面子が揃ったんですかね」
入室することも忘れて土方さんに問い掛ける。
「両方とも、お前が勝手な真似をしねえようにするための見張りだよ」
(なんだそれは)
いつも私が問題行動を起こしているような物言い。
私は眉根を寄せる。自然と口調が刺々しくなった。
「……意味がわかりかねますが」
機嫌を損ねたことを感じ取っても、土方さんは表情を変えない。
「山崎君からお前が薩摩に対して妙に固執して探りを入れていると報告を受けてな」
すかさず私は山崎君を睨む。一方の彼は素知らぬ顔で平然としていた。
「今回表向きは薩摩も友軍だからな。お前に変に動かれて厄介なことになっても困るんだよ」
「それで見張り、ですか。随分と信用が無いんですねぇ、私も」
私はちらりと千鶴ちゃんの方を伺う。
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