春のかたみ
三
失念していたが、今は子供達と遊んでいる最中だった。
慌てて周囲の気配を探る。しかし子供達の気配はもう感じられなかった。
「八木家の子達ならもう帰らせたよ。いくら夏でも長時間濡れたまんまじゃ、風邪引いちゃうかもしれないしね」
それもそうだ。
だからこそそのことを考慮して、初めから時間は決めてあったのだ。
私は影の向きを確認する。その所定の時刻が近付いていた。
「ごめん。何だかあの子達を押し付けた形になっちゃったね」
八木家の子供達は総司君にかなり懐いている。初めに約束させていたとはいえ、切り上げさせるには手を焼いたことだろう。
「別に良いけどね。でも、折角だから御礼をもらっとこうかな」
総司君が口角を吊り上げて微笑む。
私の脳内で警鐘が鳴り響いた。
しかし今の私の意識はレベルは日常状態であり、監察方の時とは違う。
思考も反応速度も、格段に低下している。
監察方として動く時は薬で能力向上させていた。といっても麻薬や、変若水のような特殊な薬ではない。
鎮痛剤で痛覚を鈍化させ、カフェイン等を摂取することで倦怠感や眠気を払拭する。
しかし身体や脳に無理を強いる分、屯所内や非番の時は意識的に休息させることでバランスを取っていた。
しかし今はそれが徒になっていた。
「んぅっ!ふ、ぅ……ん、ぁ」
「――っ!!」
すぐそこに、平助君がいるのに。
彼の気配が強張るのがわかる。それでも立ち去る様子はない。きっと呆然としてしまっているのだろう。
どうか。お願いだから、目を逸らしていて。
退路を壁に絶たれ、逃亡は不可能。両手はいつぞやのように抵抗を封じられている。
熱を持ち惷くそれに、口内を犯される。
平助君の視線が、痛い。
「や、ん……、はっ、ふぁ」
お互いの唾液が混ざり合う。唇の触れ合う角度を変える度、吐息が漏れた。
嚥下しきれないそれが喉元を伝っていく。髪から滴り落ちる水滴とは明らかに違う、とろりとした感触。
ぞわりと膚が粟立つ。
冷水で冷やされた身体に、再び熱が宿った。
「は、ぁんっ……そう……じ、くんっ」
名前を呼んで、制止させたいのに。見せ付けるかのように口付けは深さを増していく。
脳に回る酸素が足りなくなり、目尻に生理的な涙が滲む。
足に力が入らない。拘束を解かれた腕は無意識の内に自重を支えようとする。私は総司君の袖を縋るように掴んでいた。
「……、ごちそうさま」
唇が離れて、耳元で囁かれる。触れ合う程に近付いていた身体が離れていく。
「僕は名ちゃんが監察方で何をしていようと気にしない。ま、名ちゃんに汚い手で触れた奴らは切り刻んで殺しちゃいたいんだけど」
(……は?)
耳に入った言葉の意味が一瞬理解出来ず、脳内で反芻する。
……ちょっと待て。もしかしてそれは一種の独占欲、なのか?
「な、な……!」
顔を真っ赤に染めていた平助君がうろたえている。
直ぐに言葉の出ない彼に対し、総司君は余裕の笑みを浮かべてさらに言葉を紡いでいく。
「この程度で赤くなってるようじゃ、平助に名ちゃんの相手は無理なんじゃないかなあ」
いつもの意地の悪い笑顔で、平助君を見下ろす。
私には意味がわからない。
だが問い質したいとも思わなかった。
この場から今すぐ立ち去りたかった。
■ ■ ■
「あの、さ。名、ちょっと聞いても良いか?」
二人でその場に残され、気まずい沈黙が支配していた。平助君が先にそれを破る。
私は弛緩した筋肉がまだ本調子ではなく、動けない。ふて腐れたような顔をして壁に背を預けていた。
「……なに?」
平助君と視線を合わせることが出来ないまま、私は返答する。
「名はさ、総司のこと好きなわけ?」
「…………は?」
誰が、誰を好きだって?
「何がどうしてそうなるかなあ」
私は溜息を漏らす。平助君には完全に誤解されてしまったようだ。
「確かに総司君は嫌いではないよ。でも、一人の『男の子』として好きか、っていわれると、ちょっと違う気がする」
平助君が真剣な様子だったから、自然と私も真剣に答えていた。
私の言葉を噛み砕いて飲み込むように反芻する。そして吹っ切れたように彼は笑った。
「そっか。オレ、名のこと好きだぜ。でもオレも、まだそれが名のことを『女の子』として好きなのかはよくわかんない」
にかっと笑う平助君は向日葵のように明るい。
真っ直ぐな彼の言葉はまだ『告白』ではない。それでも私は頬に先程とは別種の熱が昇るのを感じた。
でも、と言葉が続けられる。その表情に少しだけ真剣味が宿る。
「さっきの、見ててすっげえ嫌だったんだよね。だから名、何があっても総司だけはやめとけ。な?」
「……ぷっ、なんだよ、それ」
私は笑う。平助君もつられて笑っていた。濡れ鼠にのまま、私達は暫くの間笑い合っていた。
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