春のかたみ
七
骨が軋む幻聴が聞こえそうな程にぎこちない動きで、私は後方を振り向いた。
「……どうもお疲れ様です、副長」
そこに立っていらっしゃったのは、眉間に険し過ぎる皺を刻んだ土方さん。
私にとっては【鬼】より恐い鬼副長、その人だった。
(ひぃ、と叫び声を上げたい)
私は土方さんの胸から離れ、自立を取り戻す。
彼は言葉を発しない。無言の圧力。
「名ちゃんっ!」
小鳥が囀るように可愛らしい声が私の名を呼んだ。
恐怖に満ち満ちた現況ではまさに天女の声と言っていい。
土方さんの後から飛び出した千鶴ちゃんが飛びついて来る。
昼にも受けた抱擁だが、可愛いからそれで良し。何回受けようが可愛いものは可愛い。
「千鶴ちゃん。怪我はしてない?戦場(いくさば)は怖かったでしょ」
辺りには血臭とそれに混じる微かな汚物の臭いが立ち込めている。
周囲を見渡せばまだ長州志士の片付けられていない死体や重傷者も見受けられる。中の階段には首や腕、指なんかも転がっていたことを思い出す。
人は、綺麗に死ぬことが難しい。殺された時は、特に。
慣れない人間が見たら嘔吐・失神してもおかしくない惨状だった。
千鶴ちゃんは私にしがみついたまま。俯いたままぽつりと漏らす。
「怖かったよ、すごく。でも、あんなに言ったのに名ちゃん、また一人で危ないことしてるって聞いて……そっちの方が怖かった。皆も、すごく心配したんだよ」
微かな震え。それでも気丈に立っていられるのはやはり医者の娘だからだろうか。
しかしそれは彼女の精神を追い詰めるだろう。
救う者が奪う立場に回ってしまった時に感じる罪悪感はきっと、何倍にも膨れ上がる。
それが気掛かりだった。
「そっか、また心配かけちゃったか。ごめんね。……ありがとう」
千鶴ちゃんの頭を撫でる。細く滑らかな髪質が指に心地好い。
はっ!
和んでいる場合ではない。私は重要なことを思い出す。というか何故忘れた、自分。
目の前には眉間に皺を寄せた、鬼副長が立っているんだった。
「――副長、」
意外にも辛抱強く待ってくれていた彼は、私の言葉を制した。
「報告は屯所に帰ってから聞く。おまえは千鶴と怪我人を連れて屯所へ戻ってろ」
「え?そんな、まだ【処理】が」
監察方の自分には仕事が残っている。
助かる見込の無い負傷者への尋問、現場及び死体からの物的証拠の情報収集。
それこそ会津や所司代に引き渡してしまえば、新選組に情報が下りて来るとは考えにくい。
「いいから指示に従え。こっちには山崎君達を残すから問題ねえよ。山南さんへ状況を伝えてくれ」
副長の命令に逆らうことは出来ない。
私は遠回しに気遣われたことを知る。
監察方に所属して長くない自分はまだ慣れていない。
時折【処理】に参加することもあったが、死骸をあさる行為には強い生理的嫌悪感と背徳感が付き纏う。
黒い装束を皮肉り、誰かが『俺達は鴉だ』と呟いた声が脳裏にから離れないでいた。
千鶴ちゃんが私の袖を引く。心配を映した瞳に見上げられる。
迷う。今ここを離れれば、私は監察方の仕事から逃げたことになる。
肩に手が置かれた。その手の持ち主を振り仰ぐ。左之助さんだった。
「おまえさんのことだから、また生真面目なこと考えてんだろ」
図星だった。左之助さんは笑う。
「名、おまえはおまえに出来ることを頑張ればいい。出来ないことまで無理に頑張る必要はねえんだ。それは逃げなんかじゃねえからな」
言葉が、胸に落ちる。
私、そんなに無理してたかな。
思い返せば『逃げない』ことに必死になりすぎていたのかもしれない。
『護る』ためにはそれが必要だと。頑なになっていたのだろうか。
反対側の肩にも手が置かれた。新八さんの顔からも既に怒りは消えていた。
「平助の野郎も眠りこけたまんまだからよ。よろしく頼むぜ、名」
どうやら、私は本当に色々な意味で皆に心配をかけていたようだ。
どうしよう。凄く、嬉しいかもしれない。
それでもそれを表情に出すのは気恥ずかしさがあった。
私は土方さんに視線を合わせた。
「命令に従い、千鶴ちゃんと一緒に負傷者に随行して屯所へ戻ります。事の顛末も、自分が責任を持って総長へお繋ぎします」
彼の眉間から皺が消える。その口許には微かに笑みが浮かんでいた。
「ああ、頼んだ。……こうもうまくいったのはおまえのおかげだな。正直、助かった」
それは私にとって最大の賛辞だった。
■ ■ ■
後私は負傷者を纏め、護衛に付く隊士数名を選び出した。
千鶴ちゃんとともに一同屯所へと帰還。
負傷者を屯所に待機していた隊士達に引き渡し、自分は山南さんへ騒動の顛末を報告。
こうして長い長い一日は漸く幕を閉じた。
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