春のかたみ
一
電気照明など無い京の夜は闇に満ちている。監察方の隊士達は闇色の装束を纏い、戦況の把握にあたっていた。
黒い装束に身を纏い、顔を隠した私を、「私」だと判断出来る隊士は少ない。
もとより私の存在を知っている者の方が少なかった。
池田屋周辺。
私は裏口付近で池田屋の様子を伺っていた山崎君に声をかけた。
「山崎君」
私の気配は察知していたのだろう。山崎君は声をかける前にこちらを振り向いていた。しかし声が実際に耳に届くと、紫色の目が驚きに見開かれ、咎めるような色を含む。
「っ!名さん!?」
私は視線の叱責を無視し、用件だけを簡潔に紡ぐ。
「――本命は、池田屋」
「な、そんな情報を一体どこから」
密偵としての能力は山崎君の方が上だ。実力で劣る私が先に情報を掴んだことに、驚きよりも疑念が浮かんだのだろう。
その思考は理解は出来る。けれどその問いに答えている暇はない。
「私よりも山崎君の方が足が速い。早くこの情報を屯所の総長へ連絡、副長へ繋いで」
止めていた足を前へ運ぶ。まだ苦い顔をしている山崎君の横を通過する。
「所司代も会津も見廻り組も助けてはくれない。奴らは漁夫の利を狙ってる」
それだけを言い残し、池田屋へ向かう足を急がせた。
月が傾いている。亥の刻は近い。
■ ■ ■
池田屋の裏口。
そこには十人近い隊士達が張り込んでいた。幹部達は皆表に集まっていて、こちら側には見当たらない。
(正面切って『正々堂々』か。いかにも近藤さんらしいね)
池田屋に集結している長州志士は三十人近い。今回動員できた隊士の数が多かったことは救いだ。
私は見知った隊士達に近づき、声をかける。
「奥沢さん、安藤さん、新田さん」
彼等がこちらを振り向く。一瞬怪訝な表情が浮かんだ。
夜の闇から浮かび上がった黒装束を視認し、私を監察方の人間だと判断。表情が緩む。
「……監察方か。どうした、伝令か?」
三人の内の一人、奥沢さんが返答した。私は首肯する。
「局長からの命です。自分が先に中に入り様子を伺ってきます」
実際には、近藤さんは私がここに来ていることすら知らない。
しかし一般の隊士達にとって局長命令は神の言葉に等しい。
彼等は疑うそぶりも見せなかった。
ただ私に『気をつけろよ』と身を案じる言葉をくれる。
肩に置かれた手の温もりを布越しに感じる。彼等もまた、仲間だ。
私は池田屋に潜入する前に彼等に忠告しておく。
「今宵の会談は薩摩も監視しているとの情報があります。中でも金色の髪と赤髪の二人組は腕が立つ。我らの目的は長州。もし見かけても相手をしない方が賢明です」
二年前、寺田屋で今回と同様の騒動が起きた。京を焼こうとした薩摩の過激派は、同じ薩摩藩士の手で鎮められた。
また、今の薩摩藩は雄藩の一つであり幕敵ではない。
人間の権力闘争に関心のない彼等に限って無いとは思うが、後々薩摩藩に目をつけられても厄介だった。
三人が頷いたのを確認し、私は池田屋に足を踏み入れた。
■ ■ ■
姿を見咎められないよう、慎重に人気のない廊下を選ぶ。
皆には悪いが、長州藩士のことはこの際放置しておく。彼等のことは近藤さん達が何とかしてくれるだろう。
問題は【鬼】だ。
二階へと続く階段を上がる。
池田屋の造りについては前回来たときに把握しているために問題はない。二階に大広間、一階にも中広間がある。恐らく長州志士はその二部屋を使って会談をしているはずだ。
明かりの消えた部屋の前を通り過ぎる。背筋に悪寒が過ぎった。
慌ててその場を離れようと体勢を整える。しかし回避行動に移ろうとした時には既に私は捕食されていた。
明かりの燈っていない暗い室内。月明かりが室内を蒼く染め上げていた。
私は襟首を捕まれ、引き倒されていた。背中を畳に強かに打ちつけ、背骨が痛む。仰向けに転がされた視界に天井が映った。
「鼠が、こそこそと動き回って何をしている」
高圧的な口調。視界に入り込む金色。
そこにいたのは想像通り西の鬼。風間千景だった。
「……いやあ、長州の会合の様子を見に来たんだけどさ。もうすっかり宴も竹縄ってところじゃない?」
上半身を起こし、強い圧迫を受けた喉元を摩る。
状況に動じる様子を見せない私に風間さんが苛立った。
「貴様、外をうろついている連中の仲間か」
襟を掴み上げられる。苦しい。
「そうだよ。――こっちの目的は長州。貴方達の目的も長州。そっちの目的はもう済んだでしょ」
急に襟を掴んでいた手が放された。私は重力に従って畳に落下する。
「……会話が通じん奴は不愉快だ。おい天霧。こいつ、殺しても構わんな?」
そんな理不尽な。ちゃんと質問に答えてあげたのに。
「私に聞かないでいただきたい」
刀の柄に手を翳す風間さんに対し天霧さんが答えた。
いや、ちょっと待ってよ。そこは止めとこうよ天霧さん。従者が主人の暴走を見逃してどうすんの。
しかしさすがにこのまま殺されてしまってはかなわない。何とか状況を打開する必要があった。
「亥の刻には討ち入りが始まる。君達がいることを知っているのは私だけだから、見つかれば問答無用で戦闘になるよ」
現在の状況について言及していく。
しかし鬼にとってはいくら刀を持とうと人間など脅威にならない。鼻で軽く一笑に付された。
「それがどうした。我等を長州と間違える愚か者など、切り捨てれば良いだけだろう」
風間さんの声には嘲弄する響きがあった。
それでも私は態度を変えない。
「こっちは会津、所司代を後に控えてる。幕府の老中達に目を付けられている薩摩藩としては、こんなところで瑕疵を作るのは本意ではないはずだよね」
嘲りの笑みが消える。代わりに刔られそうな程に鋭い視線が、探るように私を見下ろしていた。
「……貴様、一体何が言いたい」
私は視線を受け止める。
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