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春のかたみ

 
■ ■ ■

奥まった場所に位置する部屋に通された。中には誰もいない。
手代の男は私を置いて部屋を出て行こうとする。

私は不安そうな表情を作り、手代の男の袖を引いた。

「お願いです、一人にしないで……」

消え入りそうな声で縋れば、男は困ったような表情を浮かべた。数瞬逡巡した結果、彼は僅かに笑顔を見せる。
私を安心させようという意図が感じられた。

「浪人に追われて怖かっただろうね。旦那様を呼びに行ってくるから、少しだけ待っていてくれ。……大丈夫、あいつ等はここまで追っては来れないから」

その言葉に私は安堵の表情を作る。場合によっては『眠って』もらおうかとも思ったが、その必要はなさそうだ。

向こうから来てくれるのなら、待てばいいだけのこと。

ぱたり。と襖が閉められる。表からの喧騒は聞こえない。騒ぎはもう収まったのだろうか。

私は桝屋に飛び込んだ時のことを回想する。

店先にいた刀を腰に差した客は二人。桝屋にいる男手は店主である古高、番頭、後は手代が三人。奉公人の少年が二人。後は女中含め、女性しかいない。
番頭を含め、先程の手代も浪人とはいえ、刀を持った男達が踏み込んで来たにも関わらず怯えた様子は見えなかった。とすると、戦闘に持ち込んだ場合に想定される敵対人数は七人。

今の己の実力では正面切って相手取るにはリスクが高い。
しかし悠長に事を構えている余裕は無かった。

相手とて一般人ではない。今は状況に気を取られていているだろうが、いずれは私の背の荷物に気付くだろう。

本来なら総司君にも動いてもらう手筈だったが、浪人に絡まれたアクシデントのために、それも叶わない。
しかし総司君も今頃は感付いて近くまで来てくれてはいる筈だ。

首級を抑えてしまえば店の者達も動けまい。古高はそれなりに重要人物。

脳内で瞬時に幾つかの作戦を組み立てる。その中からリスクが少なく、有効なモノだけを選び出す。

襖の外から近づいてくる足音。耳を澄まして気配を探る。聞こえてくる足音は一人分だった。
好都合。思考からさらに選択肢を削る。背の荷物を一度床に置き、私は髪に差してあった簪の内の一本を引き抜いた。飾り部分の玉で出来た菊花を外す。
手の内に残った芯の先端は針状に尖っていた。それを袖口に忍ばせる。

襖が開く。そこに立っていたのは桝屋喜右衛門の顔をした、古高俊太郎本人。
私は瞳を潤ませ、古高の胸に飛び込んだ。肩を震わせて縋れば、古高が心配そうに肩を撫でてくれる。

「怖かっただろう。もう心配せんでもええよ。あの浪人達は同心に引き渡してきたからね」

(対応が早い。流石に長州の間者達の元締めをしているだけの事はあるということか)

私は顔を上げた。瞳に溢れそうな涙を湛え、安堵の笑みを作って見せる。

「ありがとうございます。本当に何とお礼を申し上げれば良いか……」

私はそこで一度言葉を切る。目を伏せ、睫を震わせるように悲しげな表情に変化させた。

「ですが桝屋の皆様には大変なご迷惑をお掛けしてしまいました。喜右衛門にも。もう水月堂には戻れません。私、一体どうしたらよいのでしょう……」

思い詰めた泣き出しそうな声に、古高が僅かに動揺する。

「礼なんてええ。だから名はんは泣かんでええんどす。私らは迷惑なんて思ってない……」

「それは良かった」

途中で私は割り込んだ。古高もそれ以上言葉を続けられない。その顔に浮かぶのは驚愕と困惑。

「どうひ、て」

何とか紡がれた言葉も呂律が回っていなかった。
今まで私が縋っていた男の身体が、反対に私の体に縋るように体重がかけられる。しかし古高は私に縋ろうとしているのではない。単に自重を支え切れなくなったのだ。
古高の項には赤い斑が残り、僅かだが血が滲み出していた。

私の手には銀色に光る簪の芯。その先端は赤く濡れている。

「私はこれから貴方に、もっと迷惑をかけることになるんですから」

膝を着いた古高の身体を、私は横たえさせてやった。抵抗はなかった。身体に力が入らないのだから当たり前か。

簪の先端は穴が開き、筒状になっていた。解りやすく言えば注射針のようなものだ。
そこに注がれていたのは麻酔薬。
手術等で使用する物よりも即効性を高めるよう調合された薬を、直接体内に注入させたのだった。

悔しげな表情で私を見上げていた古高の瞼が落ちた。口元に手を翳し、呼吸を確認。
麻酔とて、量を間違えれば致死の毒となる。

まだ、彼に死んでもらうわけには行かない。

■ ■ ■

意識の無い古高の体を物色する。袂を探っていると金属音。
取り出してみると、それは上質な絹の布に包まれていた。
包みを開く。中にあったのは、金輪に繋がれた、錠前用の鍵。

私はそれを拝借して、胸元の合わせに挟んでしまった。

古高の身体を転がし、後ろ手に縛っていく。
その最中に半年前の出来事が思い出され、何だか複雑な気分になった。

(まさか自分がされてた事を他人にやる日が来るとはね……)

念のため猿轡を噛ませ、押し入れに押し込む。
幸にして中は空だった。どうやらこの部屋は日常使われていないらしい。
これで万一桝屋側の人間がこの部屋に入っても、怪しまれることはないだろう。

私は暁を手に立ち上がる。女物の帯では刀を脇に差すことが出来ない。仕方がないので夕星は背の結び目に差し込んだ。

周囲に人の気配が無いことを確認する。そしてそのまま部屋を離れた。

 

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あきゅろす。
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