春のかたみ
一
元治元年六月五日。
早朝。
涼やかな空気は日中の蒸し暑さが嘘のように膚に心地好い。しっとりと濡れた涼気は草葉の先で透明な滴露を作る。
深く息を吸い込み、ゆっくりと肺を空気で満たす。副交換神経が刺激され、精神の高揚が鎮まって行くのを感じた。
瞳を閉じて自己の体調を精査する。
手足の末端の神経に問題は見当たらない。浮腫や倦怠感もなく、意識も明瞭。頭痛もないし、鍛練にで負った傷の痛みも薬効によって知覚はされない。
万全といっていい。
やれるだけのことはした。
自分に対する言い訳の要素は徹底的に排除してきた。
だから、今日は絶対に失敗出来ない。
閉じていた瞼をゆっくりと押し上げた。仄暗い闇を暁の光が灼き、世界に色が宿る。
長い長い『今日』という一日は、こうして幕を開けた。
■ ■ ■
太陽が顔を出してから既に数刻。時刻はおおよそ巳の刻頃。
朝方の涼気は消え、陽光の熱線によってじわりじわりと温度を上げていた。
大通りを行き交う人の数も次第に増えていく。
浅葱の着物には水の波紋が浮かび、蝶がたゆたう。涼しげな着物を纏っていても実際に涼しくなることはない。
せめてもの暑気対策として、背中の中程まである髪を数本の簪で纏めていた。
周囲を見回しても、まだまだ女性は日本髪が多い。だがこれはこれで洒脱で気に入っていた。
背には布で包まれた長い包みを負っていた。中身は当然、暁と夕星だ。
市中を歩いていると、京の街が何処か浮足立っているのがわかる。
これもそれも祇園祭を控えているためか。もしかしたら、先行きの見えないこの国の行く末から、皆目を逸らそうとしているのかもしれない。
永く続いた国が傾く時、人は明るく振る舞おうとするのだそうだ。
そうやって取り繕っている間にも、水面下で国はどんどん傾いて行くというのに。
桝屋へ向かう道中、私は一人そんなことを考えていた。
後数件先まで行けば桝屋だ、という所まで来た時。
ねっとりとした視線が纏わり付いて来るのを感じた。気配を探らずとも直ぐにわかる。
視線の原因達がこちらに向かって歩いて来る。それは浪士風の三人組の男達から浴びせられた視線だった。
私は三人組の浪士風の男と擦れ違う。
……筈だったのに。
デジャヴ。いや、寧ろリフレインか。
肩に抵抗がかかる。私はそれに逆らわず身体を反転させた。
正直、盛大に溜息を吐きたい気分だった。どうして私の人生では似たような事ばかりが繰り返されるのだろう。
これはもう神様の嫌がらせか何かとしか思えない。
一体私が何をしたというんですか神様。……まぁ善良な信徒だったかと問われれば、肯定は出来ないんだけれど。
意識を現実に戻そう。私は浪士達に絡まれていた。
頭から爪先まで舐め回すような無遠慮な視線に、不快感が募る。
まだ朝方なために酒は入っていないのだろう。しかし男達の口から吐き出される言葉は、酔っ払いが口にするものとさして内容に大差はない。
はっきり言って不愉快なので、右耳から入った言葉は脳を経由させずに左耳へ流していた。逆もまた然別。
まあ要するに話を聞いていない。
さてどうしようか。
桝屋の手前で騒ぎなど起こしたくないからなぁ。
だからといってこの男達が勝手に引き下がってくれるなんて事は起こり得ないし。
うーん、面倒臭い。
……よし。逃げよう。
結論に達し、私は片足を軽く一歩引く。そして一拍置いてから、地を強く蹴った。
重心を低く移動させる。男達の隙間を縫うように、肩で体当たりを喰らわせるように飛び出す。
そのまま後を振り向かずに駆け抜けた。
目的地は数件先にある、桝屋。
「おい!?」
「逃げる気か、女!」
ええ。逃げる気ですとも。いちいち構ってやれる程、こっちは暇じゃないんだよ。
男達が悪態を吐きながら追いかけて来る。彼等は私が怯えていると思い込んでいたのだろう。(実際は話すら聞いていなかったのだが)私の突然の行動に対して男達の反応は後手に回っている。
「――お助け下さい!」
追い付かれる前に桝屋の店先に駆け込む事に成功する。
私は怯えた表情を作り、悲痛な声で助けを求めた。
店内は一時騒然となる。
しかし駆け込んで来たのが顔見知りである私だったこと。
そして追いかけてきた男達を見て、店にいた人間達は一瞬で状況を把握してくれたようだ。
顔なじみの番頭が店内の客と目配せをして頷き合う。
私は手代の男に連れられ、店の奥へと避難する。表では浪士達の怒鳴り声が響いていた。
店内には腰に刀を差している者も見受けられた。あれは恐らく長州の人間だろう。
喧騒から離れるように廊下を進んでゆく。
ふと、鼻孔にきな臭い臭気が掠めた。
(これは……火薬の臭い?)
臭気を感じ取ったのは、漆喰いの観音開きの扉の前。重そうな扉には厳重に錠前で鍵がかけられている。
(妙に厳重だな)
これでは屋内に造られた倉だ。
簡易に店の在庫を置くにしては厳重過ぎる。
屋外にすら出したくない、秘しておきたい『何か』が在るのか。
廊下にまで漏れ出す火薬の臭気。単純に計算しても相当の量が納められていることになる。
武器弾薬、その他毒、薬、人体に関する知識。
監察方に属する為に、山崎君からスパルタ教育を受けてきた。
過去の自分ではこれが火薬の臭気だとは気付けなかっただろう。山崎君に感謝である。
私は確信する。
(遂に尻尾を掴んだ)
長州は恐らくはこれを使って京の街を焼くつもりだ。
これさえ押さえることが出来れば、証拠としては充分。これでやっと古高捕縛に踏み切れる。
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