春のかたみ
四
■ ■ ■
池田屋に到着すると、手代さんに奥へと通された。私達は少し困惑する。
客を取る予定ならば、旅籠の主人に挨拶をするのも理解できる。しかし今日は客は取らないでいいと女将さんは言っていた。
「ああ、待ってたよ。君が水月堂さんの名さんか」
想像通り、奥の間で私達を待っていたのは池田屋の主人だった。
恐面でもなければ厳つくもない。見たところ武術に精通している風でもなかった。
「仕事前に呼び付けてしまって申し訳ない。水月堂さんには昔からお世話になっていてね。最近店に入った娘さんの評判が良いようだったから、顔を見ておきたかったんだよ」
「恐れ入ります。でもよろしかったのですか?お客様がお見えになるのでは」
それなりに時間に余裕は持って来てはいるが、話ならこちらが仕事を終えて帰る前でもいい筈だ。
「ああ、それなら少し遅れると連絡があったから時間は気にしなくて良い。ただ、気難しい方だと聞いていてね。君さえ良ければなんだが、顔見せだけでもいいから御相手をしていってもらいたいんだが……」
主人の申し出は個人的にはありがたくないものだった。しかし私は営業用の笑顔を作って応じる。
「かしこまりました。私めで良ければお座敷にお邪魔させていただきます。ただ、遅くなる前に店には戻らねばなりませんので、それについては御寛恕下さいませ」
私が頭を下げると、池田屋の主人は少しだけ安心したような様子を見せた。
主人の様子からして、相手はどうやら気を遣う相手のようだ。
主人とて近日中に攘夷派の会合が行われることは承知のはず。そんな旅籠の主人が気を遣う相手となれば範囲も限られる。
私は不自然にならない低度に質問を投げかけた。
「それで、お客様というのはどういった方々なのでしょう。私としてもお迎えする以上はお名前とご身分ぐらいは存じ上げておきたいのですが」
問いに応じて主人が顔を上げる。
そしてその口から告げられた名前は私が想像していた以上の存在の名だった。
「ああ、確か風間様と天霧様、後は不知火様という方々でね。それぞれお偉い志士様方にご協力されてる方なんだとか……」
……ああ、納得。
池田屋は長州藩士の会合場所としての定宿となっている。
対立派閥である薩摩藩に組する人間を招き入れるのには抵抗があるのだろう。出来れば関わりたくない、というのが本音のはず。
しかし正直、このタイミングでその名を聞く事になろうとは思わなかった。
これは初めて屯所に連れてこられた時並みの衝撃だ。フライングはずるいだろう。こちらにだって心の準備ってモノがある。しかしそれは完全に無視された。
私も監察方として行動中だったからこそ表情に出すことはなかったが。これが常時だったら表情に出るどころか、大声を上げているところだ。
ともかく、今回の件は池田屋としては『触らぬ神に祟りなし』という態度を貫くつもりらしい。実際には『神』ではなく『鬼』なのだから、対極とも言っていいのだろうが。
しかし一体どうしたものだろうか。
私は池田屋の主人との会話を笑顔で続けつつ、内心で頭を抱えていた。
■ ■ ■
奥の間から出ると、客を迎える部屋に通される。
今回は場所が場所だし、茶道を追求するための席ではないので茶室のような別棟では行われない。
手代の子が運んでくれた荷を広げてくれる。
元々の茶道具は池田屋の物を使うことになっていた。よって荷の大半は茶と、菓子、後はそれに付随する物のみ。
持ち帰るものは殆どなく、持って返ることが出来るのも茶会が終わった後になる。
茶会の準備が整う。
客の相手を仰せつかった以上、私は店に戻れない。手代の子のみが先に店に戻り、事情を伝えてくれることになった。
「では僕はこれで店に戻りますね。後は名さん、よろしくお願いします」
まだ十四だという彼は、歳に似合わず落ち着いた所作で頭を下げた。
時折店の表にも出る彼は、可愛らしい顔立ちをしている。流石に茶屋に奉公に出ているだけはあった。近い将来、美男子になることだろう。
「手伝ってくれてありがとう。ご主人と女将さんに説明をよろしくね」
■ ■ ■
手代の子を見送ってまもなく。池田屋の女中さんから客が到着したとの知らせが伝えられた。
「ま、上手くいきすぎだとは思ってたし。この程度はの返しはある意味想定内か」
私は胸元に隠した懐刀に手を当てた。
今日は【暁】も【夕星】も持って来ていない。
けれど、元より私の武器は刀ではない。
人の身では鬼の持つ肉体的な力には敵わない。
種族としての高潔さなど比ぶべくもない。
けれどこの世界に溢れているのが『鬼』ではなく、『人』だ。
人には鬼の『強さ』さえも超えるものがある。
それが『愛』や『想い』の強さなどと、奇麗事をほざくつもりは毛頭無い。
人が鬼よりも優れているモノ。それは、小賢しいその『頭』だ。
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