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春のかたみ

 
元治元年四月。

卯の花腐しとも呼ばれる長雨が、音もなく降りしきっていた。先に咲いた桜の花もこの雨によって花弁を舞散らせている。

通常は多くの隊士達が鍛錬に励むために集う道場。しかし、今ここで木刀を振るっている影は二つしかない。

「……脇が甘い」

「……っく!かはっ」

一君の鋭い横薙ぎの一閃が左脇腹に食い込む。内臓に与えられた痛みで視界が点滅し、目の前の存在から注意が逸れてしまう。

「っうぁっ」

続けて下段から跳ね上げるように木刀を握る腕を強打された。弾かれた木刀は、激しく回転しながら私の腕を離れ、虚しい音を立てて床に落下した。

私は思わず床に膝をついた。ぽたぽたと髪や顎の先端から滴り落ちた汗が道場の床に落ちる。その汗の量が稽古の激しさを物語っていた。

「……あんた、今何回死んだと思う」

「すい、ません」

首筋にあてがわれた木刀がひんやりと冷たくすら感じられた。

確かにこれが真剣勝負だったら、一閃目で私の内臓は駄目になっていただろう。二閃目で両腕を落とされ、三閃目には首を落とされていた。確実に三回は殺されている。

私は木刀で強打された激痛とともに、床に着いた手首から脳に伝わる鈍い痛みを感じていた。

(あ……やば、これ完全に手首やっちゃったみたい)

「……今日はこの位にしておこう」

「ありがとう、ございました……!」

木刀を私の首筋から離すと、指定の位置に片付けて一君は私に対して興味を失ってしまったかのように早々に道場から立ち去って行った。

■ ■ ■

稽古を終え、後片付けを済ませた私は道場の脇の小部屋で稽古着から日常着へと着替えていた。

胸にきつく巻かれたさらしが汗で濡れて気持ち悪い。結び目を解いてさらしを解いていく。私はその開放感に深く息を吸った。

「あちゃー、また増えちゃったな……」

汗を拭くために裸になった私は自分の体を見て思わず苦笑した。

日々欠かさずに稽古を行えば、前の打撲痕が消える前に次々と新しい痣が増えていく。今や私の体には消える寸前の茶色の痕から、今日刻まれたばかりの臙脂色の皮下出血の痕で、斑に染められていた。

「千鶴ちゃんが見たらまた怒られちゃうよねぇ、これは」

苦笑しながら赤黒い紫色に変色してしまった手首を擦る。

塗れた手拭で汗を拭った後、新しいさらしを巻き、裾よけを腰に巻く。出来る限り動きに不自然さが出ないように気を配ったが、完全には隠し切れてはいなかった。

手首に包帯を巻いて固定はしたが、隠し通すには無理があるだろう。
私は千鶴ちゃんにどう言い訳をしようか、心の中で頭を抱えた。

■ ■ ■

道場の後片付けを追えた私は母屋へと向かっていた。
渡り廊下を歩いていると、ひんやりとした湿り気を帯びた風が私の頬を撫でる。

涼風は稽古後の汗ばんだ肌に心地よく、鼻腔をくすぐる土と青い草の香りが私の殺伐とした心を潤していった。
空を仰げば、雨雲を透かす陽光が上空を銀色に輝かせ、空から落ちてくる雫はキラキラと輝いている。

一歩、渡り廊下から外れて、私はその身に銀色の雫を浴びてみた。
それはひんやりと冷たく、衣に染み込んで私の熱を持った体を冷やしていく。

(気持ちいい……)

しばらくそのままぼんやりとしていたが、流石に雨水を吸い込んだ着物がずっしりと重みを増してきた。

(そろそろ部屋に戻った方がいいかな。あー、せっかく新しい衣に着替えたのに)

自業自得のため後悔はないが、これでは部屋に戻ったらまた着替え直さなくてはならないだろう。どうやって千鶴ちゃんの目を誤魔化そうか。

そんなことを考えていた矢先だった。

「名さん、貴女そんなところで何してるんだ!」

「あれ、どうしたの山崎君。こんな所で」

「今それを聞いたのは俺の方だ!」

彼は一体何をそんなに怒っているのだろう。カルシウム不足だろうか。

眉間に皺を寄せながら、ただでさえ鋭い紫色の瞳に厳しい色を湛えた山崎君が私を叱り付ける。

私はそんな彼の怒りの理由を理解することができずに、ただ落ちてくる雫越しに彼を見ながらきょとんと首を傾ける。

「わふっ!?」

突然、視界が白く染まった。どうやら巨大な拭布(バスタオルのようなもの)を頭から被せられたらしい。

「ちょ、これどこから出したの山崎君。え、何々?忍術なの?これ」

だって今君確実に手ぶらだったよね!?

「馬鹿なこと言ってないでさっさとこっちに来い!」

何とかもぞもぞと布から頭を出して視界を取り戻したかと思った途端に、彼は自分のいる屋根の下へと強く私の腕を引いた。

ちょ、そこは……!

「っ、ぅあっ!」

うぁー、しまった。思わず声が出てしまった。

突然加えられた力は打撲と捻挫の複合傷によって激しい痛みとして脳に伝えられ、私に声を抑えることを失念させたのだ。

急に無言になった山崎君の視線が痛い。彼の視線は今、彼自身が掴んでいる私の包帯に巻かれた腕に注がれていた。

「……その腕はどうしたんだ」

「あー、いや。その、ちょっとね」

「……話を聞く前にまずは手当てがいるな。先に言っておくが、貴女に拒否権はない」

「……はい」

どうやらここにも千鶴ちゃん以外に手強い奴がいたようだ。
私は彼に連れられるまま、医務室代わりの部屋に連行されてしまうのだった。

 


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あきゅろす。
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