春のかたみ
四
■ ■ ■
「刀は片腕で容易に扱えるものではない。井上さんはああ言っていたが、実際にまた真剣を振るえるようになったところで、どの程度まで腕が戻るのかは山南さん次第だろう」
広間を支配していた沈黙を破るように、最初に口を開いたのは一君だった。
口にした内容自体はここにいた誰もが理解していたこと。
しかし千鶴ちゃんは彼等の実情をまだいまいち理解できていないのだろう。これは安堵の声を上げてしまった千鶴ちゃんに対しての言葉だったんだと思う。
けれど一君のその言葉は、私の心にも深く突き刺さっていた。
一君の正論は淡々と続く。
ふう、と誰かが溜息を吐いたのが聞こえた。私が視線を上げると、総司君がちょうど口を開くところだった。
「最悪、思うように剣の腕が戻らなければ、薬でも何でも使ってもらうしかないですね。山南さんも、納得してくれるんじゃないかなあ」
「…………っ!!」
ふざけるな。
思わずそう大声で叫ぶところだった。
しかし私にはその言葉を口にする資格がない。ぎりっ、と強く唇を噛めば口内に鉄臭い味が広がってゆく。
誰もが私が総司君の言葉に反応して並々ならぬ怒気を発したことには気付いていたと思う。
変若水の使用に関してはさすがに新八さんが苦言を呈した。しかしその際の言い回しに千鶴ちゃんが疑問を持ってしまう。
「新選組は、新選組ですよね?」
千鶴ちゃんも自分の立場をわかっているのなら、敢えて口に出さなければ良いのに。
しかしこの素直すぎる一面が彼女の長所でもあるのだが。
結果として、もとより隠し事が苦手な平助君が彼女の疑問に答えを与えようとしてしまった。
余りにも軽率といえる言動。結果として彼は問答無用で左之助さんの鉄拳制裁に下される羽目になった。
「いってぇ……」
「平助君、大丈夫……?」
千鶴ちゃんが平助君に駆け寄る。新八さんも長い息を吐いて、二人を宥めにかかった。
今では穏やかな面が目立つ左之助さんだが、若い頃は相当短気だったと聞く。その過去の短気さが伺える一撃だった。
平助君の頬が、手で押さえられているのにも関わらず、見る見る腫上がっていく。
私は無言のまま立ち上がる。広間を出て、井戸に向かった。
■ ■ ■
手拭いを冷えた井戸水へ浸して濡らしてから広間に戻る。一君の感情の起伏に乏しい声が耳に届く。
「……あんたの生き死ににも関わりかねん」
千鶴ちゃんも自分が踏み込んだことの重大さに気付いて、きゅ、と唇を固く引き結んだ。
そして広間に戻ってきた私に気付いて、その表情が微妙に複雑なものへと変化する。
私はその変化には気付かない振りをした。
まだ頬を擦っている平助君の元まで行って腰を降ろす。
「……口元も切れてるね。ちょっと滲みるかもしれないけど、これで冷やして」
「……」
折った手拭いの角で一度口の端に滲んだ血を拭う。汚れた面を内側に折り直してから彼の頬にそっと当てた。
頬に当たった冷たさで我に返ったのか、それまでじっとしていた平助君が急に私の手から手ぬぐいを奪い取った。
「あ、ありがとな名!これくらい大丈夫だからそんな心配すんなって!」
「そう?でも目に付くところだし、腫れが引くまではちゃんと冷やしてね」
「お、おう!」
私の背後で少し遠慮したように、それでもはっきりとした声音で千鶴ちゃんが声を発した。
「名ちゃんは……、どうして名ちゃんなら、いいんですか……!?」
「…………」
私は軽く目を伏せた。
今までのやり取りを見て、【変若水】や【新撰組】について伏せられているのは千鶴ちゃんに対してだけだということに、本人も気付いたのだろう。
千鶴ちゃんの疑問はもっともだ。
そして彼女の問いに答えたのは一君だった。
誰もが答え辛い問いに答えるのはいつも一君の役割だ。考えてみれば損な役回りだと思う。
「名は、あんたより遥か深くまで新選組の内情に踏み込んでしまっている。……もはや生きたままそちら側に返すことはできん」
それ以上一君が言葉を発することはなかった。千鶴ちゃんも、言葉を返せずにいる。
誰も否定しない。私自身でさえも。
その程度のことは充分に理解していた。
背中に千鶴ちゃんの視線を感じたけれど、私は振り返ることが出来なかった。
■ ■ ■
皆がそれぞれ自室に帰った後も、私は千鶴ちゃんのいる部屋には帰る事が出来ずにいた。
宵に東にあった月が中天に差し掛かる頃になって、漸く部屋の前まで戻る。しかし今はその戸を開けて中に入る気にはなれない。
夕方総司君がしていたように、私は部屋の前で壁に背を預けて腰を下ろした。
月がぽっかりと浮かぶ空は冴え冴えとしている。
明日になったらいつも通りに振舞う。
だから、今の内に心に整理を付けよう。幸い、凍てついた夜気が眠気さえも凍りつかせてくれる。
(私はもう、きっと生きて元の世界には帰れない……。『いつかは帰る』そんな生温い考えで居たら、それこそ生き残れない)
けれど生き残るために心をこの世界の理に染めてしまったら。元の世界に帰ったとしても、私はきっと生きては行けない。
元の世界と同じ意識では、ここで生きていけない。
この世界の意識に染まったら、私はもう帰れない。
けれど『今』私が存在しているのは確実に『この世界』。
(私は、死にたくなんかない)
ならば答はもう決まっている。
(この世界で、生きるしかないじゃない?)
なんだか妙にスッキリした。冬の夜気のせいで強制的にだが、頭が冴えているのがわかる。
寒いのは好きではないが、今日だけは感謝しておこう。
私は青い夜空をただぼんやりと眺めながら暁を待った。
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