春のかたみ
三
私の意思に反してぱたぱたと膝に落ちる水滴。袴に染み込んでいく様を見下ろして、私はただただ苦笑する。
「不意打ち、だよなぁこんなの。せっかくい今まで泣かないようにしてたっていうのにさー」
これは誰に対する言い訳だったのだろうか。
わからない。わからないけど。
今の私には落涙が染みた袴が皺になるのも構わず、ただ強く握りしめることしか出来なかった。
■ ■ ■
そして後日談。
私が平助君を名前で呼ぶようになったことが幹部内に広まっていた。
誰だ。というか何故だ。
私はこの部屋から出る事はまずないし、出ても監視役が付く。しかも私の存在については箝口令が敷かれている筈なのに。
皆一体何がどう不満だったのか私には一切不明だったけれど、私は幹部達の呼び方を改めさせられることになる。
私は沖田さん、斉藤さん、原田さん、永倉さんからも名前で呼ぶことを彼等からそれぞれ強要されたのだった。
■ ■ ■
冴え冴えとした月が中天で顔を覗かせたかと思えば、灰色の雲が月をを覆うことを繰り返す。月明かりが途絶える度に屯所に不透明な闇がどろりと流れ込む。
風の凪いだ、静かな夜だった。
私は三分の一程開けた丸窓の近くに腰を下ろして、空を見上げていた。
(せっかく綺麗な満月だったのに)
寝静まっていた筈の屯所で、人が行き来する気配がする。いつの間にか屯所の中が騒がしくなりつつあった。
(そっか、今日なのか)
確証はない。だが確信はできた。
今日だ。
私が知る彼らの物語は今夜、始まる。
丸窓を開けて廊下を覗いた。
外に出るつもりはなかい。ただ、彼らの動きを少しでも追いたいと無意識の内に思っていた。
私に人の気配を感じ取るような技能はない。
だからきっと偶然だったんだと思う。
部屋の前を通る廊下の突き当たり。
交差する廊下を人が通り過ぎたところでこちらから見えるのは一瞬である。
でも、確かに目が合った。
私が彼を見ていて、彼も偶然こちらを向いた。立ち止まった土方さんが紫色の瞳が厳しい色を帯びて、私を咎める。
恐らくここまで来て叱責する余裕が今はないのだろう。
血に狂った羅刹達が京の町を徘徊しているのだから。
私は音もなく、言葉を紡ぐ。
普通なら届かない。相手が読唇術を心得ているとも思っていない。
でも、きっと伝わる。そう思ったから。
【今宵、『鍵』はその手の中に】
歌うように紡いだ言葉。
土方さんの瞳が見開かれる。そして私に向けられる視線が先程よりもさらに厳しいモノへと変化した。
(やっぱり、わかったみたいだね)
苦々しげな表情を見せたものの、彼がこちら足を向けることなかった。結局はそのまま行ってしまう。
「千鶴ちゃん、大丈夫かなぁ……」
空を見上げてみれば、いつの間にか雲に切れ間が差していた。ひらひらと、月光が凝ったような白く光る雪が舞落ち始める。
「あぁ、本当に桜みたいだね。真冬に狂い咲いた桜の花びらが降っているような……」
差し出した手の平の上に落ちた雪は、じわりと体温に溶けて消える。
きっと千鶴ちゃんは今、とても怖い思いをしているんだろう。それが彼女と彼等の出会いの筈だ。
しかも彼等はまだ千鶴ちゃんが少年だと思っているだろう。少女の扱いに慣れている筈がない、というのは私自身が身を以て知っている。
彼女が少々乱雑に扱われそうなことだけが、少しだけ心配だった。
■ ■ ■
それから半刻程経っただろうか。
来訪者は意外な人物だった。
私は丸窓を開けていたから、彼がここまで廊下を歩いて来るのは見えていた。それは向こうも同じはずで、私が廊下を伺っていたのはわかっていた筈なのだが。
彼は律儀に障子戸の前に立ち、室内へと声をかける。
「姓君。夜分に申し訳ありません。少々話があります」
「……どうも今晩は、山南さん」
「…………」
私は障子を開けて彼を部屋に迎える。だが彼が室内に入ってくる様子はない。
ただ彼は私を見下ろしていた。その視線にはどこか戸惑いのようなものが見え隠れしている。
「大体の察しはついています」
「……でしょうね。皆が待っています。広間まで来て頂けますか」
■ ■ ■
広間には近藤さんを始め、新選組幹部が一堂に集まっていた。
その中心には両手を後手に縛られた、一見少年にも見える小柄な体躯が横たえられていた。
いや、これは転がされているといった方が正しい。
(酷い扱いだな)
黒っぽい羽織を着ていたが、落ち着いた退紅色の着物に鴇鼠色の袴。高く結い上げらた素直な黒髪。
どこからどう見ても彼女は雪村千鶴ちゃんだった。
「……座れ。お前に聞きたい事がある」
不機嫌そうな土方さんの声に促され、私は広間の一番の下座に腰を下ろす。私の一挙一動に皆の視線が注がれているのが痛い程に感じられた。
「……こいつがお前の言っていた【鍵】なのか」
「皆さんがこの子を【鍵】だとお思いになったのなら、この子が【鍵】なんでしょう」
瞬間、己の首が飛んだ幻影が鮮烈に脳裏を過ぎる。
それが私に向けられた殺気が起こした幻だと気付かせたのは、背に流れた汗の感触だった。
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