春のかたみ
六
「失礼致します」
廊下に一度盆を起き、膝を着いて頭を下げる。
粘着質な視線が纏わり付く。僅かに不快感を感じたが、態度には出さない。
座敷に足を踏み入れ、酒の用意をする。そのまま部屋を下がろうとも思ったが、あからさまに視線を無視するには無理があった。
「貴方、お名前は?」
質問と共ににっこりと微笑みを向けられた。
「姓名です」
端的に必要最低限の言葉だけを返す。
値踏みするような視線に背筋に悪寒が走った。
「そう。貴方のように可愛らしい隊士がいるんでしたら、これから楽しく過ごせそうですわ」
一体何故オネエ言葉なんだろうか。二重の意味で悪寒が強くなる。
……この悪寒が風邪とかだったら良かったのに。
(千鶴ちゃんだけはこの人に近付けさせないようにしよう)
私は内心とは裏腹に、表情だけは当たり障りのない笑顔を浮かべた。
■ ■ ■
(どうしてこんなことに……)
鬱屈した感情が溜まっていくが、どこにもぶつけられない。
私は今、何故か伊東さんの隣で酌をさせられている。
「新選組は隊の規律が厳しくていらっしゃるんでしょう?山南さん、色々教えてくださいね」
伊東さんの言葉に山南さんが複雑な笑みを浮かべる。
確かに山南さんの腕は以前と比べて格段に落ちていた。
一般の隊士達に引けは取らないものの、彼が苛立ちを抱えていることは明らかだった。
「滅相もない。私が伊東さんに教えるなどど……」
陰りのある声だった。
なのに近藤さんにはそれを気にする様子はない。
まるで不協和音を聞いているようだ。
私は先を思いやる。それを思うと、伊東さんの言動全てが薄ら寒く聞こえた。
「失礼します。空いた器を下げに参りました」
愛らしい声がと共に、襖を開けて千鶴ちゃんが現れる。
(……あ)
まずい。明らかに伊東さんの目が変わった。
確実に気付いている。
喋らなければ、千鶴ちゃんを愛くるしい顔をした少年と言い張るのはそう難しくない。しかし彼女の声はどう聞いても少女のものだ。
「私も手伝うよ」
彼女が伊東さんの目に長く触れないように、自分も片付けに手を貸した。
■ ■ ■
あらかたの食器を厨へと下げ、空いた銚子を濯ぐために井戸へと向かう。
「すぐ戻るから、ちょっと待ってて」
拭う物を、と私は千鶴ちゃんを置いて一度その場を離れる。
本当にすぐ戻るつもりだった。だから大丈夫だろうと。
その認識が甘かった。
井戸の見える位置まで戻って来た時には、千鶴ちゃんの背後に藤鼠色が近付くところだった。
慌てて駆け出す。
しかし誰かに肩を捕まれて制止させられた。襖を開く音と共に私を追い抜いて行く紅樺色の背中。
刀が空を切る。その先端には秋咲きの薔薇の花。
「沖田さん……!?」
千鶴ちゃんが声を上げた。一方私は首を動かして背後を確認する。
「一君……」
「今は総司に任せておけ。お前が前に出る必要はない」
促されて視線を戻す。
予期せぬ状況に目を丸くしている千鶴ちゃんとは対照的に、伊東さんは余裕とも取れる笑顔を浮かべていた。
「男所帯で華が無いものでね。せっかく伊東さん達がいらしてるんだし、せめて目の保養にと」
細い指で刀の先から薔薇を受け取る。
「まあ、綺麗……」
その香りを優雅に胸に吸い込みながら、鋼色の視線がこちらに向いた。
一瞬だけ目が合う。しかしそれはすぐに総司君へと戻された。
「でも、刀で切るなんて、随分荒っぽいですのね」
冷ややかな幻蛍の光を帯びた視線が向けられても、伊東さんの態度は変わらない。
「少々荒っぽいところが、天然理心流の流儀なんです」
総司君が刀を収める。牽制としてはこれが限界だろう。
どれ程反対していようと、彼に近藤さんの意思に反する行動は取れない。
「君。まだ後片付けが残っているんだろう。早く戻りな」
敢えて名を呼ばずに千鶴ちゃんをこの場から下げさせる。
冷たい声音と言葉。それが彼女が新選組にとって重要人物ではないという印象を演出していた。
慌てて千鶴ちゃんが厨へと下がる。
「お花、有難うございました。沖田さん」
伊東さんが総司君の横を通り過ぎる。
「でも、貴方が本当に守りたかった『お花』は、誰なんでしょうね」
意味深な言葉を残して伊東さんが廊下の闇に消えていく。
総司君は何も言わず、冷たい空気だけが残った。
■ ■ ■
「……で。一君はいつまで名ちゃんの肩を抱いてるつもりなわけ」
不機嫌そうな声に我に帰る。道理で寒くないはずだ。
「普段ちょっかいばかり出しているお前に言われる筋合いは無い。……寒くはないか、名」
「や。今は一君のおかげで寒くはないけどさ……」
別に伊東さんはもういない。
猪じゃあるまいし、押さえておかなきゃどっかに突っ込むような馬鹿でもないんだが。
「そうか」
肩に回された腕から、そして背中から一君の体温が伝わってくる。
(そうか、っておかしいでしょ。え、何この状況)
「総司、お前は雪村の様子を見に行ってやれ。俺は名を部屋まで送る」
いや、まだ銚子片付けてないし。
千鶴ちゃんにだけ片付けを押し付ける訳にはいかない。
「え。ちょっと待ってよ、一君」
「そうだよ一君だけ狡いじゃないか!」
私が制止する声に被せるように総司君が反論する。
だから違うだろ。
しかし何故かそれ以上言葉を発しなくなった一君に、私は半ば連行される形で部屋へ戻されてしまうのだった。
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