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うそ。(蕎麦屋の娘/甚八)

3月31日、ウチの店に蕎麦を食べにきた甚八さんから聞いたお話。
曰わく、大海の向こうの国々では、明日は嘘をついてもいい日なのだとか。
なぜ嘘をついてもいいのかと詳しい所以を問うと、そんなことは知らない、とタバコの煙を風に流しながらフラリと店を後にしてしまった。
そんな話は仕事をしている間にすっかり頭から抜け落ちて、私はいつも通りに暖簾を下ろして店を片付け、明日の下拵えを済ませて就寝した。
そして翌日には春薫る朝日を拝みながら、いつも通りに戸口に暖簾を掲げたのだった。

―――そんな昼過ぎ。今日はお昼時を過ぎたらぱったりと人気がなくなって、洗い物も机の片付けも終わって、帳簿の整理も終わって、つまるところ暇になった。

父と母と私。3人で営むこの蕎麦屋は上田では割と評判のいい蕎麦屋だ。
街道沿いに店を構えているからお城や城下町からは少し遠いのだけれど、旅の人や人足が途切れるなんて珍しい。

何かしていないと落ち着かない性分だから、店先の通りを掃除することにした。
竹箒で通りの半分くらい綺麗にした時―――

「ナナシ」

と、私の名を呼ぶ声が聞こえた気がして辺りを見回す。すると、

「よっ、繁盛してるかい?」
「あ、甚八さん!」

最近よく店に来る、色黒の背の高い男性。いつも気軽に声をかけてくださる、気さくな面白い人。
タバコをくわえながら店をチラリと覗いたかと思ったら、甚八さんがちょいちょい、と手招きしてきた。

「今日は何になさいます?」

いつも通りネギのせ蕎麦ですか、と歩み寄っていくと、

「んー。」

何か思案するように唸りながら煙を吸い込んで、タバコを指に挟んで口から放す。吸い込んだ煙が空に向けて吹き出されて、春の朗らかな風に流された。
その白い煙が流れるのを目で追っていると、

「やっぱダメだ」

と言うのと同時に、タバコを持っていない方の大きな手が私の手を掴んで、やや乱暴に引っ張った。何の気構えもなかった私の身体は、一瞬のうちに甚八さんの逞しい腕の内に収められてしまった。

「へっ…!?」

男の人にこんなふうに抱き締められたことなんてなくて、頭の中が急にカッと熱くなる。
何より、こんな街道のど真ん中でこんなに堂々と抱擁されているという状況がいけない。恥ずかしいやらわけがわからないやらで、とりあえず甚八さんの逞しい胸板を押し返す。

「ああのじじ甚八さん天下の往来で…」
「何て嘘つくか色々考えたんだけどよぉ」

辛うじて胸板を押しのけて見上げた先には、桜の舞う朗らかな空を背景にしながら私の目をじぃっと見返してくる、鋭い瞳。
その視線がまた頭の中を熱くする。
きっと顔も真っ赤になっているだろう。耐えかねて俯いたら、甚八さんが私の耳元に口を寄せてきて。
そして、とても楽しそうに、低く囁いた。

「今日は、アンタを食いてェな」













2012/04/01 汲々

急に甚八夢。

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