山には小さなぶどうがいくつか実りはじめた。
秋のはじめを告げる銀杏色はじきに照り葉となる、もうじきに。──
少し冷えてきたやも、けれどまだまだ冷え込むというには早い。
自然と共に生きていれば寒さにも慣れた山小屋のくらしだが、されどいささか火を焚いたなら、獣の鳴き声が小さく響いた。
「あら……あら」
よく知っている鳴き声だったけれども、あばらやで一人、薪をくべた女は首を傾げた。
その鳴き声は一瞬けたたましく、けれどすぐに止み、そしてすうっとした足音が近づいてくることがわかったからだ。──
──義勇さん、どうされたのでしょう?
そう思うのは、もう一つ途切れ途切れな足音があるからだ。そして納得したのは、
──義勇さんのことなら皆知っているのだから吠えたりはしないのにそうしたのは、そのもう一人がいらしたからか──。
そして今一度首を傾げたのは、
──されど義勇さんとご一緒なら、あのうり坊も吠えたりはしない筈なのに。
さあ、どういったことか。──
けれどふふっと笑ったのは、
──義勇さん、いらしてくれた。
そう思うからで、それが今この時は全てであり、
──まさか義勇さんのお知り合い? それならばやっぱり、あのうり坊も吠えないはずなのに。
ということは。
──なにか珍しいことが起きたのかしら。
わくわくしてしまうのは人が悪いかも、と思いつつ、
──どちらにしろ、やはり、嬉しい。──
やっぱりそれだけが全て。
山にひっそりと佇むあばら屋で薪をくべていただけでも鈴花にはわかる。
彼の足音が、枝葉をできるだけ傷つけないように避けてやって来る歩みが。
そして、はっとしてあばら屋の土間に降り立った。
「義勇さん……っそちらの方は!?」
義勇さんが来てくれた、など喜ぶ場合ではなかったのだと、引き戸が開け放たれた瞬間、思い知った。
「頼もう」
「ええ、すぐに」
目の前には義勇に肩を担がれた男が一人。血を流している。──
まったく知らない男だ、そして義勇のような鬼斬りであるとか、そういった類の男ではない。
瞬く間に乾燥させた為に色あせた藺草の敷布が敷かれ、それはいつか自分が鈴花に手当てをされた時と同じようなものだと義勇にもわかった。
どうやら、朱色をよく吸って、横たわる人間を落ち着かせる効果があるらしいとは義勇がいつか理解していたことだった。
「こちらに」
「くそ……っ何故、おれを……針はごめんだ、縫われるくらいならこのままのたれ死ぬ」
そう言ったのは横たわった男で、義勇がその男をわりと”ぺしり”と肩を寝せてやり、無言で黙らせたので鈴花も目を丸くした。
「あら、あら、やっぱり、私が喜んでいる場合ではありませんでしたね」
「なんの話だ? おれをどうしようと……」
のたまう男はふしぎそうにした。自分を覗き込む女がどこか、切なげに案じるからだ。
「なんだ? おれなんぞに……」
「やかましい」
義勇がまたもその男をぺしりと、肩を押し付けた程度だろうか。されど乱暴にはしなかった。
それもそうかもしれない。男の胸部はすうっと斬られていたのだから。
「義勇さん、申し訳ありませんが──」
「ああ、湯でも沸かせばいいか」
「ええ、ちょうど薪をくべたところでしたのでそのまま」
義勇がさっと立ち上がり、鈴花の指示を二、三受けながら湯を沸かしたり、自分の手を水で流したり、男の着物を脱がせてやったりしていた。
「くそ……っ」
悔しげな男の声がかぼそく響き、その表情は痛みを訴えていたが、少しづつ、落ち着きを伴っていった。
「なぜ、おれを……治してくれとは……」
「ええ、貴方様には頼まれていません。ですがこちらの方がそう願うので」
鈴花がさじを操り、手当てしてゆく様をじっと見ていた義勇がちらり、そっぽを向いた。
「よくも言う。俺が捨て置けと言っても、おまえは治す」
「はい、その通りでございます」
義勇がまたちらり、そっぽを向いた。
さじ、薬湯、すりごぎ、薬花、温灸、葉──そのすぐ傍には手長の猫が鎮座していて、まるで”よく来たな義勇よ”とでも言われている気がして義勇はふいっと息をついた。
確かに今日もこの猫に”飯”を食わせるつもりでもあったが、まさかこんなことになるとは。そう思って。
「おれはならずものだぞ、治していいのか」
男はぬめりのある葛湯のようなものを塗られ、その感触にちょっと驚きながらもそう言った。
「ええ、治します。けれど、さほど興味はありません。ならずもの云々に関しては」
「なんだと!? う……っ」
「少々しみると思いますが、我慢なさってくださいね。さあ、そろそろ出血もおさまりますよ」
「そんな瞬く間に!?」
「随分薄い切り傷でようございました。少々ながあい切り傷ですが……このご時勢、日本刀で斬られる方はなかなかおりませんね」
それが何を意味するのか──やはり単純にならずもの同士のいさかいでもあったのだろうと推測された。
「うるさい。匕首だ。匕首で斬られたのだ。あの賊め……」
うだうだ言いつつ、薬葉の包帯に巻かれてゆく傷口の感触にひやっとしつつ、妙に落ち着くイグサの香りに呼吸は穏やかになってゆく。
「おまえも賊なのだろう」
じいっと佇む義勇がそう言った。
「そうだ、おれは……おれは……」
声がかすれた。男の涙がこぼれた。
「どうぞごゆっくりお休みになられてくださいね」
たった一言、ゆったりとした声色を耳にしたならいつの間にか眠りについていた。
肌寒い静まりかえった夜だというのに、このあばら屋の中は暖かく、更にいつもより落ち着く煙や薬湯のにおいが立ち込める。
けれど鈴花は眠らずにけが人の容態を診ているし、義勇はじっと佇み、たまに薪をくべてやるなどして、起き続けた。
「落ち着いたなら眠れ」
「いえ、縫いもせず傷口を完治させるには、まだ少しかかりますから」
「血はとうに止まっているだろうが」
「塞ぐにはまだかかります、さすがに」
義勇はかつて自分が手当てされた時のことを思い浮かべた。
今、手当てされている男よりはよほど凄惨な傷であって、その時は二日以上かかった。
あの傷だ、たった二日とも言えた。
その傷跡すら殆どない。──
「次はいつおまえに会いに来れるかわからない。全く、とんだ拾い物をした」
「拾いものだなんてかわいそう。おなじ命ですから」
その当たり前の微笑みが多少気に食わなくて義勇はそっと目を逸らした。
次はいつおまえに会いに来れるかわからない。と、ちゃんと俺は言ったぞ──なんて、心にこぼしながら。
けれど何も言わない。
この男を治してやってくれと願い出たのは自分なのだ。
通行人が倒れていたら介抱してやるようなそんな当たり前のこと。
されどどう見ても賊。
捨て置いてもよかったのに、鈴花に会いにくる途中で──
「捨て置いたならば、きっとあのうり坊にも呆れられただろう、俺は」
──ふいっと呟いた。
捨て置くなどしなかった、と自分でもわかっていて、それを鈴花もわかっていると、わかっていた。
どんな怪我人でも無言で突き出しても、鈴花はきっと治すのだろうと。
今、湯をさんざん沸かすその湯気がたちこめ、薪がぱちりと弾ける音がする。
「あのうり坊は先代から──私もよく守っていただいていて。義勇さんは私に精のつくものを食え、というようなことを以前仰ったけれど、私はぼたん鍋という言葉を口にする事すら憚られるのですよ」
「気の荒い野生をよくもまあ手懐けたなどと言えば山育ちのお前をばかにしているようだ」
「ふふ……っその口ぶりは、口下手にございますなあ」
「なんだと」
義勇がぴくりとしたが鈴花は変わらず手当てを続行中だ。──
義勇は「なんだと」と言っておきながら、ちょっと息をついた。
いつか自分が手当てされたあの晩も鈴花はこうして献身的にさじを操っていた。──
自分のような剣士にも、このようなならずものにも同様に。そう思えば。
「正直に仰ってくださったご様子。なれど、あのうり坊が私を守っていることに安堵なされているのだけなのでは」
義勇が声に出さず、頷いた。
さじを操る女が噛み締めるように頷いた。
「義勇さんが案じてくれているなどと、私は自惚れてしまった」
「自惚れではないと知れ」
たったそれだけ。
鈴花はさじを、薬葉を操り、義勇はどきどき火がぱちりと弾ける薪番をするようにそこに佇む。──
鈴花の膝元には、傷ついた賊がひとり。
やつが賊ながら子供のように眠り呆けるので、二人は静かでいられた。