それは溢れる水に似て
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放課後。雛森桃は、教室にたった1人残っていた。
「……終わった……」
書き終えた書類とペンケースを鞄にしまい、自席から立ち上がる。
全ての窓が閉まっている事を目で確認すると、鞄を肩に提げ、静かに教室を出た。
これから彼女が向かうのは、生徒会室。「書類提出」という仕事を果たす為だ。
「失礼しま――」
「教えてくれても良いじゃない! 早く白状しなさいよ!」
「そんなに騒がないで下さいよ、頭に響きます。ていうか真面目に仕事したらどうすか」
「酷っ! 何でそう固いわけ?」
「会長が脳天気過ぎるだけっす」
生徒会室に入って、真っ先に目に入ったのは、ギャーギャーと騒ぐ2人組。
ソファに寝転がっている金髪の女性は、会長の松本乱菊。
大きな椅子に腰掛け、机の上の書類と睨めっこしている銀髪の少年は、副会長の日番谷冬獅郎。因みに彼は、桃の同級生兼幼なじみもである。
「先輩に向かってよく……あら、雛森!」
「……雛森。どうした?」
桃に気付いた2人は、彼女に声を掛けた。
ボーッとしていた桃は、ハッと我に返る。
「あ……書類を、届けに……」
「そうか。有難うな」
「ううん……。はい、これ」
鞄の中から書類を取出し、冬獅郎に手渡す。
「……じゃあ、私はこれで」
「あら、帰っちゃうの? ゆっくりしていけば良いのに」
「……会長、市丸先輩が待ってるんじゃないすか」
出し抜けに冬獅郎が言う。
「あ、そうね! 急がなきゃ」
ガチャ、バタンと音が響く。乱菊は、風の如く去っていった。
その途端、冬獅郎は桃を見ながら、空席になったソファを指差した。
「……そこ。座れよ」
「え? ……うん」
桃は言われた通り、ソファに腰を下ろす。
「……さっき、乱菊さんと何を話してたの?」
「……どんな奴が好きなんだ、って聞かれた」
「え……」
「教えないっつったら、文句言うし、騒ぎだすし、第一仕事しねえし……あれでよく会長が勤まるよな」
口ではそう言っているものの、冬獅郎は楽しそうに笑っている。
桃は胸にチク、と痛みを感じ、俯いた。
――聞かなければ、良かった。
『しょうがねえな、桃は』
『頑張れよ、桃』
昔は、私のことでしか笑わなかったくせに。昔の笑顔を思い出して、そう思う。
「……どうした」
「え?」
顔を上げると、冬獅郎が心配そうにこちらを見ていた。
「元気無いな」
「そ、そんなこと無いよ」
「……」
冬獅郎は立ち上がり、桃の傍に歩み寄った。
「……日番谷君?」
「手、出せ」
「……?」
訳が分からぬまま、差し出した右手。すると、冬獅郎が、両手でそれを握ってきた。壊れ物を扱う様に、優しく。
手から、腕。腕から、顔。一気に熱が伝わる。
「な、何してるの?」
「俺の元気を分けてんだよ」
「へ?」
可笑しな答えを聞いて、桃は思わず間抜けな声を出してしまった。
「何それ……」
「小学生の頃、お前がやってくれただろ。『元気が出るお呪いだよ』って」
「……あ」
思い返せば、そんなことも有った気がする。
「……覚えてたんだ」
「まあな。……これでよし」
冬獅郎の手が、放される。
手には未だ温もりが残っているのに、寂しさが募った。
桃は今度は左手を差し出して、言った。
「……こっちも握って」
「……」
冬獅郎は黙っている。
――呆れられたかな。
「……」
その不安は、冬獅郎の手によって包み込まれた。再び熱が伝わって、自分でも顔が赤くなっていくのが分かり、冬獅郎から顔を逸らしてしまう。
「何、真っ赤になってんだ」
楽しそうな声が、頭上から聞こえる。悔しさと恥ずかしさから、思わず唇を噛んだ。
――こんなに意識しているのは、私だけなんだ。
自分はただの幼なじみ。所詮、そんな存在。だから冬獅郎は、余裕でいられる。
女として見てほしい。自分はずっと、彼を男として見てきたのだから。
目の前が霞む。だが、涙を拭おうとはしなかった。気付かれていないと思った。
なのに、冬獅郎は突然、顔を覗き込んできたのだ。
「え……な、何……」
「……泣いてる」
「!」
「どうしたんだよ。お前、今日、可笑しくねえか?」
その言葉で、酷く心配してくれているのが分かった。だが、桃はそれを、素直に受け止められなかった。
「……煩い、よ!」
怒鳴り、冬獅郎を強く押す。
「可笑しいのは今日に限ってじゃない……毎日頭が変になりそうだよっ」
「……雛森……?」
「全部、全部――っ、日番谷君の所為だよ」
桃の声は、狂った様に上ずっていた。
学年代表委員になったのは、3ヵ月前。仕事は、生徒会室への書類提出。冬獅郎に会える機会が増えると分かり、嬉しかった。
だが、それは最初だけだった。生徒会室に入る度、乱菊と楽しそうに話している冬獅郎が目に映って、寂しかった。
初めは、一緒に会話したりもしたが、2人の中に入り込めないということが、嫌と言う程分かった。段々と、生徒会室に入るのが嫌になった。
だから、今日だって本当は、仕事をすませたら直ぐに帰ろうと思っていた。
だが、冬獅郎に言われるがままに、残ってしまった。乱菊が出ていってしまったのだから、寂しくなったりはしないだろうと思って。
それは間違いだった。逆に、自分を辛くさせた。
「私の前では乱菊さんの事文句言ってるくせに、何時も楽しそうに喋ってるじゃない!」
「……?」
「私、嫌だった! 仲良いのを見せ付けられてるみたいで、ずっと嫌だった……」
「雛森……」
「もう、頭の中めちゃくちゃにされた……日番谷君の所為だよっ」
「……」
「責任、取ってよっ、ねえ!」
桃は身を震わせ、ポロポロと涙を零した。
「ねえ、早く……」
「……」
「ねえってば……」
「……桃」
久し振りだった。名字でなく名前で呼ばれたことも、腕の中に収められたことも。
幼稚園に通っていた頃は、名前で呼び合うのが当たり前で、毎日手を繋いで歩いていた。
だが、小学校に入学して直ぐに、『冷やかされるのが嫌だから』という理由で、名字で呼ばれるようになり、手の温もりも何時の間にか、忘れてしまっていた。それ以来、ずっとそのままだった。
桃は、夢の中に居るようだった。
「……桃」
ピタリ、と涙が、止まる。
「桃」
トクン、と心臓が、跳ね上がる。
「……」
「俺……さっき、会長にこう言ったよな。『市丸先輩が待ってるんじゃないすか』って」
「……うん……。けど、何でそんなこと……」
「あれ、嘘なんだ」
「……え?」
桃は困惑した。冬獅郎が何を言いたいのか、さっぱり分からない。
「知りたいか? 何で嘘吐いたか」
冬獅郎は笑みを浮かべながら、問い掛けてきた。
そして、桃の答えを聞く前に、額にそっと口付けて、
「……2人きりに、なりたかったからだ」
囁く様に、そう言った。
「……それって……」
桃は、大きく開いた目で冬獅郎を見つめる。
そんな彼女の真っ赤な頬を、冬獅郎は大きな手で包み込む。
「……今まで、お前の前で会長とばっか話してたのは、お前に妬かせたかったからだ」
「……!」
「ごめんな、泣かせるつもりは無かった。……ただ、俺だけが好きなのが気に食わなかったんだよ」
言い終わると、桃から顔を逸らした。頬が、微かに赤い。
「……そんなこと、しなくたって」
桃は言いながら、冬獅郎のシャツの襟を掴む。必然的に、冬獅郎は正面を向かされた。
「ずっと、ずっと前から……シロちゃんしか見てない、よ……!」
桃の言葉で、冬獅郎の目が、微かに揺れ動いた。
桃は再び涙を零し、言葉を続ける。
「……好きだよ……昔から」
「桃……」
「大好き、シロちゃん」
「……ああ。俺もだ」
微笑みながら、そっと唇を重ねる。
「……あーあ。……お腹一杯だわ」
幸せな一時をドアの向こうの乱菊に見られていたことを、2人が知るのはもう少し後の話。
End
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