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Moving Clay

 美作絢歩(みまさか あやほ)はその日、一日中その婚約者の枕元に居た。

 義弟である亘に命じられたせいでもある。

 だがそれ以上に、誰かと目を合わせたくない気分なのだ。

 目の前に居る――既に“在る”という状態に近い婚約者ならば、自分が何を考えても詮索してくる事は無い。

 他人の目から見れば、病の恋人を付きっ切りで心配する美しい姿に見えるだろう。

 増してや、目の前で人が撃たれるという衝撃的体験をしたばかりだ。彼に心の安寧を求めているようにも映る。

――違う。何もかも。

 絢歩の目は目前の恕を見てはいない。

 虚空に向けられた視線は、闇の中で見た顔を辿る。

「…あなたは…誰?」

 銃口の先にあったのは、狂おしい感情。

 現状を壊せぬ恐怖が言葉を紡ぎ、現状が壊れる事への悦びが、心の内を支配していた。

 決められた定め。それを粉々に壊したら、周囲の人間はどんな顔をするだろう。

 従順だった駒が、突如として意外な形で裏切ったら。

 視線を落とす。

 一生を捧げる人は、死人のように眠っている。

 ぞっとする。このまま、私は老い、死んでゆくのだ。

 一生、この枕元で。

「もう嫌よ…」

 静かに、しかしはっきりとした意思を持って、呟く。

「あなたも、お父様も…私に何を期待してるの?どうして貴方達の為に私の全てを犠牲にしなくちゃならないの?」

 枕にそっと、自身の頭を乗せる。

 触れる頬は、温もりを持っている。

――どうせ、人工の温度のくせに。

 機械が心臓を動かす。そうやって巡る血。運ばれる温度。

「この身はあなたに縛られたとしても――心まではそうさせない」

 耳元に囁いた言葉は、固い決意と芯を持っていて。

 絶望的に、心に響いた。








 ばらばらの体。

 止めようと手で押さえても、その腕が崩れ落ちてゆく。

 痛みは無い。

 喪失する感覚だけが辛うじて残っている。

 つぎはぎのパーツが本来あった形に戻ろうとするように。

 そうやって組み合わされ、貼り付けられただけの体だったのだ。

 出来の悪い、壊れかけた粘土人形の様に。


 戻る事の無いと思っていた意識を取り戻したのは、あれから三日後だった。

 不思議な感覚と、密かに落胆する感情。

 まだ、彼は迎えに来てはくれない。

 徐々に意識と視界がはっきりするにつれ、矢張り死んでおくべきだったという、どうしようもない後悔の念が湧き出てきた。

 この状態では、二度と来たくなかった。復讐者としての立場ならともかく。

 もっと錯乱を起こすかと思ったが、意外に冷静を保っている。

 静かに、気が狂いそうな正気の中で、今から起こる事を予測していた。

 生み出された『始まりの場所』。

 苦痛と絶望の巣窟。

 九年、麻痺した心で過ごした『檻』。

 もう、様々な事を感じる用意は出来てしまった。

 痛みだって、あの頃の何倍かに。


「ようやく帰ってきたね。私のモルモット」

 不意に響いた声。

 思わず、身が固くなる。

「おかえり」

 覗き込んだ顔。三日月のように歪んだ口から毀れる言葉。

 背筋が凍るようだ。

 鹿持竜介(かもち りゅうすけ)――クローン人間を創った、張本人。

「まだ動けないだろう?暫く我慢していなさい。そのうち繋がるだろうから」

「…つながる…?」

 乾いた口で言葉をなぞる。口の感覚まで麻痺して、喋る事すら難しい。

「ああ、撃たれたのは肺でな。見事に穴が空いててどうしようも無かったから」

 玩具を残酷に弄ぶ顔で、笑う。

「“入れ替えて”おいた。君のストックから」

「――っ!!」

 持ち上がる筈の無い手が、胸を掴んだ。

 この中に、己ではない自分が。

 皮膚が邪魔だ。取り去ってしまいたい。そんな物。

 ぎりぎりと、手の平が胸から脇を握り締めてゆく。

 爪がめり込み、傷となって血が流れた。

「失敗作だって、こんな所で私の役に立てて、嬉しいだろうさ」

 鹿持は実に楽しそうに、その様子を見ながら笑う。

「ころ…せ…。こんな…まどろこしい遣り方…しなくても…」

 必死に言葉を手繰る口から、一筋血が流れた。

「嫌か?喜んでくれたっていいのにな?」

 手が、その血を拭う。

 その感覚に、全身が総毛立った。

「生かしてあげてるんじゃないか」

 呼吸が速くなる。

 血を拭った手が、頬を撫ぜる。

 息が出来ない。このまま、

 このまま死んでしまいたい。

「そんなに怖がらなくても。冗談だよ」

 見下ろす顔は、仏のような微笑に変わる。

「素人弾で良かったな?脇腹を貫通していたが、命に別状は無かった…まぁ、私が居なければ出血多量で死んでいたが」

「…じゃあ…移植したのは…」

「だから、冗談だよ。君らの“ストック”は移植できる程成長していないんだから」

「…!」

「そんなに怖がるとは思ってなかった。意外だったな、あんな顔が見れるなんて」

 少し弛緩した体に、またも氷を当てるように、言葉は紡がれた。

「感情の触れ幅が広くなったな。それなら、前に増して…遊び甲斐がある」

「やめろ…」

 受け入れたくなくて、逃げたくて、出来る限り首を振った。

 それを止めるように、口元を鷲掴みにされ、視線の自由をも奪われる。

 正面から、憎い――気が狂いそうな程憎い男の顔を受け止める。

 鎌のような口元。

 狂気を宿し続け、それが正気と化した目。

 それらがゆっくりと視界いっぱいに広がり、

 額に唇が触れた。




 この時、正気を手放さなかったのは

 正解だったろうか。それとも、

 荊の道を更に険しくしただけだったろうか。


 なけなしの意識を喰い尽くすかのように。


 真っ黒の闇を、注ぎ込まれる。




 この状態で、正気で居たいなどと思えたら。

 それこそ、狂気だ。











 壊されるまでは至らなかった体。

 それを転がす寝台は、意外にも清潔感に溢れ、日光が心地良く入る場所だった。

 あの頃とは比べ物にならない。どういう風の吹き回しか理解し兼ねる。

 まだ痛む銃痕。

 そして荒れ狂う病魔による痛み。

 眠る事すら出来ない。

 正気と狂気の狭間を彷徨いながら、更に四日経過した。

 柔らかな風に押されてふわりと持ち上がる、頭上の白いカーテン。

 それをぼんやり眺めている。

 もう苦しむ体力も尽きた。

 あの男の手下が持ってくる睡眠薬。それを拒み続けている。

 食事も栄養剤も、点滴も。

 無理に体内に入れられそうになるから、暴れる。

 それは『死への願望』という、

 限りなく正気を保ちたいが為の行動だ。

 実際は狂気との境目なのだろう。

 ふわりとカーテンが持ち上がる。

 日向が顔に当たって目を細めた。

 心地良い暖かさ。

 意識が遠のく。

 単に眠たいだけではないだろう。

 この状態で意識を失ったら、また目覚められるとは限らない。

 朦朧とした意識は、突如響いたノック音で覚醒した。

 誰が入って来るのか。ここの研究所の連中ならノックなどしない。

 気になったが、窓に向けられた視線を変えるのも億劫だった。

「…失礼します」

 耳障りの良い女の声。聞き覚えがある。

 数歩の足音の後、椅子を引く音がして、気配は近くで止まった。

「具合は…いかがですか?」

 絢歩の問いかける声は少し震えている。

 潤也は答える事も、視線を向ける事もしなかった。

「あの…何と言ったらいいか…。…ごめん、なさい」

 ちらりと左の眼球だけが動く。

「あなたの事はここの人に聞いて知りました。…恕の事、憎んで当たり前ですよね…。私達は彼を助けたいばかりに、あなたの様な人を…」

――今更。

 絢歩の謝罪の言葉を聞いたって、冷たい感情が温もる事などない。

「あ、あの、この部屋は私がお願いしたんです。恕がここに泊まる時に居る部屋なんですけど、あなたに使って欲しくて」

 その所為かと納得すると同時に、余計な世話だと思った。

「でも…ごめんなさい。そんなの余計ですよね、憎い人の為の部屋なんて」

 ようやく視線が向いた。

 闇の中でも綺麗な娘だと感じたが、日の光の許の彼女は本当に美しかった。

 透き通った白い肌。大きな瞳。赤い唇。

 清楚、という言葉がよく似合う。

 初めて合った視線。

 先に背けたのは潤也の方で。

 彼女の、助けを求めるかのような、必死に縋ってくる視線に耐えられなかった。

「…余計ついで、なんですけど…」

 おずおずと彼女が言う。

「何も食べていらっしゃらないとお聞きしたので、せめてと思って」

 タッパの蓋を開けると、甘酸っぱい香りが広がった。

「林檎を摩り下ろしてきたんです。これなら食べられるかなと思って」

 含羞むように笑う。

 スプーンを取り出し救い上げ、潤也の口元に運んだ。

「お願い。食べて」

 頑として口は開かない。

 感情の無い目で、戸惑う絢歩を見ている。

 否、感情が入り乱れ過ぎて、果てに無になった、そんな顔で。

「お願い…死んでほしくないから…」

「結局、自己満足だろ?」

 不意に浴びせられた言葉に、絢歩は思わず手を引っ込めた。

「自分達のせいで人が死んだら――それも目の前で、後味が悪いからだ。あんたは良識ぶってる一般人だろ?そんなもんだ」

「……!」

 傷付いた色。

 これだから女は嫌だ、と潤也は溜息を吐く。

 目の端で、絢歩が意外な行動に出たのを捕らえた。

 それを問う前に。

「――!!」

 強い力で引き寄せられ、押し当てられた唇。

 甘酸っぱさが、口から体内に沁みた。

 空っぽだった体は、持ち主の意図と反してその栄養を貪欲に貪る。

 それは一瞬の事だった。

 離された口で、必死に息を吸う。

 驚きもあって、呼吸が乱れた。

 まだ、目の前には憂いを帯びた、しかし強い芯を持った顔がある。

 一方で自分は間の抜けた顔をしているんだろうなと、察してしまった。

「一緒に」

 形の整った唇が、呼気を震わせる。

「逃げよう?」




 禁断の果実は、甘すぎる悪夢の様に。




 それでも心を許してしまったのは、現実がそれ以上に悪夢染みていたから。





 彼女は親達の政略結婚によって恕と娶されそうになっているのだと言った。

 こんな時代に政略結婚なんて無いでしょう?と自嘲して。

 朔浦家のビジネスの駒として、彼女の実家である小さな町工場がある。

 その工場で父親が仕事上の失敗を犯し、『消され』そうになった時、白羽の矢は絢歩に向いた。

 寝たきりの息子の嫁として『人質』に捧げるのなら、見逃してやる、と。

 以来、絢歩は朔浦家で暮らしている。監視される立場として。

「…それでもね」

 寝台に両手と頭を載せる形で、絢歩はぽつぽつと話している。

 その顔のすぐ傍に、天井だけを見つめる潤也の顔がある。

「最初は愛せると思ったんだ。…私が居なきゃ、この人は一人ぼっちなんだって思って」

 朔浦家の人間から逃げるように、その枕元に居場所を見出した。

「でも、同情でしか無かったって…気付いた。そうしたらこんな死人みたいな人の傍にずっと居なきゃいけないのかと怖くなって…」

 視線を合わせる事も、会話し笑いあう事も、触れ合い温度を確かめ合う事も出来ぬ、配偶者。

「そうしたら何もかもどうでも良くなった…。父の仕事も命も、朔浦の人達への恐怖も、自分の命も…」

 絢歩は顔を起こして潤也の顔を覗き込む。

 潤也もそれに応じて視線を横に向けてやる。

「あなたに銃を突きつけられるまで、そんな事も気付かなかったの」

「…いいのか?」

「ん?」

 視線を元に戻しながら、潤也は言った。

「俺も死体みたいなもんだぞ」

 絢歩は無表情で、緩く首を横に振る。

 さらさらと、長い栗色の髪が鳴った。

「あなたとは話も出来る。触れる事も出来る。何より…私を殺す事ができる」

 左腕に両手が絡まり、そっと顔を乗せられた。

「明日なんて要らない。絶望が待つだけなら。…あなたが生きている今だけあれば、いい」

 はっ、と潤也は笑う。

「俺が死ぬ前にアンタを殺さなきゃいけないのか」

「…うん。そうして」

「見た目に無く我侭なお嬢さんだな」

「このくらい、天は聞き届けてくれたっていい筈よ?今まで我慢してきたんだから」

 腕にしな垂れる美しい顔を、見つめる。

「俺が誰を殺すかは、俺が決める」

「……」

 無言の自嘲が返ってくる。

「邪魔だ。離れろ」

 無理矢理腕を引き剥がせば、どうしてと問いかけてくる目がある。

 潤也は無言で、ドアに視線を向ける。

 体を起こして絢歩は振り返る。その時。

 開いた扉の向こうに、制服姿の亘が居た。

「学校から帰ったら居ないから、どこ行ったのかと思えば…」

 顔が引きつっている。

「何やってんだよ、義姉さん…」

 絢歩は黙って亘を見つめている。

「帰ろう。母さんには黙っててやるから、二度とこんな事…」

「勘違いしないで!!」

 突如、響いた怒声。

 亘は驚いて絢歩を見返す。

「私は恕を殺そうとした理由をこの人に問い詰めに来たまでよ!だって…許せないじゃない、もし殺されてたらって思うと…」

 そして、怒りを露わにした表情のまま、潤也を見下ろした。

「理由はよく分かりました。よく…償いなさい」

 ぱんっ、と。

 小気味良い音が響いた。

「義姉さん…?」

「帰りましょう、亘」

 二人並んで扉に向かう。

 途中、絢歩が振り返った。

「生きて…償いなさい。死なんて楽な方法じゃ、許さないから」

 ぱたん、と扉が閉まる。

 一人取り残された部屋。

「いっ……つ」

 思わず平手打ちされた頬を押さえる。

 加減を知らない。かなり痛い。

 拳で殴られる事はあっても、女に平手で殴られるのは多分生まれて初めてだ。

 こんなに痛いものなのかと、痛感した。

「雌狸かよ…」

 去っていった扉に向けて言う。

「参ったな」

 再び窓側へ寝返りを打って、思わず笑ってしまった。

 使えそうな女だ。だが、使い、使われるのはどちらだろう。

 それとも、これは――…



 西日が部屋を赤く染めた。

 紅ではない朱を、久し振りに見た気がした。




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