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Moving Clay

 自室に入った途端、扉の前に体が崩れた。

「ッ――」

 我慢の限界。胸の辺りを押さえて呼吸を整える事に集中する。

 常に付き纏う痛み。

 あまりに日常化してきたせいで、人前でそれを押さえる事を覚えた。

 それでも激痛には変わりないのだ。

 徐々に呼吸が落ち着いてきたのを見計らって、先程孟に渡された袋を開く。

 シリンジが一本、ビニールの中から転がり落ちる。

 中の液体は――モルヒネ。

 針を装着し、カバーを口に銜えて取り、吐き捨てた。

 消毒すらせず、腕に突き立てる。

 外部的な鋭い痛み。しかし彼にとってそれは既に痛みのうちに入らない。

 針を抜き、ゴミ箱に投げた。

 同じ物が中に溢れている。

 確かに最近増えたな、と先程の孟の言葉を反芻する。

 薬の効きが徐々に浅くなっている。それが何を意味するか。

 不確かな足取りで潤也は立ち上がり、ベットに身を投げた。

 酷い眩暈。空間が歪んでいるようだ。

 脳を掻き混ぜるかのような感覚。

 和らぐ痛みの代わりに齎される、嘔吐感。

 意識が朦朧としてくる。

 睡魔に身を任せようと、片方しかない目を閉じた。




「帰ったぞぉ…って、あれ?」

 嵯横佑尭(さおう すけたか)は思い切り良く扉を開けて呼びかけたが、そこに意外な人物が居た事で、その勢いが殺がれた。

「貴田さん、来てたんですか」

 佑尭は孟に向かって言った。

 『貴田孟(きだ たける)』それが彼のフルネーム。

 尤も、本名とは言えない。偽名である可能性もある。

 現在は密売人として、数名で編成する組織を作り暗躍している。

 それ以前の過去は、誰も知らない。

「勝手に上がらせて貰ってるぞ」

「どうぞどうぞ…って、元々俺が貸して貰ってる部屋ですからね。貴田さんなら何されても文句は言えませんよ」

 佑尭は言いながら部屋に入る。

 否応無く目に付く、もう一人の先客。

「この子供は?」

 珈琲を作りながら、目線で孟に問う。

「前から言っていたあれの仲間だ。悪いがコイツも世話を見て貰う」

 孟の言う『あれ』とは、潤也の事だ。

 決して名前では呼ばない。

 孟にとっては、物でしかない。

「貴田さんの頼みなら断れませんねぇ。ま、潤ほど手はかからなそうだ」

「頼んだぞ」

 言い残して、椅子から立つ。

「あ、もう行くんすか?珈琲のお代わり作っちまった」

「次の機会に貰おう」

 気を止める事なく、流れるような動作で扉に向かう。

 その足が、ふと止まった。

「岩戸、開けるなよ」

「了解です」

 頷いて、出て行く。

 何処に向かうのかは分からない。素性は謎が多い人物なのだ。

 この倉庫兼事務所にも、月に一度姿を現せば良い方だ。

 孟の言った『岩戸』とは、他でも無く『天岩戸伝説』の転用だ。

 日の神アマテラスは、弟スサノオに怒り、岩戸に閉じこもる。困った神々は岩戸の前で舞い踊り、それを覗き見たアマテラスを岩戸から引っ張り出したという神話。

 つまり、引きこもった潤也の部屋を開けるな、という警告。

「…さて、と。ボクは名前有りますかー?」

 佑尭は少年に問う。

 彼はきょとんとした顔で、首を横に振った。

「飼うなら名前付けなきゃだよなぁ。なぁににしよっかな、と…」

 言いながらソファに転がる。あまり本気で考える気は無さそうだ。

 転がった状態で雑誌を捲りながら、ぶつぶつと一人ごちている。

「名前つけるったってなぁ。ポチとかじゃ流石にマズイよなぁ」

 一応人間の成りはしてるからなぁ、と自ら否定する。

「親の一字取るとか簡単で良いよな。親?…俺でいっか」

 どうやら単純な思考回路を持つ男らしい。

「嵯…横…俺ってなんでこんなに難しい漢字なのかねぇ」

 確かに持ち主とは不釣合いだ。

 佑尭がぶつぶつと考えている間、子供は彷徨わせていた視線を一点で止めた。

 潤也の入っていった、扉。

「尭…この漢字好きなんだよなぁ。タカ、か…アリだな。でも俺と被って面倒臭ぇな」

 子供は立ち上がる。何かに操られるように。

「読みを変えてみる、とか…って、オイ!!」

 佑尭は慌てて立ち上がって、子供の行動を止めた。

 ドアノブに伸ばされた手を、掴み上げる。

「やめろ。殺されるぞ」

 言い聞かすように、怖い顔を作って彼は言った。

 言っている事は冗談ではない。本気だ。

 それ故の、孟の警告。

「…お前の名前」

 変わらず腕を持ったままの状態で、佑尭は続けた。

「尭冶(あきや)だ。悪かねぇだろ?」

 不思議そうにその顔を見上げていた子供が、こくりと頷いた。






 声が、聞こえた気がした。

 懐かしい声。呼ぶ声が。

「智之…?」

 思わず目を開き、首を横に巡らせる。

 揺らめく視界。それが徐々に具現化していく。

 あの、笑顔が。

 次の瞬間、それは蕩け、不穏なざわめきとなった。

 呼ばれている。

 あの世から、自らあの世に送った者達に。

 それは数え切れない程の影となり、不気味に手招きしている。

 引きずり込もうと手を伸ばしてくる者。

「ッ――!!やめろっ!!」

 叫んで、手元にあったクッションを亡霊達に向けて振り回した。

 不気味な笑顔が、妙に際立つ。

 手は、次々と潤也の体を掴んでいき――

「やめ…やめろぉぉ!!」

 狭い部屋を逃げ回る。

 何処に逃げようが、迫る手を払いのけられない。

「悪いのはてめぇらだろうが!!てめぇらが俺なんか作るから――っ!」

 手に持った物。

 その重みで、少しだが意識を取り戻す。

――幻覚だ、これは。

 それでも見えるモノが消える事は無い。

 セーフティを外そうとする手を、もう片方の手で押さえる。

――落ち着け、ただのまやかしだ、これは――

 自らに何度も言い聞かせているうちに、それは薄れてゆき、消えた。

 ぐったりと、壁に寄りかかって座る。

 ただの副作用にしては、質が悪すぎる。

 左手に持った銃を、ぼんやり眺めた。

 何気なく、それを顳(こめかみ)に当てる。

 冷たい金属の感覚。

「…まだ、早い、か…」

 虚しく笑って、手を下ろした。

――だが、もうすぐだ。

「呼ばれなくとも、逝ってやるよ」

 既に見えなくなった亡霊達に告げる。

 酷い眠気。また何か見えてきそうな意識の浮遊感。

――智之。

 亡き友の名を心で呼ぶ。

 今の俺を見たら、お前は何を言うだろう――

 先刻、掴みかけて失敗した希望を反芻しながら。

 潤也は意識を手放した。






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