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Moving Clay

 震える手から奪った拳銃。

 身を護るという本能の元、何発も打ち込んだ弾丸。

 それが、最初についた『嘘』。


 生まれて初めて、犯した『罪』。




 少しでも、この温もりの断片を知っていれば、犯す事など無かっただろう。

 そして同時に、『今』は無い。

 苦しみ、生きるべき『今』は。


――俺は結局、どうしたいのだろう?

 絢歩の顔を間近に見つめながら、ぼんやりと考える。

 眠る顔。血の通う頬。温かな唇。

 嘘でも、こんな安らぎが手に入るのなら、それを欲しいと願うのだろうか。

 それが、『救い』なのだろうか?

――否。

 今更そんな逃げに走る気は無い。

 何の為に、ここまで生きて。

 真実と、復讐の為に、生き永らえてきた。

 どうせ、もうすぐ終わる意識なのだ。

 貫き通さねば、虚しいだけだろう。

 まだ、歩ける。この生温い生の中で。

 切りつけるような現実の寒さの中で。

 歩かねば、ならない。



 あの日以来、自ら付けるようになった傷は、本気で死を願った訳ではない。

 まだ、捨て切れなかったのだ。

 自分が、人間である事への、希望を。

 それは、生への固執でもあり、温もりを追った結果でもあった。

 憎しみの目が、残像として残り続けて。

 その目に、苛まされ、罪悪感として凝り固まった。

 許してほしかった。

 傷だらけの、真っ赤な右腕。

 これを、彼女に捧げれば、また嬉しそうに笑ってくれそうな気がして。

 それでも、晴れぬ罪なのだと知った時。

 あの時死を持って終わらせておけば、こんなに苦しむ事は無かったのだと、悔いた。


 気付くと、警察病院の深層で輸血されながら、受け入れ切れなかった過去を忘れた己が居た。

 人間への希望と、生きる事への執着をも、棄て去って。







 扉の閉まる音で絢歩は目覚めた。

 同時に自分が眠っていた事実に気が付く。

 隣は空で、まだ少し布団に温もりを残すのみであった。

 安心してしまったのは、自分の方だ。

 胸の中で、安らかに眠る顔を見ながら。

 床の軋む音。

 はっと、身を起こす。

「起きたか」

 顔も向けず、いつものように彼は言った。

 塗れた頭を、建前程度の動きで拭きながら、上着を探しているようだ。

 大きめのタンクトップの下の体は、傷跡が目に付く。

「もう、治った?」

「耐えられない程じゃない」

 雑然と収納されたクローゼットから、黒いシャツを引っ張り出す。

「まだ…怒ってる?」

 おそるおそる、一番訊きたかった事を口にする。

「何を?」

 大して気にかけた表情も無く、シャツを羽織りながら横目で訊き返す。

「…なんでもない」

 この反応だと、却って蒸し返す方が危険だ。

 それとも、彼にとってはどうでもいい事なのだろうか。

 解らない。何を考えているのか。

 何を求め、何を必要としているのか。

 彼にとって、自分は必要なのか、不要なのか。

「左利きなんだ?」

 わざと明るい顔をして、話題をすり変える。

 服を探すのも、ボタンを留めるのも、全て左手。

 右手はだらりと下げられたまま、頭を拭いていたタオルを手にしている。

「あ…?まぁ、な」

 曖昧に返事をした後、『どうだっていいだろ』と低く呟く。

「あっ、もしかして両利き?左利きの人は多いらしいね?いいなぁ、便利そう」

「…孟は右利きだ」

「…え…?」

 思い出す。カップを持っていた手は、右だった。

「それ、遺伝じゃないって事?」

「俺も元は右利きだった…」

 『どういう事?』と首を傾げる。

 潤也はクローゼットに向かい合っていた体を反転させ、絢歩に歩み寄った。

 途中、左手で棚に置かれていた銃を攫い、装着する。

 詰め寄られて、絢歩は思わずベッドの上で後ずさった。

「あんたが言った“救い”は、俺に通じない」

 怯えと、慈悲と、疑問の雑じる瞳が、見上げる。

 その目の前に、右手を突き出した。

 正確には、右腕の手首。腕の裏側。

 薄暗い部屋の中、白い肌をまじまじと見つめて、浮かび上がってきた、紋様。

「っ――!!」

 思わず、悲鳴を上げそうになった口を押さえ、目を背けた。

 潤也は無言のまま袖を下ろす。

 隠したのは、傷跡――それを越えた、贖罪の痕跡。

 斜めに切り刻まれた無数の線。それを貫く、長い、一本の縦軸。

 それは、打ち付けられた十字架のように。

「この手は…この世で唯一の肉親と言える人間を撃ったんだ。それが憎くて…壊したかった。だから使えなくした」

 震える絢歩を前に、自嘲を浮べて、懺悔の如く。

「死ねなかった」

 ぽつりと、彼は言った。

「案外、楽なもんだぜ?血の気が引いて、意識が遠のいて…これだけで終わるのかと思った…でも」

 幼い日をなぞる。

 何故、今。

「それだけじゃ、許して貰えなかった…。一度誤った選択は、二度と修正が効かないんだ。どんなに死を望んだって、一度生きる事を選んだ以上は」

 疲れ果てた顔で、絢歩の顔を見やる。

 その目を、細めた。

 だぶる、女の顔。

『どうして…?』

 絢歩の声なのか。それとも。

「死んだって、楽にはなれないよ!どうしてそんなに自分を責めるの!?どうして苦しい方に行こうとするの…?」

 紛れもなく絢歩の声が、問い詰める。

 その優しさを、温もりを知ってしまったら。

 また、繰り返される、過ちと悪夢。

「悪いのは、あなたじゃない…!」

「知った口利くな!!」

 舌打ちして、顔を背ける。

「罪も知らずに俺を掬い上げようとする奴は、皆同じ事を言う…。お前らに…何が分かる?単なる同情で弄ぶのは止めてくれ…。もう、懲り懲りだ」

 物でしかないから。

 そんな物の為に、情念を掛けるなど。

 これ以上、罪を背負う身を重くしないで欲しい。

「生きる事に縋った俺が、悪かったんだ…。人間になれはしない。それが自然に反する罪だから」

「私はあなたに生きていて欲しいだけ!救われて欲しいだけ…!なのに、どうすれば…」

「救い、か」

 感情の抜けた口許で、その言葉を繰り返して、彼は右手を持ち上げた。

 封じられた手は、銃を握って。

「…これが、俺の“救い”だ」

 銃口を、頭に向けた。

「待って!!」

 絢歩がその手を止めようと、身を乗り出す。

 止められる前に。

 あの時、引けなかった引き金を。

「やめて――っ!!」

 彼女の耳に届いた、乾いた金属音。

 恐々、見上げる。

 闇を凝視する顔。それは虚ろで。

 銃に、弾は入っていなかった。

 目の前に、だらりと下げられた手。

 凶器を持つ、贖罪の為の右手。

「…無理だろ?あんたには」

 引っかかった声。

 それを紡ぐ口許は、吊り上がって。

 笑う。可笑しそうに。馬鹿にした笑みで。

「潤也…」

 呆然と、絢歩は名を呼ぶより無かった。

 狂気だろうか。

 孤独に狂った精神の、行き着いた場所なのだろうか。

「それは俺の名じゃねぇよ!あんたは俺の事なんか何も知らないんだ!」

 笑っているのか、怒っているのか、泣いているのか。

 違う、これは。

 『人の形』を保ちたいが故の、

 正気なのだ。

 ベッドから降りて、立ち尽くす彼を、そっと抱きしめる。

 入り混じった感情は、うっすらと涙目だけを残して。

 その顔を、頭を、体を、壊れる寸前の力で、胸に閉じ込める。

 それでも、心は、どこか別の場所にあるのだと。

 私なんかの狭い心に納まってはくれないのだと、理解してしまった。

「…死にたいんだ」

 自分の身の中に埋もれた声が、呟く。

 首を振って、更に力を込めたが、反発する力の方が勝った。

 真っ直ぐに、見据えられた目。

 覚悟を決めて、その痛みに耐えている。

「もう、放っておいてくれ」

 ようやく訪れようとしている、終わり。

 その言葉だけが、救い。

 目を逸らし、体を扉に向けた。

「これ以上首突っ込むなら、帰れ。朔浦でも実家でも。とにかく、俺の前から消えてくれ」

「…嫌、って言ったら?」

「殺してやるよ」

 振り向いた顔。

 涙で滲んで、はっきりとは見えなかった。

 その、残酷なまでに優しい、微笑みを。

「それが望みなんだろ?」






 肉親。母親。愛情。

 生まれた人間が求めるもの。無くては生きてゆけないもの。

 知らなかったのは、その実体で。

 人間である為の本能は、知らないフリをした。

 その虚ろな欲望がいつしか罪となって。

 誰かを、傷つける。

 繰り返さないよう慎重になるあまり、また繰り返すのだ。

 『嘘』という、『罪』を。



 閉めた扉に寄りかかり、銃に弾を込める。

 背後から聞こえる嗚咽を、静かに、受け止めた。

 ここまで喋って、見せて、傷付けてしまうのは、矢張り他人ではないからだと、解ってしまった。

 だからこそ、突き放さねばならない。

 これ以上は、互いに耐えられないから。

「あんたじゃない…」

 だぶってしまった、面影を振り払う。

 絢歩に幻覚など、見たくない。

 この感情は、間違いなく、エゴだ。

 忌み嫌ってきた、人間の感情だ。

 弾丸を全て装填し終わる。

 弾層を銃把に収める。

――もしもの場合、彼女を殺せるだろうか?

 扉から背を浮かせようとして、ふと思いついた疑問。

 扉越しに居る、彼女を振り向く。

 そして、その扉に、リロードしたばかりの銃口を押し付けた。

「…当たり前だ」

 自ら答えを口にする。

 殺せる、否。

 殺せなければ、本物ではない。

 『人間』を拒絶してきた己の生き方に。

 もう嘘は付かないと、誓った。






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あきゅろす。
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