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Moving Clay

 微睡みの中、逃れられぬ運命を手繰り寄せてしまった。

 それは故意か自然にか、記憶の闇の中に葬られていたもので。

 それ自体が重罪なのかもしれない。


 女を、殺した。

 それは安く下卑た光の中で、生きていく事を知って間もない頃。

 感情の半分も、まだ知らなかった。それは、幸でもあり、不幸でもあった。

 生きていく術を教えるのは、自分より数歳年上の子供達。

 いずれも戸籍があるのかすら怪しい、一般的に『恵まれぬ』環境の子供達だ。

 その中の一人に拾われ、彼の道具として、その日を生きていた。

 方法なら簡単だ。

 金を持っている人間から奪えばいい。

 十代の、そこそこ力のある少年達は、道行く人間を襲撃して金目の物を奪った。

 その街は、ルールも道理も無い弱肉強食の世界。

 生きる為に、皆手を汚す。それが出来ぬ者は死ぬしかない。

 そんな路頭に行き着いてしまった彼――潤也を拾った少年は、その容姿を売り物にする事を考えた。

 しかも、銃まで持っている。使わぬ手は無い。

 あらゆる事を命じた。それに反抗する訳ではなく、従順に従う事も便利だった。

 彼にとって、それは檻の中の延長線上の世界だった。『抗う』事など知らなかった。

 手を血に汚し、身を欲望に汚されながら、それでも生きる事を選んだ。

 逃げ場所など、知らなかったから。

 それを、急に思い立った、あの日。



「お嬢ちゃん、同業者かしら?」

 勘違いも甚だしく、その女は声をかけてきた。



 孟は途中で車から降りた。

 仕事を抱えており、取引に向かったらしい。

 お陰で訊きたい事は訊けず仕舞いだ。――尤も、何か質問できる程、頭の中は整理されていない。

 訊く事すら無いのかもしれない。

 ただ、人が一人死んだ――それだけだ。

 彼らにとっての日常が、また一つ繰り返されただけ。

 そう捉えてしまった方が、楽なのは確かだ。

 人と人との繋がりなど、知った事ではない。

 他人であり、復讐相手には変わらない。例え、その裏に張り巡らされた遺伝子の鎖があったとしても。

 他人は、他人なのだ。血縁関係など問題にすらならない。

 それが希釈された存在――それが、己なのだから。

 そう自分に言い聞かせても、何かが引っかかる。

 そして、抱き続けた一つの疑問に行き着くのだ。

 『俺は、何者なのか?』


「おい、生きてるか?」

 半笑いの佑尭の声で、意識はそこにある現実へと戻ってくる。

 帰ってきたようだ。

 額を押さえ、現の感覚を徐々に慣らしてゆく。

 酷く、気分が悪い。

「歩けるか?ま、目が覚めたならお姫様だっこは却下だぜ?」

「死んでも頼まねぇよボケ…」

 扉を開け、一歩踏み出す。

 いつもの、何でもない距離が、いやに長く感じられた。

 視界が歪む。壁づたいに進むより無い。

 佑尭はまだ眠り続ける尭冶を背負って車から出た。

 居住区の扉を開ける。

 絢歩がすぐさま反応した。

「潤也!!無事!?」

 駆け寄ってくる。

「どうしたの…?顔色が悪いよ」

 手を差し伸べようとする彼女を避けて、自室に向かおうとしたが、それすらあまりに遠かった。

 リビングのソファに身を横たえる。

「普段の行いが悪いから、天罰でも当たったんじゃない?」

 目の前のヒトミがさらっと詰る。

「そんな事無いですよ!こんな苦しそうなのに…」

 懸命に絢歩が弁解に回る。ただし、潤也本人からしてみれば、どちらの言葉も煩い。

 ただ、残念ながらそれを言葉にする気力が無い。

「ただいまー」

 佑尭が部屋に入ってくる。

 その背には、尭冶。

 ヒトミが出迎えた。その後ろで。

「…その、子…」

 目を見開いて、幼い顔を凝視する。

「あ?ああ、お嬢さんの婚約者だっけ?」

「へ?この子が?」

「ばぁか、この子はクローンだよ」

 ヒトミとたわいの無い言葉を交わしながら、佑尭は尭冶を自分の部屋で寝かせようとした。

 その腕を、強い力が掴む。

「その子、どうするつもりですか?」

「どうって…ちゃんと休ませてやりてぇんだけど?」

 強い瞳に押されながら、佑尭は極当然の返答を返す。

「そうじゃなくて…、その子が、何故ここに?ずっとここに居させるつもりですか?朔浦に返さずに?」

「そりゃそうだろ、あそこに居たら殺されるんだぞ?返すなんて…正気か?」

「恕はどうなるんですか!?その子が居ないと死んじゃうんですよ!?」

 叫んだ絢歩を、佑尭は冷え冷えとした目で見やる。

「それ、本気で言ってる?」

「だって…恕の為にその子は…。そう、その子を作る為に、私までいろいろと犠牲を払わなくちゃいけなかった!この計画が成功すれば、私達家族は朔浦に怯えず暮らせるんです…。私は、その中に入れないけど…」

「…察するに、お嬢さんは朔浦家に弱みを握られて、それをクリアする為にはコイツが必要、って事だな?」

「ええ。貴方達に止める権利は無い筈でしょう?」

「まぁ、な。アンタの幸せを奪う権利は無い。だが」

 佑尭は尭冶を背負い直す。

「コイツを救う権利は持ってるぜ?その結果、誰が傷付き死のうとしててもな」

「……!」

 佑尭はそのまま奥に姿を消す。

「あんたさ」

 その背を見送ってから、ヒトミが口を開く。

「本当は誰を愛してんの?」

「それは…!」

 はっと我に返る。

 振り向けない。その答えとなる人を。

「自分が可愛いだけじゃない?優しいフリしてさ、皆が幸せになればいい、なんて綺麗事ぬかしたいんでしょ?」

 俯いた顔を静かに横に振る。

「そんな、つもりじゃ…」

「ま、いいけどさ。アタシが首突っ込む事じゃないし。ただ、潤也にはそんな甘さは通じない。それは覚えておきなさい?」

 『知っています』と小さく言って、彼女の元から離れる。

 ヒトミは短く息を吐いて、佑尭の後を追った。

 二人きりとなった部屋。

 佑尭が呼んだ組の仲間は、倉庫側で待機している。

 時々笑い声がこちらまで響いた。

 視線。

 気まずくて避けていた彼の顔を、振り返る。

 片目は開いており、こちらを凝視している。

 不信の、目。

「ごめん…」

 他に言うべき言葉を失って、絢歩はそう呟いた。

「何もかも捨てる覚悟で、あなたに付いて来たのに…。何も、捨て切れないんだね、私」

 もう一度『ごめんなさい』と呟いて、彼女は背を向けた。

 嗚咽が、静かに響く。

 幾ばくか眩暈の治まった体を起こす。

 立ち上がって、自室に向かう。

 彼女の横をすり抜けて。

 何も、言うべき言葉など無い。

 所詮は『他人』だ。





 薄暗い部屋。落ち着く訳ではないが、まだマシだ。

 誰も入ってこない。独りだけの空間。

 ぼす、と音を発ててベッドに身を投げる。

――人間なんか、信じる方がどうかしている。

 一瞬でも気を許してしまった自分が信じられない。

 ココロは時に、本心以上の嘘を付く。

 それは、自分だって、彼女だって。

「うぜぇ…消えろ…」

 虚空に向かって命じる。

 先程から幻覚がちらついている。

 先程、目の前で死んだ男の顔が。

 知りたいのは、血縁というルーツではない。

 何故、作られたのか。

 目を閉じる。

 もう考えを巡らせるのも面倒だ。

 このまま死んだって、何の問題も無いだろう。

 目の前で人が死んでいくように。

 それと、何の違いも無い筈だ。

 ひやり、と。

 冷たいものが、足を掴む。

「――!!」

 思わず目を開き、“それ”を見た。

 女が。

『どうしてあんたが生きるの…?』

 頭の中で響く、声。

『生きる価値も無い、あんたのような子がこうして生き永らえて、どうして私が死ななければならなかったの…?』

 ずる、と、手は体を引き込み。

 引っ張られる力に成す術も無く、その顔を見開いた目で見つめる。

『どうして…?』

「…知るかよ…!?」

 引っかかる声で、反論する。

「あんたが弱いから死んだんだろうが!?そんな世界に生きていながら、泣き言言うのか!?俺は…」

 あの時。

 反射的に、選んだ選択。

 それが正しかったのか、今も判らない。

『どうして…?』

「俺は、生きていたかったんだ…」

 力無く言った答えに、亡霊は消えた。

 その代わり、そこに絢歩が立っていた。

 驚いた顔で、扉の前で固まっている。

「潤也…?」

「…誰が入っていいなんて言った?」

「ごめんなさい!でも、あんまり苦しそうだったから、つい…放っておけなくて…」

「放っておかれた方が俺は楽だ」

「そう…よね。ごめん…」

 踵を返そうとする絢歩に、潤也は声をかける。

「言いたい事があるなら言って行けよ。そっちのが心地悪い」

 彼女は驚いた顔で振り向く。

「…寝たくないから、話相手くらいしてやる」

 正直な所を口にすると、彼女は嬉しそうに笑って、独りだった部屋に入ってきた。

 悪夢を見せ付けられるくらいなら、まだ。

 嘘でも優しい方が、いい。




 その女は娼婦だった。

 だがボロボロの衣服を身に纏ったその風体から、彼女はまともに生業が出来ていない事が、容易に判る。

 案の定、手を差し伸べて、こう言った。

「それ、頂戴?このままじゃ、死んじゃうの。分かるでしょ…?」

 ぎゅっと、先程手に入れた金を握り締める。

 多い額ではない。それは、己の身の値段。

 その殆どは、自分を使役する少年に渡すものだ。

 それが、この世界で辛うじて生きられる、居場所だから。

「ねぇ、お願い…少しでいいの、分けて?」

 痩せ細った手。

 もうこのままでは数日と持たないだろう。

 迷う手が、硬貨を一つ、その手の平に落とした。

「ありがとう」

 嬉しそうに、本当に嬉しそうに女は笑った。

「お嬢ちゃん、イイ子ね?その歳なら幾らでも稼げるでしょう…?羨ましいわ」

「…違うんだけど」

「あら?男の子?へぇ…可愛い顔してるのね」

 女は手招きして、隣に座るよう促した。

 逆らう理由も無い。素直に従う。

「ねぇ」

 女は徐に口を開く。

「私が生きていた事の、証人になってくれないかな?」

 不思議そうに見返すと、寂しそうな笑みが返された。

「このまま、誰にも知られず死んでいくなんて、嫌」

「……」

「調度、君がここに現れた。神様が最後にこの哀れな女の願いを聞いてくれたのかもしれない」

「神様なんて、居ない」

 『そうかもね』と女は虚ろに言った。

「私は神様になろうとした人間に利用されたわ」

 はっと、女の顔を見上げる。

「子供をね、生まされたの」

 感傷的な女の瞳は、遠くを見ている。

「大金に釣られた私も馬鹿だったわ…。そんな金、娼婦なんかに払う筈が無いのにね…。お腹を痛めて…苦しい思いだけして…捨てられた」

「その、子供って…!?」

「私の子供じゃないの。変な話だけど」

 鼓動が、いやに響く。

「あの子が…憎い。あの子のせいで、私はこうして死んでいくのよ…もう、客なんか取れないもの…」

「…殺したいほど、憎い?」

「ええ。当たり前よ。他人の子のせいで、私はこんなに惨めな想いを…」

「じゃあ、殺せばいい」

 驚いた顔で、女は見つめる。

 この顔。きっと。

 生まれて初めて見た、人間の顔だ。

「何を言って…」

「あんたがその子を生んだのは、九年前だろ?」

「そう、だけど…!?」

 銃を取り出して、その手に押し付ける。

「憎いなら、殺してくれればいい。それであんたが楽になるなら。…俺だって」

 震える手が、グリップを握る。

「死んだほうが、楽なのかもしれない…」

 初めてその逃げ道に気付いた。

 憎しみを向けられて、初めて。

 それが、最上の手段なのだと。

 信じた。一瞬の事だったが。

「あなたが…」

 女の嗚咽が聞こえた。

 閉じた瞳はその顔を捉えなかった。

「天使だと、思ったのに…」

 弾丸を装填する音。

「どうして、君が、あの、憎い子供なの…?」

 感覚で、銃口が向けられるのが分かった。

 迷いだらけの、殺意。

 それでも、死ぬ事には変わりなく。

 それが唯一の救いの道だと、悟ってしまったから。

 逃げたかった。現実から。

 その引導を渡す、然るべき人に出会えた。

 その筈だった。

 銃声がひとつ、薄暗い路地裏に響き渡った。



 それでも。

 それでも、生きていたかった。どこかで。

 どんなに手を汚しても。

 どんなに苦渋を味わっても。

 いつか必ず死ぬ。それを解っていながら。

 生きる者は、生に縋り続ける――




 反転させた銃口は、女から生温い血を流出させて。

 同時に、冷えきった逃げ道を奪っていた。

 自分のした事の恐ろしさに、自ら銃口を向けたが、

 引き金は、引けなかった。


 生きることが贖罪なのだと。

 女の屍が、語っていた。




「解ってたんだ…本当は。あなたとは生きる場所が違い過ぎる事も、自分の覚悟が半端だった事も」

 耳元で、絢歩の甘い声が、囁く。

「それでも、この想いは…どうしようも出来なかった。だから、嘘を付いてでも、あなたに受け入れられたかった…」

 知らない筈の人の体温は、本能が覚えていたのだろう。

 何もかも、癒えてゆくようだった。

「勝手だね…。解ってるけれど…」

 危険な温もり。思考能力を蕩かす。

「人間として、生きて欲しい…。愛して…それを、知ってもらいたかった…」

「どの道、俺は死ぬ。あんたが望もうが、俺がそれを拒もうが」

「その前に、人になってくれないかな…?」

「……俺が?人に?」

「それが、救われる方法だと思うの。あなた自身が」

「まさか」

 鼻で笑っても、強い瞳が揺らぐ事は無かった。

「救われて欲しいの。せめて」

「…俺はそんな物、求めちゃいない。求める権利すら無い」

「なんで…?」

「さあ、何でだろうな」

 この温度があれば、悪夢など見ない気がする。

 重い瞼を、閉じる。

 しなやかな指が、頬を撫でる。

「私は、あなたを護ってあげる力が欲しい…」

 子供のようだ。

 知らないけれど、きっと人間の子供はこうやって温もりを知る。

 俺のように、流れる血の冷たさを知るのではなく。

「おやすみ」

 最後に耳元で囁いた言葉は、夢の中まで届いた。



 人間になる?


 それは、甘く気持ちの悪い冗談だ。


 一種の母親とも言える女は、死ぬ間際、俺を憎しみに満ちた目で見やって、

 『死神』だと罵った。



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