RAPTORS
2
夕食を済ませ、今夜はさっさと寝ようと、隼は一人寝室に入った。
他の面々は、テーブルを囲み和やかに談笑している。その声が、薄い木の壁を通して聞こえる。
ふと、幼い頃に戻ったような錯覚を覚えた。
デジャブのような、記憶に無い記憶。
でも確かにこのような状況はあった筈だ。覚えていないだけで。
忘れようと努めていたのかも知れない。
ここの記憶は、思い出す限り、楽しいものは無い。
この家に来てからの数年間、皆が談話する横で一人寝かされていた。
体が弱かったのは、この国の空気汚染のせいだ。
その原因すら知らなかった。己の出自など、何も。
常に孤独だったのは病のせいだけではない。この容姿。
同じ屋根の下で育つ子供達の想像は、彼を魔物扱いした。
無視、中傷、暴力。それでも耐えてきた。諦めと共に。
その均衡が崩されるまでは。
己が何者であったかを知るまでは。
「根…か」
認めたくはないが、認めざるを得ないだろう。
忘れた方が楽だと解っている、そんな記憶。
今は何もかも消えた。
この部屋で共に寝起きしていた子供達は、戦火の中に。
報いだとは思わない。ただ、救えたのではないか、と。
自問して、諦める。
全て、宿命だ。
己の運命も、また。
「俺は、地の人間だ」
自分に言い聞かせ、隼は瞼を閉じた。
夜の、ひんやりとした空気が、薄い衣を通して黒鷹を包む。
寒い訳ではなく、心地良い外気だ。
月明かりが、黒鷹に、そして彼の立つ野原に降り注いでいる。
寺院の裏庭。
正確には墓地。
磨かれた石が、生い茂る草の中に数十基ほど立っている。
黒鷹は草を踏みながら、一つの墓に歩み寄った。
墓を目の前にして、小刀を取り出す。
「何する気?」
ふいに声がかかった。
茘枝の声。全く気配に気付かなかった。
「…やっぱ、忍だな。」
「職業病ね。驚かせた?」
「不意討ちには慣れてる」
改めて茘枝を見る。
裏庭へ通じる寺院の扉に背を預けている。
「何する気なの?」
同じ質問を繰り返した。
「…草刈り」
「…なんだ」
黒鷹は、墓の前に伸びた草を、小刀で切った。
「何考えてるんだよ」
「だぁって突然刃物とか出したらコワイでしょうが」
「何も危ない事しねぇよ。要らん心配するなって」
言いながら草を切り続け、墓の前が大体開けると、今度はその隣の墓へ移る。
「どうしたのよ、唐突に。清掃ボランティア?」
「司祭が出来ないから、代わりにやってんじゃねぇかよ」
「ボランティアじゃない。明日雨降らせないでよ」
「だって…」
言葉と共に、口も止まる。墓石を、じっと見つめている。
「…これが誰の墓か、知ってんだろ」
「想像はつくけどね。ここに来るの初めてだから」
建物の裏手にある、木と柵で囲まれた、この場所。
ここにある墓は全部、王家の人々が眠っている。
黒鷹が見つめる墓は――
「皇子と皇后陛下ね」
「そ、兄上と母上の…」
最後の草一房を切って、黒鷹は立ち上がった。
「他は綺麗にしないの?」
「知らない人だから」
「あ、そぅ…」
バチ当たりな奴、とぼやく。
「…父上の墓、立ってないんだ」
横のぽっかりと開いた空間を見て、黒鷹は言った。
「そりゃそうだよな。戦争終わって占領されたら、墓も建てられねぇよな」
黒鷹は、一人、誰に言うでもなく言葉を続けた。
「でも、いつかは建てなきゃね」
茘枝は言ってみたが、ゆるく、首を横に振られる。
「立派な物は出来ない。父上に見合うくらいの…。それに――」
一度、言葉を切って。
「父上は、ここに眠れなかった。天の奴らの手中にあるんだ……いや、もう何処にも無い。ここに葬るべきものが」
「……」
黒鷹は天を仰ぐ。
星空が、雲に遮られようとしていた。
隼、黒鷹、茘枝と、それぞれ夕食を済ませて消えてしまい、手持ち無沙汰になる縷紅は、司祭と後片付けをしていた。
司祭が皿を洗い、縷紅がそれを拭く。
偉いと言えばそうなのだが、奇妙な光景である。
「すみませんね、手伝わせてしまって」
「いえ…自分が好きでやっているので、どうぞお気になさらずに」
「安心しました」
「何がです?」
会話として不自然な言葉に、縷紅は目を丸くした。
「天の人にも、良い人がいるものですね」
「――」
縷紅は更に驚いていた。
まだ、自分が天の人間だとは一言も言っていない。
「何故知っているのですか?」
「…判るのですよ。目が見えなければ、代わりの感覚が鋭くなるのです」
第六感…と言った所だろうか。
「その通り、私は天の出身者です。数日前まで将軍をしていた者です。…そんな人間を、貴方はこの建物に泊めるのですか?」
司祭は、表情を変える事無く、優しい笑顔で答えた。
「あの三人が連れて来た方ですから。それに、我々は元は同じ種族。天も地も根も、ただ住む場所が違っただけです」
「…結果的には、こうなってしまった訳ですが」
「国家単位の事でしょう。まず個人から元に戻せば、いつか和平が来ると信じております」
「…そう、ですね…」
短い沈黙が流れたが、ふと、縷紅が口を開いた。
「つかぬ事をお訊きしますが…」
「何でしょう?」
「貴方と隼さんは、どのような関係で?」
「まあ、義理の親子でしょうかねぇ。ここは、孤児院のような役割も担っていましたから、私の子供は多いのですよ」
「隼さんは、何故貴方の元へ…?」
「……お気付きですか」
「え?」
「あの子が、異国の者と…」
「――ええ。根の国かと」
縷紅は正直に述べた。
「正直、私もそれ以上の事は解りません。何故地に入る事のない根の人が、それも子供が、私の元に居るのか…。私の元に来た時、まだ二歳ほどの子供でした。心ある方が保護して連れて来て下さったのですが、体中傷だらけの酷い状態で…。それ以前に何があったか、彼は語りません。覚えていないのかも知れませんが、無理に聞きたくなくて」
「…そうでしたか」
「縷紅殿、黒鷹様は勿論ですが、どうか隼も、よろしくお願い致します」
「分かりました。心配しないで下さい」
口ではそう言ったが、頭は昼の事が渦巻いていた。
根の間者でないなら、彼は一体何者――?
二歳の子供が、大人に使われてスパイなどしているとは思えない。
また、この世界に一つしかない根と地を結ぶ道から、自ら出て来るとも考えにくい。
“誰が、何の為に…?”
結論は必然的にそうなってくるが、それ以上は予測すらつかない。
「どうも有難うございました」
片付けが終わり、司祭は縷紅に礼を言った。
「いえ――こちらこそご馳走様でした」
司祭はにっこりと笑って言った。
「この若さで、こうも礼儀正しく親切とは、うちの子供達にも見習わせたいですね。特に隼は…。きっと貴方もご苦労なされたのでしょう」
言われて縷紅は、応える代わりに微笑を返した。
「お休みなさい」
「お休みなさい…ごゆっくりと」
台所を出て、寝室に向かう。
扉を開けると、一瞬人気が無いと感じたが、一人寝台の上へ横になっている者がいる。
隼だった。
静かな寝息を聞いて、本当に眠っている事が判る。
疲れていたのだろうと、縷紅は目を細めて、自分も眠る事にした。
まだ時間的には早いが、特にする事も無いし、これからに備えて眠れる時に眠っておこうと思ったのだ。
数刻前に黒鷹が決めた寝台に腰かけ、もう一度隼の方を見る。
そして、ふと、ある事に気付いた。
いつも隼が被っている頭巾が無く、隠されている右目が露わになっている。
だがはっきりとは見えない。右目の上に長く白い髪がかかっている。
思わず縷紅は腰を浮かせた。
隼に近付き、右目にかかっている髪を払い除けた。
髪を払ったその手に、つと、冷たいものが触れた。
小刀の刃だ。
「…起こしてしまいましたね」
落ち着きを払って縷紅が言う。
隼は何も答えなかった。
左の冷たい緑の瞳が、真っ直ぐに睨めつけている。
「ごめんなさい、ただの好奇心です」
縷紅は続けたが、やはり何の反応も無い。
硬直状態がしばらく続いた。
「天の奴らには関係無ぇだろうけど――」
やっと、隼が重い口を開いた。
「これが地の、根に対する怨みだ」
小刀を下ろす。縷紅は息を積めたまま手を引いた。
右目の上から頬にかけて、左の刺青と対称の傷痕が、生々しく残っている。
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