RAPTORS
9
先刻まで静寂そのものだった筈なのに、外が何やら騒がしくなった。
人の走り回る音。武器の擦れ合う金属音。怒鳴り声、ざわめき。
隼の頭を自らの肩に乗せ、その荒い呼吸を聞いていた黒鷹も、ざわついた空気にやっと気付いた。
「…なんだろう」
不安げに呟く。
「黒鷹、隼」
天幕の扉が開いて縷紅が顔を出した。
「逃げて下さい。董凱の元へ、今すぐ」
「…え…?」
突然の言葉に唖然とする黒鷹。
その横で隼は呟いた。
「戦が始まってんだ」
「えっ…!?」
驚いて肩に凭れる隼を見、続いて縷紅に目をやる。
彼は頷いた。
「根の軍がこちらへ攻めて来ています」
「…そんな…。鶸の言葉は伝わらなかったのか…!?」
自分達の為にこれ以上犠牲を増やさないで欲しいと、あれほど言い含めたのに。
「詳しい事は分かりません。ですが信じて頂けるのなら、私達天は何もしていません」
「向こうから攻めてきたのか…いや、今はどっちだって良い。とにかく止めなきゃ」
黒鷹は覚悟を決めて、隼を支えたまま立ち上がった。
縷紅は頷くと、一歩退いた。
「馬を用意します。あと、信頼出来る供を。すぐ戻りますから、その間に支度をして下さい」
「分かった。馬は一頭で良いよ、二人で乗るから」
縷紅は再度頷いて踵を返す。
二人は寝台に座り、黒鷹は支度をしようとすぐに立ち上がったが、隼はそのまま力無く横たえた。
「…勿論、帰るよな?」
確信していたところが揺らぐ。
返事は無く、また動く気配も無い。
「大丈夫だって。お前が馬から落ちないように、ちゃんと支えてるから」
取り繕う様に笑って見せる。が、低い呟きが聞こえた。
「お前の…足手まといには…なれない」
黒鷹は聞こえなかった振りをして外套を羽織った。
分かっている。
無理だ。この状態で動かすのは。
それも、いつ誰が襲って来るのか判らない状況で。
それでも共に居たいのは、我儘だろうか。
戦の終焉は近い。その時を二人で迎えたいと、ずっと望んできた。
今ここで別れたら、それは叶わない気がする。
簡単な支度を終えて、隼の元に戻る。
その手に彼の外套を持って。
「着せようか?」
背中を支えて起こそうと延ばした手は掴まれた。
「…一人で行け」
「……」
お互い目を合わせられず、繋がれた手に視線を注ぐ。
ややあって、隼は黒鷹の手を押し返した。
「お前なら…大丈夫だ。お前は強い」
再び手を延ばす事は出来なかった。
じっとその手に目を落とし、呟いた。
「女の子に強いは禁句だぞ」
笑わすつもりも無かったが、鼻で笑われた。
「だったら…それらしくしろ」
無茶だとぼやく。隼には、だろうなと返された。
結局、“黒鷹”と“隼”が、二人の関係として当たり前なのだ。
きっと、鶫として生きていたら、二人はこうはなれなかった。
今更元に戻って、鶫とはなれない。否、想像がつかない。
隼が居れば、戻らなくて良い気がする。
最初は嫌々だった男装なのに。
「お待たせしました」
十分も過ぎないうちに縷紅は戻ってきた。
「これを」
縷紅は刀を差し出した。捕われる前に黒鷹の持っていたものだ。
それを装着しながら、黒鷹はもう一度隼に問う。
「…来てくれないか?」
隼の答えは、変わらなかった。
緩く横に振られた首。
本当は、身体さえ動けば、共に行きたいのは当然だ。
それ以上問うのは酷だった。
「必ず戻って来るからな」
肩を抱いて耳元にそう告げ、黒鷹は隼から離れた。
翡翠の瞳は細められ、朱の唇が満足そうに笑んでいる。
黒鷹は、その微笑を夢の中に見、まだ夢を見ているような心持ちで。
無意識に笑顔を心に焼き付けて、天幕を出ようとした。
背後の物音に振り向く。そして目を見開いた。
隼が寝台から降りて、震える足を叱って何とか自力で立っていた。
「馬っ鹿…無茶すんなよ!!」
走り戻って再び身体を支える。
だが、やんわりと拒否された。
「さっさと行け。見送りくらいするから」
「…馬鹿」
代わりに縷紅に支えられ、黒鷹は手を離した。
三人はのろのろと天幕を出る。
落ち着かない空気の中、そこだけ時の流れが鈍ったように。
しかし時間は確実に流れている。
「…行くよ」
黒鷹は後ろ髪引かれる思いで馬に跨がった。
「クロ」
振り向く、と。
「人を馬鹿馬鹿言うんじゃねぇよ。お前のが馬鹿でチビでガキな癖に」
「…おまっ…!!」
こんな時に何を、と思った。思ったが。
これが二人にとっての当たり前なのだと、思い出した。
だがそれを感じる事自体、いつもと違うのだ。
隼は相変わらずの無愛想な顔つきで更に続けた。
「さっさと行け、ウスノロとんまドジ阿呆クロ」
ここまで言われたら返す言葉はひとつ。
「隼の馬鹿ぁぁぁ!!!」
叫びながら駆け出す。
泣いているのを見られたくない、それ以上に笑っているのを。
嬉しくて、笑ってしまうのを。
また馬鹿じゃねぇかとからかわれるだろうから。
それともこのぐしゃぐしゃな顔を、不細工と冷たく罵られるだろうか。
そうやってきた。今まで。
これからは、無いかも知れない。
「馬鹿っ…ほんっとに馬鹿…!!」
後ろに供をしてくれる兵が居るのは解っているが、付いて行くのが困難な程に速度を上げる。
誰にも見られたくなかった。
だが、急停止せざるを得ないものを、黒鷹は聞いた。
砲音。
「……!!」
しばし息を呑んで固まった。
そしてやっと気付く。隼の病状があれほど悪化した原因を。
それが何を意味するかも。
「…あれは…天が…?」
供の者に問う。
歯が鳴る程に震えが襲った。
「いえ…我々は今、砲は所持しておりません」
「一体…誰が…!?」
根の急襲と言い、何かがおかしい。
そうしている間に二発目の砲音が空気を震わせた。
はっと振り向く。
丘の向こう――北側が、赤い。
「…急ぐ。付いて来てくれ」
は、と供の者が畏まる。
それを聞くか聞かないかで黒鷹は馬の腹を蹴った。
不安から逃げるように。
ただ、今は先を急ぐしかない――
前へ。ただ、前へ。
「っ――!!」
馬が嘶き、立ち上がった。
彼らに数本の矢が遅い掛かったのだ。
一本が馬の横を掠め、馬が驚いた。
咄嗟に黒鷹は手綱を離し、横に跳んだ。
前と同じように気を失っている場合ではない。二の舞は御免だ。
何より、あの時守ってくれた隼を、今は一刻も早く助けねばならない。
着地は流石に足からといかなかったが、すぐに起き上がり刀を構えた。
続いて飛んできた矢を叩き落とし、敵の居る方向を確認する。
「ご無事で!?」
供の者が後ろから駆け寄ってきた。
黒鷹は梢の合間にある闇を睨んだまま、彼に問うた。
「お前、名前は?」
「は…呈乾(ていかん)と申しますが…」
こんな時に何を、という戸惑いも露わだが、黒鷹は気にしてはいない。
「呈乾、お前も弓矢持ってたよな?援護を頼む!」
言い放つなり、敵の居る方向へ走りだした。
呈乾は勿論慌てている。慌てながらも言われた通り弓をつがえた。
黒鷹は走りながら矢を斬り落とし、梢の陰に隠れていた敵兵に斬り掛かる。
その余りの速さに肝を潰した兵達は、弓も放り逃げようとしたが、黒鷹はそれを許さなかった。
一番近い一人を蹴り倒し、逃げかけている横の兵を峰討ちにし、最後の一人は返した刀で尻を叩いた。
その一瞬の出来事が終わってみると、全員倒れ伏して悶絶している。
黒鷹は三人を見回して訊いた。
「お前ら、どこの兵だ?」
三人は口を割ろうとしない。
黒鷹は苛立ちながら再度問う。
「どこの兵かって訊いてんだよ」
すると、最初に蹴り倒した兵が呻くように答えた。
「て…天だ」
黒鷹はふぅんと腕を組み、その男を見遣って。
どすん、とその背中に腰掛けた。
ぐぇっと蛙の鳴くような声がした。
「嘘はいけねぇなぁ。天の兵はこんなぺらっぺらな甲冑なんざ付けてねぇぜ?なぁ呈乾?」
目を白黒させながら後を追ってきた呈乾は、何の事か分かっているか怪しいが、一応はぁ…と生返事を返す。
「もう一回訊く。お前らどこの兵だ?」
言いながら、椅子代わりの男に体重を掛ける。
苦しさに耐え兼ねたのか、とうとう口を割った。
「きゅ…旧…王制派…」
聞いたは良いが、黒鷹は眉を寄せて目は上を見、何の事だっけと思い出している。
天での一連の革命劇はよく知ってはいるが、どうもそれとこれが結び付かないらしい。
ピンと来る様子の無い黒鷹に、呈乾が助け舟を出した。
「天の前王を支持していた連中の事ですよ。密かに徒党を組んでいると噂されていましたが…」
「ああ、成程。このドサマギで何かやらかす気なんだな!?」
男に対し追及する語尾と共にまた体重を掛ける。
哀れな男はまた鳴くハメになる。
「黒鷹様、この者達は縛り上げて捕虜と致しましょう」
呈乾は縄を出さん勢いで提案するが、黒鷹は首を振った。
「いんや、聞く事聞いたら好きにさせる。ま、素直に答えなかったら縛り上げてこの木にぶら下げるのも悪くないな。だからお前ら、正直に答えろよ!」
男達は黒鷹に恐れをなした様で、かくかくと何度も頷く。
「あの砲を撃ってるのはお前達の軍だな?」
男達は肯定の意味でまた頷く。
「その、ナントカ派ってのは何が目的でこんな事してんだ?」
今度は答えず、互いの顔を窺っている。
「何だよ、これ以上痛い目に遭いたいのか?」
男達はぶるぶると情けなく首を振り、蚊の鳴くような声で言い訳した。
「それが…俺達下っ端なもので」
「上の考えてる事は知らねぇんだよ…」
「俺達はただ、処罰が怖くて命令に従ってるんだ…」
「処罰?そんな事する奴に付いて行く必要無ぇだろ。緇宗の軍に入れば…」
黒鷹は予想外の回答に訝りながら、自分ならそんな奴らに絶対従わないなと考えていた。
だから、黙って従う彼らがよく分からない。
しかし事は意外な事態になっていた。
「偽王に付いたら俺達の命は無い…!」
「そうだ、陛下の怒りに触れるぞ!そうしたら、偽王もそれに従った者も、皆生きてはおれんだろう」
黒鷹は眉根を寄せる。
彼らの崇める陛下とは、緇宗ではなく前王の筈なのだが。
「王はもう死んでるのに、おかしくないか?」
問うと、隠し事でも教えるように、目線で辺りを窺い声を潜めて答えた。
「実は陛下はまだ生きておられる。あれは軍の膿を出す為の芝居だそうだ」
「…はぁ!?」
黒鷹は素頓狂な声をあげる。
そのくらい、男の言う事は突拍子も無い。
「緇宗は以前から背信行為をしていたが隙を見せぬ卑怯な男で、陛下も処罰するに出来ず手をこまねいていたそうだ。だから、こんな事を」
「な…な、マジかよ…!?えぇ…」
目を白黒させる黒鷹。
しかし背後から冷静な意見が出された。
「私はあの王の首級、確かに見ましたぞ」
「…え?」
呈乾の言葉に黒鷹だけではなく男達三人も間の抜けた顔で振り向く。
「尤も、王の顔を知っていた訳ではありませんが…しかし、緇宗様も王の顔を知らぬ訳はありますまい。あの王は確かに緇宗様に討たれました」
それを聞いた途端、三人の顔に戸惑いと、どこか安堵が見え隠れした。
黒鷹はそれに気付き、男の上から退いて、彼らに提案した。
「なぁ、この事、帰って仲間に伝えてくれないか?」
「え…」
「多分あんた達は何者かに良いように操られてる。他の仲間もそうだろ?前王の事を恐れて従ってるだけ。だけど皆が真実を知れば、無駄な戦はしなくて済む。こんな戦で命落としたくないだろ、あんたらも」
三人はそろそろと立ち上がって、俯き考え込んでいるようだ。
「俺達もそんな事で皆の命を犠牲にしたくないし…。頼むよ、大事な友達の命が懸かってんだ…!早く砲を止めないと…アイツ耐えられないから…!」
隼が今どうなっているか、それを想像すると声は必死なものとなる。
きっと苦しい筈だ。側に居られないのがもどかしい。
だが、早く進まねばならない。
救う為に。
「分かった…。あんたらの言う事の方が正しそうだもんな」
男の一人が顔を上げて言った。
他の二人も頷いている。
「皆に言ってみるよ。それで戦しなくて済むなら、それに越した事は無いしな。襲って悪かった」
三人は背を向け、闇の中に消え去った。
黒鷹は満足そうに笑んで、大きく頷く。
そして振り返り、呈乾に礼を言った。
「ありがとな。お前が居なきゃ、俺まで騙されてたよ」
「いえ、私は何も…」
呈乾は恐縮し、見事なお手並みでしたと黒鷹を持ち上げた。
「世辞はいいよ。それより急ごう。無駄な犠牲を出す前に、皆を止めるんだ」
鐙を踏みながら、黒鷹は言った。
敵はかなり卑怯な手を使っている。しかしあの三人が、同じ状況の仲間達を説き伏せてくれれば、敵軍の瓦解は早い筈だ。
こんな闇の中にも、希望は見える。
必ずまた生きて逢う、と。
「行こう!」
呈乾の騎乗を確認し、黒鷹は馬に鞭を振るった。
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