RAPTORS
5
竹矢来を潜ったところで、縷紅は後ろを振り返った。
紫紺の夕闇に溶け込む人影。
「…盗み聞きもいい加減にして下さらないと、怒りますよ?」
「お前が怒ったら怖そうだな」
「ええ。覚悟して下さい」
楜梛が笑ったのが、気配で分かった。
聞いている。ずっと、天幕の内の自分達の会話を。
縷紅は門番達の耳を気にして、提案した。
「どうです?一杯」
ほお、と高い声を上げ、嬉しそうに破顔した。
「珍しいな。お前、飲めるのか」
「貴方よりは強いと思いますよ?」
「お、言ったな」
二人は笑い、縷紅の天幕へと向かう。
その表情の下に、冷ややかな感情が入り混じる。
楜梛は普段から己の内側を感じさせない。気まぐれな笑みに隠す点は緇宗と同じだ。
違うのは、隠す感情に理由があるか否か。
楜梛という人物は、縷紅には測れぬ考えを持ち、動く。飄々とし、霞の様に掴めない。
だからこそ、正面切って率直に訊いた。
「銘丁を襲ったのは、貴方ですね?」
楜梛は鼻で笑った。
「それはどうかな」
当てが外れ、縷紅は眉を顰る。
「違うとおっしゃるのですか?」
機嫌を損ねた様子も無く、どこか楽しむ様に彼は問い返した。
「俺が関わったとして、動機は何だ?」
縷紅は口を閉ざす。
天幕に着いた。
入口を開け、楜梛を促し、瓶を取る。
「お前、普段から呑んでるのか?」
棚の上に並べられた瓶を見て、さも意外そうに楜梛は訊いた。
「…眠り薬ですよ」
影のある顔で答え、瓶と椀を相手の前に置いた。
「好きではありませんけど、これが無いと…」
「寝れねぇか」
縷紅は頷き、そのまま顔を伏せて椀に酒を注いだ。
「…動機でしたね」
先刻までの話を思い出し、縷紅は一口、喉を潤して言った。
「正直、そこが判りません。ただ、黒鷹の書状は消えていた。あの中身を知っているのは、あの場に居た私達のみ。他に可能性があるとすれば、貴方しか居ません」
「俺が、地の王の書状を奪う為に、根の医者を襲う…そう、本気で思っているのか?お前は」
「いえ…可能性の一部でしょうね。たまたま襲った誰かがあの書状に興味を持ったのかも知れない」
楜梛は瓶を掴み、縷紅の椀に注いだ。
「難しく考えるな。でなくても今のお前の前には問題が山積みだ、そうだろ?眠れなくなる程に」
「……」
縷紅は無言で酒を煽る。
「王…か」
盗み聞いた内容を楜梛は口に出し、椀を空けた。
口から椀を離せば、目前に思い詰めた表情がある。
「…俺も、あのお子様達と同じ考えだ。緇宗はお前を次の王に考えている」
はたと我に返って、止めていた手を瓶に伸ばした。
「まさか」
空になっていた楜梛の椀に注ぐ。
「確かめてみるか?」
縷紅は緩く首を振った。
楜梛は鼻から息を吐き、縷紅を見た。
「何が怖いんだ。お前の望むものだろう?」
「王冠なんて要りません。ただ、彼らの望む世界を作るべきだと信じているだけです」
無理矢理、椀の中身を飲み干して、縷紅は続けた。
「それが自分に出来るとは思えない…いえ、それ以前に出世を望む余り、いつかその事を忘れてしまうのではないかと…」
以前のように、と縷紅は呟いた。
出世の為、手を汚してきた、過去。
「そうなっては…この手で彼らの夢を壊してしまう事になる…」
この手が作ってきたのは、恨みと憎しみの連鎖だ。
赤斗の様に。
「それが怖いのか」
縷紅は頷いた。
楜梛はしばらく頬杖をついて考え、思い出したように縷紅の椀に酒を注いだ。
「とりあえず、あの二人には返事をしたらどうだ?実際どうなるかはともかく」
「…返事?」
「安心させてからあの世に送ってやりてぇだろ?」
震えた手で、酒は卓上に散った。
見開いた目。真一文字に結んだ口元。
どうしてそんな事を言うのかと、無言の内に言っていた。
「受け入れられねぇのか、まだ」
言われて、気付いた。
あの二人を葬るのは、自分だ。
重荷に耐えられない様に、縷紅は机上に突っ伏した。
「…楜梛、本当は…弱いんですよ、私は」
震えているのは、声だろうか、身体だろうか。
「倒れるまで呑まないと…闇の中に居るのが怖くて。そうしないと現実に居られない…剣を持てなくなってから、自分をどう片付けるか考えてきました。生きるだけ無駄だと思って…なのに」
肩が震えた。
笑っていた。震えながら笑っていた。
「そんな人間がこの世界の王になるなんて、そんな馬鹿な話は無いでしょう!?それも、本当に王たるべき人…それも家族も同然の人だ…それを、犠牲にしてまで、私が…世界を、壊すなんて…そんな事…」
緇宗に手を延べられ、死に損ねたあの日から、現実が襲ってきた。
人前で己を保つのが精一杯で、夜一人になれば暗い考えが目を冴えさせる。
今まで殆ど呑まなかった酒に手を出した。最初は眠れたが、呑んでも眠れない日が多くなった。
これで戦を終わらせられると信じ黒鷹達を捕らえてから、一睡も出来ていない。
生きて欲しいと願いながら、殺すのは、自分だ。
「…逃がしてやれば良い」
え、と縷紅は顔を上げた。
「そこまで言うなら二人を逃がして戦を続けさせれば良いだろう?そして緇宗の体制を弱らせる」
「弱らせて…どうするつもりですか」
楜梛は肩を竦めて笑った。
「まさか…貴方の目的は…」
それなら、銘丁襲撃の動機にもなる。
「奴と言いお前と言い、なりたくない奴が王なんかする事は無いのにな?もっと適任は居る筈だ」
書状を取り上げ、地に反乱を起こさせ、混乱を生み、民の緇宗への不信感を煽る。
そして、新たな王を生み出す。
「…何故…ですか…。貴方達は志を同じくした盟友でしょう…!?それも貴方が緇宗を王に持ち上げた様なものだ!それで何故、失脚を望むのです…!?」
縷紅はその時、己を見据える楜梛の眼を見た。
捕食者に見付かった贄のように。
恐怖を、植え付ける眼。
「ヤツは俺の思い描く王にはなり得ない。だから見切りを付けて挿げ替える。それだけだ」
「……そんな!」
「ヤツに付いて行くならお前も同罪だ、縷紅。お前達が歩むのは血に塗れた道だからな」
信じられない面持ちで縷紅は楜梛を見返した。
しかし否定出来なかったのは、その一端――血に塗れた道を、実際目の当たりにしたから。
自分と緇宗の行く手を、彼は既に別の場所から眺めているのだ。冷たい眼で。
不意に楜梛は鼻で笑って、椀に手を伸ばした。
「冗談だ。お前をからかってみただけだよ。だからそんな怖い顔するな」
突き出された空の椀。
猜疑心も露わに縷紅は楜梛を見る。
「本当…ですか」
楜梛は笑いながら頷く。
縷紅のよく知る、仲間としての顔に戻っている。気まぐれで悪戯好きだが、人の良い男の顔。
縷紅は首を振りながら溜息を漏らすと、瓶に手を伸ばし酒を注いだ。
「止して下さい…もう敵は作りたくない」
心底疲れた様子で縷紅は言った。
「戦う事も出来ないのに…。いえ、もう戦いたくないとずっと思っていた。じゃあどうやって生きるのかと問われれば、何も答えられませんが」
「お前は剣を持たなくとも智がある。駒より将の方が向いている。あとは人の上に立つ度量だけだ。覚悟とも言うかな」
「覚悟…」
王になる、覚悟。
同時にそれは、生きてゆく覚悟だ。
縷紅は楜梛が注ごうとした酒を断った。
「…なんだ、もう終わりか?」
楜梛は席を立った相手を見上げる。
「ええ。…やるべき事が出来ましたから」
言うと、踵を返し、片手で剣を攫って天幕を出て言った。
残された楜梛は、椀の中の酒を転がしながら、不敵に笑った。
「…良いツラになったじゃねえか」
愉快そうに言って、一気に酒を煽った。
覚悟を決められるか、否か。
それが定まらなければ、今の自分に世の中や他人をどうこうする資格は無い。
二人を助けたいのだ。
何を差し置いても、まずは目の前の大切な人を。
一つの天幕の前に立ち、縷紅は一つ息を吐いた。
手に馴染んだ剣の束。
握って、少し持ち上げた。
白刃が、月の青い光を吸い込む。
しばらくして、音を発てて刃は鞘へと戻った。
「っ……!」
右手を押さえる。
痛みで力を入れ続ける事が出来ない。
縷紅は左手で剣を抜き地面に突き立てると、懐から帯を出した。
右手を何とか束を掴む形にして、感覚の薄い手ごと縛り付ける。
帯の片方を噛みながら、離れないようにきつく縛り上げて、地面から剣を引き抜いた。
天幕を開ける。
緇宗が一人、そこで晩酌をしていた。
待ち受けていた様に、驚く素振りも見せず、自分の物ではない杯も一つ、わざわざ用意してある。
「物騒な出で立ちだな」
抜き身の刃を手にして現れた縷紅を可笑しそうに見ている。
対して縷紅は笑みなど微塵も見せず言った。
「…今度こそ、決着を着けさせて下さい」
緇宗は鼻で笑った。
「俺に頭下げてまで死にたいか」
「殺したいなら、良い機会でしょう?」
「そうだな」
杯を飲み干し、そしてまた新たに注ぐ。
「だが、今でなければ駄目か?お前もこんな事している場合じゃないだろう」
「…今夜でなければ意味は無いのですよ」
緇宗は眉を上げる。
「貴方に生かされる操り人形のままでは、彼らに合わせる顔が無い」
口の端を吊り上げて、酒を一口含むと、おもむろに立ち上がった。
「良いだろう。お前を殺してやる」
卓を脇に寄せ場所を作ると、己の大剣を手に取り引き抜いた。
燭台の光が、二振の刃の上でちらちらと踊る。
先に縷紅が踏み出した。
正面から浴びせた一太刀は、簡単に弾かれた。
手に縛り付けていなければ、剣は飛ばされていただろう。
右手は既に痺れて感覚が無かった。
それでも再び、今度は横に薙ぎ払う。
しかし払った方向に流され、勢いが殺せずそのまま倒れ込んだ。
そこを上から刃が襲う。
何とか受け止める。左手で右手ごと束を押し上げて。
体中の傷跡が狂ったように痛んだ。
ふっと。
縷紅は力を抜いた。
金属が擦り合う掠れた音を発てる。
目の前に刃が迫った。
同時に、軽くなった剣は跳び上がって。
両者は、手を止めた。
縷紅の喉元に、刃がぴたりと突き付けられていた。
緇宗の首筋にも、同様に。
「…やはり、貴方は私を殺しませんでしたね」
大剣の下で、朱の唇が笑みを浮かべる。
「これは――貴方が私を必要としていると、考えて宜しいでしょうか?」
緇宗は鼻で笑った。
「お前はどうなんだ、縷紅。何故斬らない?俺が邪魔じゃないのか」
「邪魔だとは一言も言っていませんよ」
縷紅は剣を下ろした。
力を抜いた右腕は制御が効かず、下ろしたと言うより落ちたと言った方が近い。
刃が床に当たって高い音を発てた。
「…信じているんです。貴方が、正義の有る人だと」
縷紅は仰向けのまま、そこに立っている緇宗に言った。
起き上がるのは暫く無理だった。体中に力が入らない。
「賭けでした。貴方が私を再び生かすのなら、貴方の正義に付いて行こう、と」
「…俺の正義か」
緇宗も剣を引き、鞘に納めた。
そして、右手を差し出す。
「起きれるか?」
縷紅は躊躇無く左手を出した。
大きな手に引かれ、やっと起き上がる。
「お前は馬鹿正直に人を信じ過ぎる。それじゃあ命がいくつあっても足りないぞ」
にっこりと笑って返す。
緇宗は呆れの混じった笑いを浮かべ、卓上に腰掛けた。
「…全く、そんなところも父親譲りだ」
ふっと縷紅の顔から笑みが消えた。
「あの人も俺を信じてお前を托した。自分の子供さえ手に掛けていた、俺を」
淡々となされた自白。
縷紅は耳を疑った。
見開いた目で見詰める彼の心中に頷いて、緇宗は語った。
「自分の子供と言っても血は繋がっていない。俺には妻が居てな。ま、俺が言うのも何だが結構美人だったんだ。…それが仇になった。王に見初められて…俺は自分の命に替えられず彼女を王にやった」
あの残虐な王の事だ。邪魔な夫など殺してしまうつもりだったのだろう。
「だが、数ヶ月で彼女は返された。孕んでいたからだろう。産まれたその子は…赤い目をしていた…」
「王の血を引く子…ですか…」
「だが俺は自分の子供として育てるつもりだった。女の子でな、妻に似て可愛い子だったよ。…だが、王は…あの男は、自分の子さえ許せなかったんだ…。臣下の妻の子が、王族の印を持っている。始末せよ、と…」
「まさか…それで…」
縷紅は背中に冷たいものを感じた。
頷いた緇宗の口元には、ありありと嘲笑が浮かんでいた。
「俺の手で殺した。どうせ殺される運命だからな」
卓上に燭台が有り、緇宗の顔は調度逆光になっていた。
濃い闇が、彼を覆って見える。
「あの時から、俺は狂ったんだろう。妻は俺を罵って逃げた。俺は殺すつもりで追い駆けた。自分で歯止めが効かなかった。幸い、殺す前に楜梛が止めてくれてな。彼女とはあれ以来会っていない。その数ヶ月後だ、お前を殺せと命じられたのは…」
赤眼紅毛の子供が、尊敬する師の元に産まれた。
これは、運命の皮肉か――
「俺はお前を殺すつもりで命を受けた。子供一人でカタが付くなら、お前の両親を救ってやろうと思ってな。俺の様にはしたくないとも思っていたんだろう。だが…俺があの家に着いた時、彼はもう虫の息だった。最期にお前の事を、俺なんかに托して…逝ったよ」
両親は心中したと、それは以前に聞かされていた。
自分は手に掛けず緇宗を待っていたという事になる。
信じていたのだ。彼は、必ず我が子を救ってくれる、と。
「殺すつもりだったんだがな…。救うつもりだった親に死なれた上に、お前の顔見たら…自分の子供に見えちまって」
罪を償えって言われたんだろうな、と彼は呟いた。
「調度、東軍の偵察が数日後にあったからな…賭けだと思って置いて来た。この子がもし助かれば、共に王を討ち、復讐を成そうと」
「…その前に私は離反してしまった訳ですね…」
「いや、俺は忘れていたんだ。お前の父親が遺してくれたものを」
それは、人を信じる事でもあり。
人を利用して力を付けてきた緇宗は、いつしかそれを忘れてしまったのだろう。
「お前の才覚は父親似だ。俺は若い頃、常々思ってたモンだ。あの人が王なら、この国はどんなに良かったかって」
「…ならば、お願いが有ります」
縷紅は右手と剣に括っていた帯を短刀で切ると、両手を付いて緇宗に言った。
「私にこの世の政を預けて下さい。貴方が本当に、私の才を認めて下さるのなら」
王の顔には、燭台の橙の炎が反射して。
意外な程、穏やかだった。
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