[携帯モード] [URL送信]

RAPTORS


 竹矢来を潜ったところで、縷紅は後ろを振り返った。
 紫紺の夕闇に溶け込む人影。
「…盗み聞きもいい加減にして下さらないと、怒りますよ?」
「お前が怒ったら怖そうだな」
「ええ。覚悟して下さい」
 楜梛が笑ったのが、気配で分かった。
 聞いている。ずっと、天幕の内の自分達の会話を。
 縷紅は門番達の耳を気にして、提案した。
「どうです?一杯」
 ほお、と高い声を上げ、嬉しそうに破顔した。
「珍しいな。お前、飲めるのか」
「貴方よりは強いと思いますよ?」
「お、言ったな」
 二人は笑い、縷紅の天幕へと向かう。
 その表情の下に、冷ややかな感情が入り混じる。
 楜梛は普段から己の内側を感じさせない。気まぐれな笑みに隠す点は緇宗と同じだ。
 違うのは、隠す感情に理由があるか否か。
 楜梛という人物は、縷紅には測れぬ考えを持ち、動く。飄々とし、霞の様に掴めない。
 だからこそ、正面切って率直に訊いた。
「銘丁を襲ったのは、貴方ですね?」
 楜梛は鼻で笑った。
「それはどうかな」
 当てが外れ、縷紅は眉を顰る。
「違うとおっしゃるのですか?」
 機嫌を損ねた様子も無く、どこか楽しむ様に彼は問い返した。
「俺が関わったとして、動機は何だ?」
 縷紅は口を閉ざす。
 天幕に着いた。
 入口を開け、楜梛を促し、瓶を取る。
「お前、普段から呑んでるのか?」
 棚の上に並べられた瓶を見て、さも意外そうに楜梛は訊いた。
「…眠り薬ですよ」
 影のある顔で答え、瓶と椀を相手の前に置いた。
「好きではありませんけど、これが無いと…」
「寝れねぇか」
 縷紅は頷き、そのまま顔を伏せて椀に酒を注いだ。
「…動機でしたね」
 先刻までの話を思い出し、縷紅は一口、喉を潤して言った。
「正直、そこが判りません。ただ、黒鷹の書状は消えていた。あの中身を知っているのは、あの場に居た私達のみ。他に可能性があるとすれば、貴方しか居ません」
「俺が、地の王の書状を奪う為に、根の医者を襲う…そう、本気で思っているのか?お前は」
「いえ…可能性の一部でしょうね。たまたま襲った誰かがあの書状に興味を持ったのかも知れない」
 楜梛は瓶を掴み、縷紅の椀に注いだ。
「難しく考えるな。でなくても今のお前の前には問題が山積みだ、そうだろ?眠れなくなる程に」
「……」
 縷紅は無言で酒を煽る。
「王…か」
 盗み聞いた内容を楜梛は口に出し、椀を空けた。
 口から椀を離せば、目前に思い詰めた表情がある。
「…俺も、あのお子様達と同じ考えだ。緇宗はお前を次の王に考えている」
 はたと我に返って、止めていた手を瓶に伸ばした。
「まさか」
 空になっていた楜梛の椀に注ぐ。
「確かめてみるか?」
 縷紅は緩く首を振った。
 楜梛は鼻から息を吐き、縷紅を見た。
「何が怖いんだ。お前の望むものだろう?」
「王冠なんて要りません。ただ、彼らの望む世界を作るべきだと信じているだけです」
 無理矢理、椀の中身を飲み干して、縷紅は続けた。
「それが自分に出来るとは思えない…いえ、それ以前に出世を望む余り、いつかその事を忘れてしまうのではないかと…」
 以前のように、と縷紅は呟いた。
 出世の為、手を汚してきた、過去。
「そうなっては…この手で彼らの夢を壊してしまう事になる…」
 この手が作ってきたのは、恨みと憎しみの連鎖だ。
 赤斗の様に。
「それが怖いのか」
 縷紅は頷いた。
 楜梛はしばらく頬杖をついて考え、思い出したように縷紅の椀に酒を注いだ。
「とりあえず、あの二人には返事をしたらどうだ?実際どうなるかはともかく」
「…返事?」
「安心させてからあの世に送ってやりてぇだろ?」
 震えた手で、酒は卓上に散った。
 見開いた目。真一文字に結んだ口元。
 どうしてそんな事を言うのかと、無言の内に言っていた。
「受け入れられねぇのか、まだ」
 言われて、気付いた。
 あの二人を葬るのは、自分だ。
 重荷に耐えられない様に、縷紅は机上に突っ伏した。
「…楜梛、本当は…弱いんですよ、私は」
 震えているのは、声だろうか、身体だろうか。
「倒れるまで呑まないと…闇の中に居るのが怖くて。そうしないと現実に居られない…剣を持てなくなってから、自分をどう片付けるか考えてきました。生きるだけ無駄だと思って…なのに」
 肩が震えた。
 笑っていた。震えながら笑っていた。
「そんな人間がこの世界の王になるなんて、そんな馬鹿な話は無いでしょう!?それも、本当に王たるべき人…それも家族も同然の人だ…それを、犠牲にしてまで、私が…世界を、壊すなんて…そんな事…」
 緇宗に手を延べられ、死に損ねたあの日から、現実が襲ってきた。
 人前で己を保つのが精一杯で、夜一人になれば暗い考えが目を冴えさせる。
 今まで殆ど呑まなかった酒に手を出した。最初は眠れたが、呑んでも眠れない日が多くなった。
 これで戦を終わらせられると信じ黒鷹達を捕らえてから、一睡も出来ていない。
 生きて欲しいと願いながら、殺すのは、自分だ。
「…逃がしてやれば良い」
 え、と縷紅は顔を上げた。
「そこまで言うなら二人を逃がして戦を続けさせれば良いだろう?そして緇宗の体制を弱らせる」
「弱らせて…どうするつもりですか」
 楜梛は肩を竦めて笑った。
「まさか…貴方の目的は…」
 それなら、銘丁襲撃の動機にもなる。
「奴と言いお前と言い、なりたくない奴が王なんかする事は無いのにな?もっと適任は居る筈だ」
 書状を取り上げ、地に反乱を起こさせ、混乱を生み、民の緇宗への不信感を煽る。
 そして、新たな王を生み出す。
「…何故…ですか…。貴方達は志を同じくした盟友でしょう…!?それも貴方が緇宗を王に持ち上げた様なものだ!それで何故、失脚を望むのです…!?」
 縷紅はその時、己を見据える楜梛の眼を見た。
 捕食者に見付かった贄のように。
 恐怖を、植え付ける眼。
「ヤツは俺の思い描く王にはなり得ない。だから見切りを付けて挿げ替える。それだけだ」
「……そんな!」
「ヤツに付いて行くならお前も同罪だ、縷紅。お前達が歩むのは血に塗れた道だからな」
 信じられない面持ちで縷紅は楜梛を見返した。
 しかし否定出来なかったのは、その一端――血に塗れた道を、実際目の当たりにしたから。
 自分と緇宗の行く手を、彼は既に別の場所から眺めているのだ。冷たい眼で。
 不意に楜梛は鼻で笑って、椀に手を伸ばした。
「冗談だ。お前をからかってみただけだよ。だからそんな怖い顔するな」
 突き出された空の椀。
 猜疑心も露わに縷紅は楜梛を見る。
「本当…ですか」
 楜梛は笑いながら頷く。
 縷紅のよく知る、仲間としての顔に戻っている。気まぐれで悪戯好きだが、人の良い男の顔。
 縷紅は首を振りながら溜息を漏らすと、瓶に手を伸ばし酒を注いだ。
「止して下さい…もう敵は作りたくない」
 心底疲れた様子で縷紅は言った。
「戦う事も出来ないのに…。いえ、もう戦いたくないとずっと思っていた。じゃあどうやって生きるのかと問われれば、何も答えられませんが」
「お前は剣を持たなくとも智がある。駒より将の方が向いている。あとは人の上に立つ度量だけだ。覚悟とも言うかな」
「覚悟…」
 王になる、覚悟。
 同時にそれは、生きてゆく覚悟だ。
 縷紅は楜梛が注ごうとした酒を断った。
「…なんだ、もう終わりか?」
 楜梛は席を立った相手を見上げる。
「ええ。…やるべき事が出来ましたから」
 言うと、踵を返し、片手で剣を攫って天幕を出て言った。
 残された楜梛は、椀の中の酒を転がしながら、不敵に笑った。
「…良いツラになったじゃねえか」
 愉快そうに言って、一気に酒を煽った。



 覚悟を決められるか、否か。
 それが定まらなければ、今の自分に世の中や他人をどうこうする資格は無い。
 二人を助けたいのだ。
 何を差し置いても、まずは目の前の大切な人を。
 一つの天幕の前に立ち、縷紅は一つ息を吐いた。
 手に馴染んだ剣の束。
 握って、少し持ち上げた。
 白刃が、月の青い光を吸い込む。
 しばらくして、音を発てて刃は鞘へと戻った。
「っ……!」
 右手を押さえる。
 痛みで力を入れ続ける事が出来ない。
 縷紅は左手で剣を抜き地面に突き立てると、懐から帯を出した。
 右手を何とか束を掴む形にして、感覚の薄い手ごと縛り付ける。
 帯の片方を噛みながら、離れないようにきつく縛り上げて、地面から剣を引き抜いた。
 天幕を開ける。
 緇宗が一人、そこで晩酌をしていた。
 待ち受けていた様に、驚く素振りも見せず、自分の物ではない杯も一つ、わざわざ用意してある。
「物騒な出で立ちだな」
 抜き身の刃を手にして現れた縷紅を可笑しそうに見ている。
 対して縷紅は笑みなど微塵も見せず言った。
「…今度こそ、決着を着けさせて下さい」
 緇宗は鼻で笑った。
「俺に頭下げてまで死にたいか」
「殺したいなら、良い機会でしょう?」
「そうだな」
 杯を飲み干し、そしてまた新たに注ぐ。
「だが、今でなければ駄目か?お前もこんな事している場合じゃないだろう」
「…今夜でなければ意味は無いのですよ」
 緇宗は眉を上げる。
「貴方に生かされる操り人形のままでは、彼らに合わせる顔が無い」
 口の端を吊り上げて、酒を一口含むと、おもむろに立ち上がった。
「良いだろう。お前を殺してやる」
 卓を脇に寄せ場所を作ると、己の大剣を手に取り引き抜いた。
 燭台の光が、二振の刃の上でちらちらと踊る。
 先に縷紅が踏み出した。
 正面から浴びせた一太刀は、簡単に弾かれた。
 手に縛り付けていなければ、剣は飛ばされていただろう。
 右手は既に痺れて感覚が無かった。
 それでも再び、今度は横に薙ぎ払う。
 しかし払った方向に流され、勢いが殺せずそのまま倒れ込んだ。
 そこを上から刃が襲う。
 何とか受け止める。左手で右手ごと束を押し上げて。
 体中の傷跡が狂ったように痛んだ。
 ふっと。
 縷紅は力を抜いた。
 金属が擦り合う掠れた音を発てる。
 目の前に刃が迫った。
 同時に、軽くなった剣は跳び上がって。
 両者は、手を止めた。
 縷紅の喉元に、刃がぴたりと突き付けられていた。
 緇宗の首筋にも、同様に。
「…やはり、貴方は私を殺しませんでしたね」
 大剣の下で、朱の唇が笑みを浮かべる。
「これは――貴方が私を必要としていると、考えて宜しいでしょうか?」
 緇宗は鼻で笑った。
「お前はどうなんだ、縷紅。何故斬らない?俺が邪魔じゃないのか」
「邪魔だとは一言も言っていませんよ」
 縷紅は剣を下ろした。
 力を抜いた右腕は制御が効かず、下ろしたと言うより落ちたと言った方が近い。
 刃が床に当たって高い音を発てた。
「…信じているんです。貴方が、正義の有る人だと」
 縷紅は仰向けのまま、そこに立っている緇宗に言った。
 起き上がるのは暫く無理だった。体中に力が入らない。
「賭けでした。貴方が私を再び生かすのなら、貴方の正義に付いて行こう、と」
「…俺の正義か」
 緇宗も剣を引き、鞘に納めた。
 そして、右手を差し出す。
「起きれるか?」
 縷紅は躊躇無く左手を出した。
 大きな手に引かれ、やっと起き上がる。
「お前は馬鹿正直に人を信じ過ぎる。それじゃあ命がいくつあっても足りないぞ」
 にっこりと笑って返す。
 緇宗は呆れの混じった笑いを浮かべ、卓上に腰掛けた。
「…全く、そんなところも父親譲りだ」
 ふっと縷紅の顔から笑みが消えた。
「あの人も俺を信じてお前を托した。自分の子供さえ手に掛けていた、俺を」
 淡々となされた自白。
 縷紅は耳を疑った。
 見開いた目で見詰める彼の心中に頷いて、緇宗は語った。
「自分の子供と言っても血は繋がっていない。俺には妻が居てな。ま、俺が言うのも何だが結構美人だったんだ。…それが仇になった。王に見初められて…俺は自分の命に替えられず彼女を王にやった」
 あの残虐な王の事だ。邪魔な夫など殺してしまうつもりだったのだろう。
「だが、数ヶ月で彼女は返された。孕んでいたからだろう。産まれたその子は…赤い目をしていた…」
「王の血を引く子…ですか…」
「だが俺は自分の子供として育てるつもりだった。女の子でな、妻に似て可愛い子だったよ。…だが、王は…あの男は、自分の子さえ許せなかったんだ…。臣下の妻の子が、王族の印を持っている。始末せよ、と…」
「まさか…それで…」
 縷紅は背中に冷たいものを感じた。
 頷いた緇宗の口元には、ありありと嘲笑が浮かんでいた。
「俺の手で殺した。どうせ殺される運命だからな」
 卓上に燭台が有り、緇宗の顔は調度逆光になっていた。
 濃い闇が、彼を覆って見える。
「あの時から、俺は狂ったんだろう。妻は俺を罵って逃げた。俺は殺すつもりで追い駆けた。自分で歯止めが効かなかった。幸い、殺す前に楜梛が止めてくれてな。彼女とはあれ以来会っていない。その数ヶ月後だ、お前を殺せと命じられたのは…」
 赤眼紅毛の子供が、尊敬する師の元に産まれた。
 これは、運命の皮肉か――
「俺はお前を殺すつもりで命を受けた。子供一人でカタが付くなら、お前の両親を救ってやろうと思ってな。俺の様にはしたくないとも思っていたんだろう。だが…俺があの家に着いた時、彼はもう虫の息だった。最期にお前の事を、俺なんかに托して…逝ったよ」
 両親は心中したと、それは以前に聞かされていた。
 自分は手に掛けず緇宗を待っていたという事になる。
 信じていたのだ。彼は、必ず我が子を救ってくれる、と。
「殺すつもりだったんだがな…。救うつもりだった親に死なれた上に、お前の顔見たら…自分の子供に見えちまって」
 罪を償えって言われたんだろうな、と彼は呟いた。
「調度、東軍の偵察が数日後にあったからな…賭けだと思って置いて来た。この子がもし助かれば、共に王を討ち、復讐を成そうと」
「…その前に私は離反してしまった訳ですね…」
「いや、俺は忘れていたんだ。お前の父親が遺してくれたものを」
 それは、人を信じる事でもあり。
 人を利用して力を付けてきた緇宗は、いつしかそれを忘れてしまったのだろう。
「お前の才覚は父親似だ。俺は若い頃、常々思ってたモンだ。あの人が王なら、この国はどんなに良かったかって」
「…ならば、お願いが有ります」
 縷紅は右手と剣に括っていた帯を短刀で切ると、両手を付いて緇宗に言った。
「私にこの世の政を預けて下さい。貴方が本当に、私の才を認めて下さるのなら」
 王の顔には、燭台の橙の炎が反射して。
 意外な程、穏やかだった。




[*前へ][次へ#]

5/22ページ

[戻る]


あきゅろす。
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!