RAPTORS
3
白く痩せ細った指の間から、掌に溜まった血が流れ落ちる。
霞む視界は赤と白のコントラストだけをぼんやりと捉えていた。
頭がひどく重く感じて、腕の中に埋める。
掌に留めていた鮮血が、残らず地面に落ちて、小さな赤い水溜まりを作った。
――騙された。
信じた自分が馬鹿だった。それはそうだろう。
それでも他に選択の余地は無かったと、隼は己に対して言い訳をした。
虚しい考えも続けられない。頭の中にある言葉は霧散してゆく。
高熱に溶かされて。
背中に毛布が掛けられる。実の姉の手が背中に触れた。
こんな姿を見せる筈では無かった。そもそも再会を望んですら居なかった。
まだまともに会話もしていない。会ってからのこの数日、ずっと寄り添って看病をしているのだが。
銘丁が姿を見せないのだ。
また薬を持って来ると言っていた。それが、とっくに薬の効能は切れているのに。
確かに、自分を殺そうとしている相手を当てにするという事から大きな間違いではあったのだろうが。
死ぬならそれは仕方ないと思っていた。
だが今は状況が変わった。
緇宗との戦は今までに無い厳しい物となるだろう。
正直、勝てるとは思えないのだ。
負けたら、この国は、民は、どうなるか。
大事な人は――黒鷹は――?
それを考えると死んでも死に切れない。
無責任に死んで逃げる事すら許されない気がしてくる。
だけど本当は。
最初から死にたくなかった、それだけかも知れない。
怖い、のだ。
だが今は、恐怖も横に置かねばならない程に、思考が霞む。
霞みながら、言いようの無い不安で目を覚ます。
絶望の中で微睡む。または気絶した様に時だけが経っている。
そうやって数日が過ぎた。
多分このまま死の渦に引き込まれるのだろう。
黒鷹の顔を見ていない。
夢か現か判らぬ世界で、断片的に声を聞く事は有るが。
怒っている?哀しんでいる?絶望している?
それとも、とうに見放してくれている?
判らない。気になるが、知らない方が良い気がした。
ゆるゆると死に向かうだけ。
隼は少し眠った。
目を覚ましたのは、耳聡く騒音を聞き付けたからだ。
怒声。人が倒される音。悲鳴。
鈍い意識で気怠さを感じた。関わる必要は無い、と。
死ぬだけの人間に何が出来る?
くぐもった声が銘丁のものだと気付いて、頭の中にかかっていた霞がすっと引いた。
死んで良いなんて誰が言った?
隼は瞼を押し上げて、肘を立てて半端に起き上がった。
目に飛び込んだ光景。光爛が自ら銘丁を捕らえている。
悲鳴は姉、鈴寧のもので、隣で栄魅が彼女を宥めていた。
入口側には、黒鷹と鶸も居る。呆気に取られて意外な捕物を見ていた。
その黒鷹が、こちらに気付いた。
「あ…隼!」
天幕の中央を陣取る捕物の周りを回って駆け寄って来る。
黒鷹の華奢な手が、隼の背中を支えた。
「大丈夫か!?」
大丈夫か否かと言えば答えなど知れている。
それでも隼は微かに頷いた。
視線は倒された上に首筋に刃を当てられている銘丁へ。
「薬…持ってんだろ?」
顔を伏せたまま銘丁は頷いた。
「こっちに投げてくれ」
銘丁は懐を探る。
「刀が邪魔だろ。どけてやれ」
隼は銘丁の動きから目を離さず、光爛に言った。
「何を――」
言いかけた光爛を、隻眼が封じる。
有無を言わさぬ眼。
光爛は仕方なく、刀を少し引いた。
銘丁が隼に向かって小瓶を投げ渡す。
隼はそれを片手で受け取った。
「隼…それを渡せ」
光爛が手を差し出す。
声が震えている。
隼は母親を睨んだ。
「この男が何者か知っているのか!?私達の敵だぞ!?」
「アンタにとっては敵かも知れない。でも俺にとっては敵じゃない」
隼は言って、瓶の蓋を開け、一息に飲み干した。
「隼っ!!」
横で黒鷹が叫び、瓶を取った。
しかし既に中身は無い。
「おまっ…!?」
「毒じゃねぇよ」
短く告げて、隼は再び横になった。
俯せになって、続ける。
「毒じゃねぇ…。俺が生きる為にはこれに頼るしか無い…」
額の下で、固く拳を握る。
「治ってなんか無い。戦場に…ここに居る為の、最後の手段なんだ…」
「一体…お前は何を渡した…?」
光爛が足元の銘丁に問う。
「症状を和らげるだけの薬…命は縮む…」
光爛は目を見開いて、惨めに伏せる男を見詰めた。
そして、手に持つ刀を一閃させて――
「待って!!」
光爛の手が止まる。
「斬るべきじゃないよ光爛!!隼はもう、あの薬無しじゃ駄目なんだろ!?」
黒鷹は更に訴えた。
「頼む、その人を解放してくれ光爛。隼の為なんだ」
「この男は…その子を奪ったのだぞ!?今回ばかりではない!!十六年前、地にやったのも…」
黒鷹は息を呑んで光爛と銘丁を見た。
そして歩み寄り、銘丁の前に膝を折った。
「あんたは隼を殺したい訳じゃない…そうだな?」
がくりと、銘丁の頭が垂れる。
「殺す役目なのに、あんたはいつも隼を助けてくれた」
「黒鷹!?」
光爛からの非難の声。
黒鷹は光爛、そして鈴寧を見上げる。
「こんな事言ったら二人には悪いとは思うけど」
銘丁の肩に手を置き、顔を上げさせた。
「アイツを地に連れて来てくれて、本当にありがとう。ずっと言いたかった。言える相手に会えて、嬉しいよ」
銘丁は目を丸くして、歳若い王を見詰める。
鶸も黒鷹の横に跳んで寄って来た。
「俺も同感っ!あんたのお陰だ、ありがとな!!」
混じり気の無い鶸の笑顔に、やっと二人が本心で言っていると解った銘丁。
「何故…その様な…」
当然、戸惑う。
「決まってんじゃん。あんたが連れて来てくれなきゃ俺達出会えてないもの」
「隼が居なきゃ根にも行けなかっただろうし、俺が国王やってる事も無かっただろうし…何より今生きてすらなかったかも知れない」
黒鷹は後ろを振り返る。
隼は眠っている様だ。
苦しげだが、寝息が聞こえる。
途切れる事無く続く呼吸。生きている証。
「ここまで真っ直ぐ歩いて来れたのは、アイツのお陰だ。どんな運命の悪戯で俺達が出会ったのだとしても…俺は感謝するよ」
隼自身は光爛や鈴寧と共に暮らすべきだったのかも知れない。
だが、彼は地に連れて来られ、地で育ち、黒鷹と出会った。
互いの存在を救いにし、全てとして。
無二の関係となった。
「…その結果、この子が死ぬとしても…か?」
光爛が絶望に打ち沈んだ声で言った。
黒鷹は答えなかった。
答えとなる言葉が見付からない。
沈黙の向こう、遠くから誰かがこちらに走り寄る音が聞こえた。
案の定、この天幕の扉が開く。
根の兵が光爛の後ろで平伏して言った。
「総帥、本営までお戻り願います」
緊急事態なのだろう。それも、銘丁の前では言えぬ内容だ。
光爛は刀を鞘に納めた。
「この者の処遇は地の王にお任せする」
「光爛…」
彼女は背を向け、しかしきっぱりと告げた。
「だが忘れるな。この男は、我々の敵だ」
兵に続いて光爛は天幕を出て行く。
中に残った面々は、黙ったまま遠ざかる足音を聞いていた。
咳。
黒鷹は振り返る。
隼が俯せになったまま咳をしていた。
「…起きてたのか」
問いに、咳を出し切ってからやっと答える。
「…どっちでもない…」
「今もか?」
「そうかもな…」
隼は身体を横に向けた。
銘丁はまだ膝を付けて座り込んでいる。
「どうする?」
問う。他人事の様に。
黒鷹の決定次第で、己の未来が左右されるのに。
「…俺、この人は悪い人じゃない気がする」
「良い人間が悪い事をしないとは限らねぇだろ」
「お前はどう思うんだよ?」
隼は微かに笑って黒鷹を見た。
全て任せる、と言う様に。
そして、互いに答えは同じだと言わんばかりに。
「…おじさん、隼の薬、また持って来てくれるよな?」
黒鷹は訊いた。
銘丁は頭を地に付ける様に頷いた。
「おじさんを放免するよ。またよろしく」
言われて、口をあんぐりと開けて、銘丁は黒髪の少女を見上げた。
王とは思えない。
「オッサン、早く行かねぇと怖いオバチャンが帰ってくるぜ?」
鶸がにやにやと笑いながら軽口を叩く。
立ち上がった銘丁に、細い声が掛けられた。
「次は…早く来てくれ。あんたが思ってる以上に、俺は…持たない」
銘丁は隼に対して正面を向き、丁寧に頭を下げた。
「次の機会まで…どうぞ、御自愛下さいませ」
隼が頷くのを見て、銘丁は去って行った。
「やっぱりあの人、良い人だよ」
黒鷹が笑みを浮かべて言う。
「餓鬼一人殺せない男ってだけだ」
どこまでも冷めた口調で隼は言う。
「でもお陰でお前が居るからさ。俺、あの人に頭上がらねぇや」
「じゃあずっと下げとけ…」
呆れた様に言いながら、隼は寝返りを打つ。
そして黒鷹に言った。
「謝らねぇからな、俺は」
「何の事?」
とぼけた振りで問えば、舌打ちが返ってきた。
黒鷹は笑みを深くする。
「じゃ、俺も謝らないよ?」
「…何を」
意地悪の仕返しとしてこっちも教えてやるまいかと思った。
しかし向けられる疑問の眼は、純粋に驚いていた。
お前に謝られる覚えは無い、と。
だから黒鷹は正直に理由を言った。
「お前が俺の側に居てくれた…その結果が、こうなった事…」
「……」
隼は不機嫌そうに布団に潜り直した。
「今更だって思ってんのか?」
「何でだよ。くだらねぇ」
「お前の嘘よりマシ」
「信じた癖に」
「信じたかったんだもん…今でも」
信じていたい、と。
黒鷹は小さく言った。
隼は眼を閉じる。
死の足音はすぐそこで聞こえる筈だ。
それでもまだ、耳を塞いでいる。聞きたくはない。
生きると信じていたい――そんな事を言われると、縋っていたくなる。
黒鷹の存在に。
「…悪かった」
結局、素直に謝った。
「うん」
黒鷹も素直に頷いた。
幾度も互いに交わした言葉。その終わりが見え隠れするなら。
後悔はしたくない。
黒鷹もそれを解っているのだろう。
それ以上は何も言わなかった。
隼が眠ってしまい、二人は天幕から出た。
「なぁクロ」
その出口の前で二人並んだ時、鶸は言った。
「アイツは死なねぇよ」
「…うん」
嘘を嘘と承知で言っていると思い、黒鷹は最初気の無い返事をした。
だが鶸の性分を思い出して、言い直した。
「うん。そうだな」
鶸は笑った。
黒鷹も笑みを浮かべて頷いた。
出会った事を悔いるのは止そう、そう鶸の笑顔に言われた気がした。
「さてと、怖いオバチャンへの報告が気になるな」
黒鷹が鶸の使った言葉を繰り返すと、彼は肩を竦めた。
「のこのこ聞きに行って、逃がした事怒られないかな」
「そりゃあおっかねぇや…でもま、怖いオバチャンは優しいから大丈夫だよ、多分」
「そうかなー…」
吹き抜ける風が、微かに煙の匂いを含んでいる事に、黒鷹は気付いた。
最後の戦が近付いていた。
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