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RAPTORS



 縷紅が軍に入って一ヶ月ほど経った頃。
 その『事件』は起こった。
 緇宗に命じられ、軍に書類を届けに行った。
 使用人が居ないが故に、この屋敷では唯一の同居人である縷紅が雑用もこなす。
 緇宗はそうそう雑用を命じる訳ではない。人に頼むくらいなら自分でやった方が早いと考えるからだ。
 それでもこの時は書類仕事が貯まっていた。緇宗の悪い癖だ。つまらない事は後回し。
 そんな訳でやむを得ずお使いを縷紅少年に頼んだのだ。
 時は既に夜半に近い。
 月の無い夜だった。
 それでも技術の発達した国の、それもど真ん中だ。道を照らす明かりはきちんと整備されている。
 緇宗の屋敷から軍基地まで、行きは五分も掛からない。
 帰りは登りなので行きよりは多少時間が掛かるが。
 基地の責任者に書類を届けると、やあと温かく迎えられた。
「珍しいねぇ。奴がお使いを遣うとは」
 緇宗を奴呼ばわり出来る――誰あらん、書類の届け先は楜梛だ。
 二人は同期で馬が合い、親しい間柄だと言うのは縷紅も一ヶ月でよく分かった。
 何せ緇宗を小突けるのは、世界広しと言えどこの人しか居ない。
「それ程立て込んでんのか?」
 縷紅は苦笑いで肩を竦める。肯定の意味だ。
 その意味する所を、楜梛も掬ったらしい。
「何件すっぽかしてたんだ、全く…。餓鬼かよ。なあ?」
 同意を求められても師の悪口は言えない。苦笑を持って返答とする。
 その辺りは楜梛も解っているから、それ以上は突っ込まなかった。
「ご苦労だったな。駄賃は出ないが勘弁してくれよ、ここには菓子も無いからな」
「とんでもないです。大男ばかりの所に菓子なんて有ると思ってないですから」
 冗談ではない。縷紅はいたって真顔だ。
「有れば欲しいのか?」
 薄く意地悪な口元で楜梛が返すと、少年は小さく「あ」とこぼした。
「そういう意味では…」
 困る背中を快活に笑いながら叩き、出口へと送る。
「次は茶ぐらい出す様にするからな。じゃあ気をつけて帰れよ」
「失礼します」
 楜梛に向けて一礼し、外へ出た。
 外気はやや冷たい。
 自然と早足になる。
 軍の門を出、山道を少し登った時、人の気配がした。
 こんな時間に、こんな道だ。この道は緇宗の屋敷へしか繋がってない。
 人が居る筈が無い。
 しかし、行く先に人影が立っていた。
 それも、その場に仁王立ちになり、こちらを凝視している。
 意識せざるを得ない視線を感じて縷紅は問うた。
「何か、ご用ですか?」
 影がにやりと笑ったのが分かった。
「お前にご用が有るんだ」
 野卑な声。決して友好的ではない。
「私に?」
 縷紅は訝る。その時。
 後ろから口を塞がれた。
 直に手ではなく、布のような――
 そこに染み込む匂い。
 これは――薬?
 叫び声を上げようにもくぐもった声しか出ない。この山中では誰にも届かないだろう。
 口を塞がれたまま、脇の林へと引き擦られた。
 体中が痺れてくる。それでやっと薬の正体を知った。
 身動きが出来ない。
 林に転がされた縷紅を嘲笑う、複数の顔。
 恐らく軍の人間なのだろうが、面識は無い。
 しかし道に立っていた男は言った。
「この間の礼だ。受け取れ」
 この間…?
 何も思い当たらない。
 軍に来るまではともかく、ここで恨みを買う様な事はしていない――筈だが…
 混乱しかける頭を何とか整理しようとしていると、腹に男の足がめり込む。
 咳込む胸に別の足が。
 背中も、腕も。
 痛い。それ以上に息が詰まって苦しい。
「分かるか?お前の様な餓鬼が居る所じゃねぇんだよ此処は」
「さっさと帰れ。泣きベソかきながら逃げ帰るが良いさ」
「たまたま運良く軍に入れたからって勘違いしてんじゃねぇよ」
 途切れそうな意識の中で思い出す。
 この男は、軍に入る為試された時に打ち負かせた男ではないか――?
 確証は無い。顔を覚えていないから。
 だがそれ以外に無い。ここまでされる覚えは。
 それにしたってこれはやり過ぎだ。
 子供の特権を主張する訳ではないが、あまりに大人気ない。
 散々痛めつけて、男の一人がはっと引いた。
「おい…おい!…誰か居るぞ」
 他の男達も動きを止める。
「そんな…誰も居ねぇぞ」
「気のせいだろう」
 男達の口元が半笑いになる。
 が。
 びゅっ、と空気を裂くもの。
 縷紅の頭上、男達の目の前の木に、矢が刺さった。
 彼らは息も止まろうかという驚きで硬直した後、我先にとその場を逃げ出した。
 動けない縷紅を残して。
 痛みで霞む眼で、夜空を背景に刺さる矢を眺める。
 弓矢と言えば、思い当たるのは。
 先刻、別れたばかりの――
 しかし既に気配は無い。
 男達も戻っては来ないだろう。
 縷紅はともかく体を動かそうと試みた。
 辛うじて腕の関節は動いた。しかし胴の上に乗っていた腕が地に滑り落ちただけ。
 後は言う事を聞いてくれそうに無い。
 俺はあんたの身体とは無関係だと言う様に。
 仕方ないから仰向けのまま、薬が切れるのを待つ。
 殴られた痛みは、痺れの所為で薄かった。
 恐らく、薬が切れたら再発するのだろうが――それにしたって男達の計画は間が抜けている。
 わざわざ痛みを感じない様にして、殴ってくれるとは。
 顔は動かないから腹の中だけで笑って、縷紅は木立の向こうを眺めた。
 星空。月が無いお陰でいつもより数が多い。
 宝石箱をひっくり返した様な、とはよく言われるが、縷紅は別の物を思い出した。
 故郷の明かり。
 東軍を離れる時、飛行船から最後に見た――
 気持ちの中だけで、星空に手を伸ばす。
 掴めはしない。
 でも、触れられそうな程に近く感じる。
 この世界の、どこよりも近いのは確かだ。
 尤も、一番近いのは王宮の塔の上だろうが。
 そんな、空に一番近いこの国が、縷紅は好きだ。
 上を向けば、こんなにも綺麗な空が待っていてくれる。
 だからこの国を――どこかが歪んで壊れていくと、縷紅の幼心にも感じているこの国を、立て直すと決めた。
 こんな所で、こんな事で、引き返す事は出来ない。
 発し続けていた信号がやっと受理された様で、指がぴくりと動いた。
 足は無理だが腕は何とか動く。酷く重たいが。
 這って、帰途を辿る事にした。
 何にせよ早く戻らねば。
 師の仕事の貯まりぶりは半端無い。
 手伝えるかはともかく、少なくとも余計な心配をかける事も、捜索に時間を割かせる訳にもいかない。
 走ればあっという間の距離も、当然だが這えば恐ろしく長い。
 屋敷の明かりが見えた時は、いよいよ安心して意識が飛びそうになった。
 疲れの所為だろう、眠気が強襲を仕掛けてくる。
 庭に入る。この所掃除も出来ていないから雑草だらけ。
 屋敷の扉が開いた。しきりに呼ぶ声。
 ギリギリセーフ、と言って良いだろうか。
 不自然に揺れる草を見つけ、緇宗が近寄る。
 縷紅は這うのを止めた。もう限界だ、いろいろ。
 見下ろす眼。緇宗の瞳は夜空の様に昏い。
 そして一言。
 遅かったな、と。
 何事も無いかの様に言った言葉を、消えかける意識は深く記憶に刻んだ。





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