RAPTORS
5
縷紅が軍に入って一ヶ月ほど経った頃。
その『事件』は起こった。
緇宗に命じられ、軍に書類を届けに行った。
使用人が居ないが故に、この屋敷では唯一の同居人である縷紅が雑用もこなす。
緇宗はそうそう雑用を命じる訳ではない。人に頼むくらいなら自分でやった方が早いと考えるからだ。
それでもこの時は書類仕事が貯まっていた。緇宗の悪い癖だ。つまらない事は後回し。
そんな訳でやむを得ずお使いを縷紅少年に頼んだのだ。
時は既に夜半に近い。
月の無い夜だった。
それでも技術の発達した国の、それもど真ん中だ。道を照らす明かりはきちんと整備されている。
緇宗の屋敷から軍基地まで、行きは五分も掛からない。
帰りは登りなので行きよりは多少時間が掛かるが。
基地の責任者に書類を届けると、やあと温かく迎えられた。
「珍しいねぇ。奴がお使いを遣うとは」
緇宗を奴呼ばわり出来る――誰あらん、書類の届け先は楜梛だ。
二人は同期で馬が合い、親しい間柄だと言うのは縷紅も一ヶ月でよく分かった。
何せ緇宗を小突けるのは、世界広しと言えどこの人しか居ない。
「それ程立て込んでんのか?」
縷紅は苦笑いで肩を竦める。肯定の意味だ。
その意味する所を、楜梛も掬ったらしい。
「何件すっぽかしてたんだ、全く…。餓鬼かよ。なあ?」
同意を求められても師の悪口は言えない。苦笑を持って返答とする。
その辺りは楜梛も解っているから、それ以上は突っ込まなかった。
「ご苦労だったな。駄賃は出ないが勘弁してくれよ、ここには菓子も無いからな」
「とんでもないです。大男ばかりの所に菓子なんて有ると思ってないですから」
冗談ではない。縷紅はいたって真顔だ。
「有れば欲しいのか?」
薄く意地悪な口元で楜梛が返すと、少年は小さく「あ」とこぼした。
「そういう意味では…」
困る背中を快活に笑いながら叩き、出口へと送る。
「次は茶ぐらい出す様にするからな。じゃあ気をつけて帰れよ」
「失礼します」
楜梛に向けて一礼し、外へ出た。
外気はやや冷たい。
自然と早足になる。
軍の門を出、山道を少し登った時、人の気配がした。
こんな時間に、こんな道だ。この道は緇宗の屋敷へしか繋がってない。
人が居る筈が無い。
しかし、行く先に人影が立っていた。
それも、その場に仁王立ちになり、こちらを凝視している。
意識せざるを得ない視線を感じて縷紅は問うた。
「何か、ご用ですか?」
影がにやりと笑ったのが分かった。
「お前にご用が有るんだ」
野卑な声。決して友好的ではない。
「私に?」
縷紅は訝る。その時。
後ろから口を塞がれた。
直に手ではなく、布のような――
そこに染み込む匂い。
これは――薬?
叫び声を上げようにもくぐもった声しか出ない。この山中では誰にも届かないだろう。
口を塞がれたまま、脇の林へと引き擦られた。
体中が痺れてくる。それでやっと薬の正体を知った。
身動きが出来ない。
林に転がされた縷紅を嘲笑う、複数の顔。
恐らく軍の人間なのだろうが、面識は無い。
しかし道に立っていた男は言った。
「この間の礼だ。受け取れ」
この間…?
何も思い当たらない。
軍に来るまではともかく、ここで恨みを買う様な事はしていない――筈だが…
混乱しかける頭を何とか整理しようとしていると、腹に男の足がめり込む。
咳込む胸に別の足が。
背中も、腕も。
痛い。それ以上に息が詰まって苦しい。
「分かるか?お前の様な餓鬼が居る所じゃねぇんだよ此処は」
「さっさと帰れ。泣きベソかきながら逃げ帰るが良いさ」
「たまたま運良く軍に入れたからって勘違いしてんじゃねぇよ」
途切れそうな意識の中で思い出す。
この男は、軍に入る為試された時に打ち負かせた男ではないか――?
確証は無い。顔を覚えていないから。
だがそれ以外に無い。ここまでされる覚えは。
それにしたってこれはやり過ぎだ。
子供の特権を主張する訳ではないが、あまりに大人気ない。
散々痛めつけて、男の一人がはっと引いた。
「おい…おい!…誰か居るぞ」
他の男達も動きを止める。
「そんな…誰も居ねぇぞ」
「気のせいだろう」
男達の口元が半笑いになる。
が。
びゅっ、と空気を裂くもの。
縷紅の頭上、男達の目の前の木に、矢が刺さった。
彼らは息も止まろうかという驚きで硬直した後、我先にとその場を逃げ出した。
動けない縷紅を残して。
痛みで霞む眼で、夜空を背景に刺さる矢を眺める。
弓矢と言えば、思い当たるのは。
先刻、別れたばかりの――
しかし既に気配は無い。
男達も戻っては来ないだろう。
縷紅はともかく体を動かそうと試みた。
辛うじて腕の関節は動いた。しかし胴の上に乗っていた腕が地に滑り落ちただけ。
後は言う事を聞いてくれそうに無い。
俺はあんたの身体とは無関係だと言う様に。
仕方ないから仰向けのまま、薬が切れるのを待つ。
殴られた痛みは、痺れの所為で薄かった。
恐らく、薬が切れたら再発するのだろうが――それにしたって男達の計画は間が抜けている。
わざわざ痛みを感じない様にして、殴ってくれるとは。
顔は動かないから腹の中だけで笑って、縷紅は木立の向こうを眺めた。
星空。月が無いお陰でいつもより数が多い。
宝石箱をひっくり返した様な、とはよく言われるが、縷紅は別の物を思い出した。
故郷の明かり。
東軍を離れる時、飛行船から最後に見た――
気持ちの中だけで、星空に手を伸ばす。
掴めはしない。
でも、触れられそうな程に近く感じる。
この世界の、どこよりも近いのは確かだ。
尤も、一番近いのは王宮の塔の上だろうが。
そんな、空に一番近いこの国が、縷紅は好きだ。
上を向けば、こんなにも綺麗な空が待っていてくれる。
だからこの国を――どこかが歪んで壊れていくと、縷紅の幼心にも感じているこの国を、立て直すと決めた。
こんな所で、こんな事で、引き返す事は出来ない。
発し続けていた信号がやっと受理された様で、指がぴくりと動いた。
足は無理だが腕は何とか動く。酷く重たいが。
這って、帰途を辿る事にした。
何にせよ早く戻らねば。
師の仕事の貯まりぶりは半端無い。
手伝えるかはともかく、少なくとも余計な心配をかける事も、捜索に時間を割かせる訳にもいかない。
走ればあっという間の距離も、当然だが這えば恐ろしく長い。
屋敷の明かりが見えた時は、いよいよ安心して意識が飛びそうになった。
疲れの所為だろう、眠気が強襲を仕掛けてくる。
庭に入る。この所掃除も出来ていないから雑草だらけ。
屋敷の扉が開いた。しきりに呼ぶ声。
ギリギリセーフ、と言って良いだろうか。
不自然に揺れる草を見つけ、緇宗が近寄る。
縷紅は這うのを止めた。もう限界だ、いろいろ。
見下ろす眼。緇宗の瞳は夜空の様に昏い。
そして一言。
遅かったな、と。
何事も無いかの様に言った言葉を、消えかける意識は深く記憶に刻んだ。
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