RAPTORS
2
じっと、瓶を見詰めている。
枕元から、隣の棚に置かれたそれを。
時は夜半。皆とうに寝静まり、人の気配は無い。
隼は今夜も闇夜の中、孤独を持て余していた。
蝋燭は既に燃え尽きた。天幕の中には月明かりも届かない。
もう一度、灯かりを点そうという気力すら湧かない。
闇に慣れた訳ではない。
不安に胸を引っ掛かれる傷は、日に日に増えてゆく。
ただ、もう、身体を動かす事が怠くて仕方が無い。
僅かな動きでも息が上がる。その事実が、体の衰えを隼自身に突き付ける。
不安は、増す。
闇の中、視線を注ぐ瓶。この中には、それを解消する薬が入っている。
そう、まだ入っているのだ。手付かずのまま。
銘丁は三日前にこの薬を置いて去って行った。
本人の言に依れば、この薬の効力が切れる頃にまた持って来るとの事。
見張られている。本当に飲むか否か。
しかしそれも変な話だ。本来は敵同士であると言うのに。
隼が誰かに頼めば、銘丁が再来した時捕らえる事も出来ると言うのに。
また銘丁も、こんなまどろこしい方法を取らなくとも、隼を殺す術はいくらでもあるのだ。
例えばこれが本物の毒薬なら――しかし隼はそれを疑っていない。
殺し合う立場ながら、どこかで信用している。
矛盾している。余りに油断が過ぎるだろう。
何が自分をそうさせているのか隼には分からない。
ただ、自棄なだけかも知れない。
どうせ死ぬのだから、毒薬でも良い、と。
そしてそれ以上に、一つの望みがあった。
この薬が本物ならば、刀を握って死ぬ事が出来るのではないか。
隼が今一番危惧しているのは、命が続いていながら身動きすら取れなくなる事。
生きながら死にたくはない。
それは銘丁の言った通り、祖国――根の混乱を招く火種になり兼ねない。
ただ、何よりも、最期まで己を保って生きていたいのだ。
最期まで、戦っていたい。
己の始めたこの戦の中で。
全てを捧げたこの国と、守るべき人達と、己の夢の為に。
それなのに。
この薬に手が出せないで居る。受け取ったあの時から、指一本触れていない。
何を迷うのか――ここまで来たら、自覚せざるを得ない。
怖いのだ。死が。
これを飲めば死期が早まる。
そのくらい何とも無いと思っていた。
だが、この現実はどうだ。
理想と死を前に、こうも悩み惑う。時間だけが過ぎてゆく。
情けなくて、自嘲すら出て来ない。
ただ、浮かぶのだ。
瓶を取ろうと手を動かした時。
脳裏に、昔の事が――黒鷹と、笑い合っていた日々の事が――目に浮かぶ。
もう戻らない平和な日々。
この手には入らない希望が。
まだ、虚しく残っていて。
手が、止まる。何も考えられなくなる。
怖い。そして、哀しい――
カサッという、微かな音が隼の意識をこの場に戻した。
外からの音――風だろうか。
視線を外して初めて、酷くぐったりとした倦怠感に襲われた。
知らず知らずのうちに夜目を利かせていた所為だ。
恐らくこの闇では、地の人達には一寸先も見えないだろう。
根の種族にのみ備わる能力。だが隼は地で育ったが為か、この能力を使うと酷く消耗する。
それでも見えてしまう。
闇の向こうにあるものが。
――死にたくない、か…
先刻までの自分の心情に少し客観的になって、小さな溜息が漏れた。
音。
衣擦れ。
はっと息を飲む。
意識せずとも手は瞬時に刀を握っていた。
空を切る、鈍い銀。
刹那、ざぐり、と。
寝具に突き刺さった刀。襲撃者は舌打ちする。
その後ろで鉄と鉄がぶつかる高い音が響いた。
「――っ」
たったこれだけの事なのに、腕に痛みが走る。
しかしそれに構っている場合ではない。隼は相手の斬撃を受け流し、さっと出口に走った。
天幕の中では分が悪過ぎる。恐らく襲撃者は根の人間だ。
彼らはこの暗闇の中でもはっきりと物が見えているのだろう。
一方で隼の目は、微かな輪郭を捉らえるのがやっとだった。
何にせよ、誰かを呼ばねばならない。
相手が何人であろうと、今の自分には勝てない。不可能だ。
漸く相手の隙を突き、外へ出た。
その時、鋭い痛みが走った。
外で待ち構えていた一人に腕を斬られた。咄嗟に横へ避けたので深手にならずに済んだが。
しかしそのまま逃げる事も叶わず、刀を構える。
月明かりの下に出て来た敵は、三人。
一言も声を発していない。だがぎらぎらとした目からは明確な殺意が見て取れる。
決して素人ではない。恐らく金の為に冷徹に人の息を止める類の人間だ。
助けを呼ぼうにも、荒い息の中、声が出ない。
刀を構えて立っているのがやっと。
気を抜けば喀血するだろう。咳を無理矢理抑え込んでいる。
――どうする…!?
否、どうしようも無いのか…?
かつてなら、相手が如何に手練であろうと、それが何人居ても、負ける気はしなかった。
それがこのザマだ。
――もう、潮時なのかも知れないな…
じり、と。
前に出た。
覚悟を問うのなら今更だろう。
刀を握るという事は、そういう事だ。
とっ、と踏み出す。
相手は隼が向かって来た事、そしてその速さに面食らった様だ。
一瞬、動きが止まった。
その刹那、隼は一人に斬り掛かった。
しかし――何度も繰り返してきた事だ。手の感触で分かる。
深く入らない。
切り傷を付けるのがやっと。
にやりと、斬った男が嘲笑うのが見えた。
はっと、後ろを振り返る。
別の男の斬撃が迫っていた。
何とか刀を持って来たが、体制が整わず、既に手には力が無い。
容易に刀は弾き飛ばされた。
続く留めを避ける為、横へ倒れた。
耳元で刃が空を切る。
倒れながら短刀を抜く。
だが、こんな事は何にもならないと、隼自身も分かっている。
目前に翳す刃。
その向こうで嘲笑う殺意。
この短刀を、自身の喉に突き立てるか――
揺らいだ気持ちは、しかし直ぐに掻き消した。
結果は、同じだ。
振り下ろされる刀。
短刀で受ける。
もう力は残っていない。なのに、まだ。
まだ、この手は生を掴もうとする。
諦めても良い筈なのに。
――諦めても…?
アイツは、納得しねぇだろうな…
待っていると言ったのに。
黒鷹は…――
「――!?」
軽くなった短刀。
横へ倒れる男。
声。途切れ途切れに聞こえる。
あれ程求めていた声が。
「…クロ…?」
「あっぶねー!!ギリセーフだったな隼!!」
やたらと脳天気な笑い声。
これは現実?
「何ぽかんとしてんだよー!?俺だって、俺!」
否、夢でも――こんな馬鹿面は拝めないな。
隼の口元が僅かに上がった。
「知らねぇな。誰だお前」
「うっわ!!お前そういう事言う?最っ低ー!!」
「別にお前に何言われようが…」
視線は向かいに座る黒鷹の上を捉えた。
咄嗟に黒鷹の刀を取る。
黒鷹の頭上で、刀と刀はぶつかった。
腕が痺れる。感覚は遠い。
それでも、守らなければ――
直ぐに、感触は軽くなった。
倒れた男の後ろに、董凱が立っていた。
その後ろには、鶸も、朋蔓も。
「…父上」
「お帰り、娘よ」
返り血を身体中に浴びている娘に父親オーラ満開な董凱。
はっきり言って異常な図だ。
「董凱、可愛い娘を構いたい気持ちは結構だが…少し考えろ」
朋蔓が苦言を呈する。
「え?」
「え?ではない。瀕死の人間を差し置いてソレは無いだろうと言っている」
当の隼にとって言い返したい事は山ほど有ったが、当然そんな無駄口も叩けない。
地べたに転がって、口からは咳と血が流れるに任せている。
もう手足を動かす力も無いし、その気も無い。
もう、良いや、と。
投げ槍ではなく、不思議と満足して――意識を手放した。
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