RAPTORS
3
黒鷹の爪先が水面に付いた所で、落下は一旦止まった。
隼はしばらく辺りを見回すと、突然水の中へ入った。
そうなると、当然黒鷹も水中に入る事になり、水面に顔を出すと、激しく咳込んでいる。
「こんなお目覚めは初めてだろ」
「最低」
黒鷹が睨み付けるのを見て隼は破顔したが、黒鷹にはそれが見えない。
「向こうに岸がある。泳げるか?」
「お前が引っ張ってくれるなら」
「はいはい」
しばらく泳ぐと、隼が止まって岸に上がる。引っ張られるままに黒鷹も岸に上がった。
座って喘いでいると、隼の手が離れた。
「隼」
不安げに名前を呼ぶと、シュッと音がして、辺りが明るくなる。
隼が松明の小さい物に火を付けたのだ。
「茘枝が天からくすねて来た。マッチと言うらしい。便利なもんだ」
隼は小さな箱を革の袋に入れた。
「明かりがあって大丈夫なのか?」
黒鷹は訊いたが、隼は「さあ」と受け流す。
「夜目利かせるのは疲れるんだよ」
火に照らされた一本道を二人は歩く。
やはり周りは黒くすべすべした岩。
だがだんだん、道の高さも幅も狭くなってきた。
「このまま行き止まり、ってオチは無いよな?」
「多分大丈夫だろ」
「多分かよ」
それからまたしばらく歩いて、頭に天井がくっつくぐらいになる頃、隼は立ち止まった。
「どうした?」
黒鷹が振り返る。
隼は答えない。
「隼?」
「…ああ」
上の空で応える。
「どうしたんだよ?」
「別に…」
「別にじゃ済まない」
強く言われて、隼は渋々理由を言った。
「空気が汚れている」
「…え?」
「根の空気は清浄な筈だ…。でもここは…少なくとも地より酷い」
黒鷹も聞いている。根の人間が地に出れば、空気の汚れ故に体を壊すと。
天に至っては命の保証は無い。
“空気の汚れ”とは高度文明の代償だ。地まで汚れているのは、天の空気が地に少なからず下りているせいだ。
地上によって隔てられた、高度文明の無い筈の根の空気が汚れている――。
「これは、俺の知っている根じゃない…」
「一体何があったんだ…?」
行く先に、微かな明かりが見えた。
「行こう。見なきゃ分からねぇ」
「そりゃそうだけど…お前大丈夫なのか?」
「このくらいで引き返す訳にはいかない」
歩いて行くうちに明かりは強いものになる。
出口までの間、二人は全く話さなかった。
隼がなるべく空気を吸わない様にしている為だ。
だが出口の数歩前、黒鷹が立ち止まって訊いた。
「戦えるか?」
耳打ちの様な小さな声に、隼はゆっくり首を縦に振った。
「誰かが構えているけど…なるべく手を出すな」
死んでも横には振らないなと思い直しての、黒鷹の言葉。
それからは息を殺して、出口へと足を進める。
そして。
――がつん!と硬い物がぶつかり合う。
相手の次の攻撃が繰り出されるより早く、黒鷹は臑を峰打ちした。
相手は足を抱えて倒れ込む。
「骨でも折ったか?」
隼は松明を持ったまま、一連の動きを見て、言った。
「いや…加減したから痛いだけだろ」
黒鷹は言いながら、相手の顔を自分に向ける。
「根では来客を襲うのが礼儀なのか?」
嘲笑は、相手の顔を見るなり掻き消えた。
「…お前」
顔に刺青。白くない髪と肌。
「どっかで見た顔だな」
地の人間というのは明白だった。
「貴方様は…もしや…」
相手の声を聞いて、黒鷹は「ああ」と明るい顔をした。
「“カタブツ”!!」
明々と言った黒鷹に、深く長い溜息を吐く。
「…王子…」
その沈んだ声は、言外に“名前で呼んでくれ”と願っているのだが。
それを汲んだかどうか、黒鷹は続けた。
「えーと、名前なんだっけな…確か……トド?」
「阿鹿(あしか)です、王子…」
「あ、悪い。五年も経てば忘れるなぁやっぱり」
言う黒鷹には全く悪気が無い。それが阿鹿をますます落ち込ませる。
彼は以前、王の世話役という地位だった。王の身の回りの世話をする仕事…の筈だったのだが。
気付けば、悪ガキ三人組―敢えて誰の事かは言わないが―のお目付け役となっていたのだ。
そんな訳で、二人と阿鹿は親子の様な愛ある関係…の筈なのだが。
「で、何やってんだ、こんな所で。主人に襲い掛かる世話役なんて聞いた事も無ぇぞ」
「も、申し訳ございません…」
「ホント、どう思うよ隼?」
振り向いて驚く。
隼は岩壁にもたれて座っている。呼吸は苦しそうで、目には生気が無い。
「あぁー、そうだった悪かった。大丈夫か?」
隼には辛い環境だという事すら忘れていた様だ。
「おいカタブツ、どこか休める所無いか?」
「私の宿舎で良ければ…」
黒鷹は隼の腕を首に回して立たせようとしたが、自分の身長ではそれが無理だと解ると阿鹿を呼んだ。
「手を貸してくれ、カタブツ」
「あ、はい」
そう遠くない宿舎を、普通の倍の時間を掛けて歩き、ようやく着く。
簡素で狭い部屋の、これまた簡素で小さな寝台に隼を横にさせる。
何か言いたげな阿鹿を目で制して、静かな環境を作る。
乱れがちだった呼吸が調うのを聞いて、やっと黒鷹は口を開いた。
「聞きたい事は沢山あるけど…とりあえず何でこんな所にいるんだ?」
阿鹿は項垂れて言う。
「お怒りですか?」
「いや、そんなのじゃなくって」
「お聞かせ苦しい話ですが…。五年前の戦で私は敵に追われておりまして…」
「ま、刀持てる奴じゃ無かったもんな」
その一言が、先刻の襲撃への厭味に聞こえ、縮こまる阿鹿。
「やはり、お怒りで…」
「だから、怒って無いってば。で?どうなった?」
「三界山の麓まで逃げ延びましたが…」
聞いて、黒鷹は噴き出す。
「お前が?城から走って山まで来たのかよ?とんだ火事場の馬鹿力だな」
阿鹿は口は達者だが体力皆無。三人を叱り飛ばすには調度良かったのだが。
「ひょっとして…あの穴に落ちた?」
ふと思った事を黒鷹が言えば。
「はい…恥ずかしながら…」
「ドジだなぁ。それで天の代わりに根に捕まって、見張りをさせられてます、めでたしめでたし…ってか?」
「…その通りでございます…」
「まぁ俺も天に捕まってたからあんまり人の事言えねぇけどぉ。そんなドジって捕まった訳じゃ無いしぃ、天の小間使いになった訳じゃないしぃ」
厭味の矛先を何とか丸めようと、無理にでも阿鹿は心配そうな顔をする。
「天に捕えられたのですか?お怪我などございませんでしたか?」
「うん。俺、お前と違って強いもん」
「……」
硬直する阿鹿を見て、黒鷹は笑った。
「悪い悪い、隼がこんなだから、気が立ってるみたい」
「いえ…。それよりも隼はどうかしたのですか?」
「ああ、空気が悪かったらしいな…。…面倒だから最初から話す」
黒鷹は今の地の状況、革命の事、同盟を結びに根に来た事を話し、最後にこう訊いた。
「根に空気を悪しくする文明が生まれたのか?」
「その様です…私が来た時には既に。ひょっとすると天と同じ位かも知れません」
「いや…隼が生きてられるならそれは無いだろう…。根の人々の体も追い付かない。…でも一体、どうして根が…」
「私のような下官には一切情報は下りません」
黒鷹は阿鹿をまじまじと見る。
「呆れたな」
「…はい?」
「地では王子を怒鳴る程の上官、根では俺を襲う下官か」
「…そろそろご容赦頂けませんか…」
「いや、そうじゃなくて。地に連れて帰ったろうと思ったのに、官位貰ってぬくぬくと生活してるんならなぁ…置いて帰った方がいいかなぁ…」
「…連れ帰って下さいませんか…」
「さぁて、どうするかなぁ…」
言いながら黒鷹は床に横になる。
「あ、あの、王子…?」
「疲れた。寝る」
冷たい木の床の上。そこで寝るのを阿鹿が許す筈が無い。
「少々お待ち下さい!宿の手配を致しますから!そんな所ではお体に障ります!」
「うっせぇなぁ…。眠いんだよ俺は」
かったるそうに目を開き、何を思ったか立ち上がった。
「王子!!」
阿鹿の声は悲鳴になった。
隼の横に潜り混み、添い寝する形となったのだから。
「ああ、阿鹿ぁ?」
眠そうな声に、困り果てて「何でしょう」と応える。
「根の下官として、俺を根の城まで案内してくれ」
「畏まりました…ですから王子…」
“ちゃんとした所で寝てくれ”と言おうとしたが、寝台の上からは二つの寝息が耳に入り、開いた口を閉じる事となった。
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