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月の蘇る
  6
   出立を告げると丹緋螺は飛び上がらんばかりに喜び、満面の笑みを浮かべて後ろをついて来た。
   ご丁寧に旅の荷物を全て纏め抱えて待っていたらしい。
   いつ出立するかも分からない状況だったのに、全く御苦労な事だと呆れもする。だがここまでついて来てくれる意思のある事は素直に有難いと思う。
   そうして二人で屋敷の玄関を出ようとした時、そこで待っていた人物に呼び止められた。
   桧釐だった。
「俺に黙って出立する気ですか、殿下?」
「いや、済まん。そんなつもりでは無かった」
   意地悪く笑って、従兄は肩を叩いた。
「冗談ですよ。俺の事なんか構っている暇は無いですよね。この肩には二国の命運が掛かっている」
「また大袈裟だな。それを言うなら俺は、この国の荷については全てお前に託したつもりだ」
「預かり物ですよ。必ず返しますからね」
「別に、お前の物にして良いのに」
「ご冗談を」
   桧釐は龍晶につられて笑いを掻き消した。
   冗談だが、それでは済まない顔をしている。
「殿下」
   改まって桧釐は言った。
「帰って来て下さいよ?あなたの国はここですからね?」
「当たり前だろ。何を言っている」
「そうですよね、すみません。なんだか…あなたが一人遠くに行ってしまうのが不安になって」
「はあ?そんな台詞は好いた女に言え」
「良いじゃないですか。俺と殿下の仲ですよ」
「やめろ。蹴るぞ」
   笑いながら大仰に退ける振りをして桧釐は言った。
「全く杞憂という奴ですね。あれほど駄々を捏ねてた朔夜の事も諦めてくれた事だし。心配は有るが、殿下は無事に必ず帰ると決断してくれたような物だ」
「それは…」
   本当の事は話せない。
   話せば計画は台無しになる。燕雷に迷惑も掛かるだろう。
   だが、同時にそれは桧釐を裏切る事でもあるのだ。
   この男にだけは、本当の事を話しておこうかと思った。話せば解ってくれる筈だ。
   だが、口から言葉は出なかった。
   きっと、後からでも解ってくれる。そう自分に言い訳して。
「後の事…朔夜の事も…頼む」
「お任せ下さい」
   微塵の疑念も無く即答された。
   違う、そういう意味ではないと頭の中で言い足す。本当は詫びたい気持ちで一杯だ。
   全てが露見した時、一言済まなかったと言える口があれば良いのだが。
「…行って来る」
   桧釐は真顔になり、龍晶を正面から見据えて告げた。
「お気をつけて」
   頷く。
   会話の間に丹緋螺が馬を引いてきた。
   その彼にも桧釐は声を掛けた。
「殿下を頼むぞ」
   言葉は通じぬだろうが、丹緋螺は気負い込んで頷いた。
   乗馬し、もう一度従兄の顔を見て。
   これは別れではないと思い直して、馬を駆けさせた。

   予想通り、壁は消えた。
   真夜中。手燭のみを頼りにその場所を手探りして、燕雷は躊躇せず踏み込んだ。
   朔夜は眠っていた。
   手を掛けても起きる気配は無い。
   尤も起きていようが様子は同じなので、構わず担ぎ、部屋を出た。
   暗い回廊を音を立てぬよう進む。
「何をしているのです?」
   闇の向こうから、子供のような無邪気な問い。
   何よりも恐れていた声。
   燕雷は背中を強張らせて、ゆっくりと振り向いた。
   予想に違わぬ姿がそこにある。
   誤魔化しようが無かった。腹を括らざるを得ない。
   この男の横に長年居るが、今ほど恐ろしいと思った事は無い。
   おかしくなる程の心拍を見透かされないよう、慎重に口を開いた。
「こいつをお前から遠去ける」
「何処へ?」
「教える訳無いだろ」
「灌ですね?他に無いでしょう?」
「分かってるなら訊くなよ」
   獣から逃げるように、目を合わせながらゆっくりと後ろに退く。
   対して皓照はその場を動かず、思案するように顎に手を当てた。
「どうも君は朔夜君の事となると判断が狂いますね。近頃おかしいですよ」
「それはお前だろ皓照」
   階段の際まで来て、一旦足を止めて燕雷は言い返した。
「おかしいのはお前だ。どうして執拗にこいつを消そうとする。かつては仲間にしようとしていただろう?今もそれは可能じゃないのか。お前が導いてやれば…」
「彼の危険性についてはもう説明した筈ですよ。私の手に負えなくなる前に消さねばならない。こんなに単純な事がどうして理解できないのです」
「理解できないんじゃない。したかないんだよ」
   言い放って、踵を返し階段を一気に駆け下りた。
   そのまま玄関に向かって突進する。
   だが。
「止まった方が身の為ですよ!」
   手を掛けようとした扉の持ち手が外れた。
   根元から斬られていた。
「…皓照!」
   怒りに任せて叫ぶ。他の進路を探すが、前に進めない。
   見えぬ壁に囲まれた。
「どうしましょうか?君に術はありませんが」
   ゆっくりと皓照が階段を降りてくる。
   その手には刃があった。
「この際だから朔夜君を永遠に葬ろうかと思うのですが。安心して下さい。君にはまた生き返って貰いますから」
「貴様…!」
   諸共に殺す気なのか。この男ならそうしても不思議は無い。
「さあどうします?一応訊いてみますね。私の邪魔をしなければ君は無罪放免ですよ」
「無駄だな」
   鼻で笑って燕雷は返した。無論、意を翻すつもりは無い。
「頑固だなあ、やっぱり」
   笑って、刀を振り上げる。
「皓照」
「はい?」
「俺は二度も生き返るなんて御免だからな。あいつらの元へ送ってくれ」
   振り上げた刃が動きを止めた。
   その一瞬。
   高い音が耳を劈く。
   細い刀身が闇の中を舞いながら弧を描いて落ちてゆく。
「行け燕雷!」
   命じられるまま、燕雷は走り出した。
   壁は消えていた。
   扉に体当たりして開け、そのまま闇路を駆け出す。
   背後で金属音と共に火花が散った。
   その音の数だけ、背中の上の呼吸が荒くなる。
   燕雷は無心に走り続けていた。早くこの場を脱する事だけ考えて。
   いつしか、背後の攻勢は無くなっていた。
   流石に息が上がって、家々の隙間に入り込み足を止める。
   朔夜を下ろし、重たくなった足を折って。
   呼吸を整えながら、翡翠の瞳を確認した。
「…朔」
   自身を背負って走り続けた燕雷と同じくらい呼吸を乱して仰向けに転がっている。
「目覚めたのか」
   彼は口の端で少し笑って、言い返した。
「眠い」
   苦しい息で燕雷も笑った。
   目覚めた側から天敵とも言える相手と互角の攻防をしたのだ。力など使い果たしてしまっただろう。
「大丈夫だ。寝ろ」
   言い終えるが早いか、瞼が閉じられ、体から力が抜けた。
   燕雷も壁に凭れかかって力を抜く。
   ここに居るのは間違いなく朔夜だ。戻って来いと祈り続けたあの少年だ。
   それも、自分の名前を覚えている。記憶も戻っているのだ。
   そして。
   火花が閉じた瞼に浮かぶ。
   皓照と互角に渡り合えると言う事は、これまで暴走させていた時と同様の力を己の意思で操っていたと言える。
   それは、何より喜ぶべき事では無いだろうか。
   これで皓照は朔夜を消す理由が無くなる。
   朔夜もまた、己の愛する人達の元に何の気後れも無く帰れるのだ。
   そして戦に身を投じる必要も無くなる。
   眠りに向かいながら口元が緩む。
   良かったな、と内心で言って。
   ふと。
   皓照の冷たい目が己を刺し貫いた。
   彼が己と同じ力を持つ者を許すだろうか?

   予め燕雷と落ち合う事を約束していた宿で、その到着を待つ。
   北州と、その隣の啓州(モウシュウ)との境。旅人が多く寄る宿だ。
   一昼夜待った。
   この宿で二度目の夜を迎えようとしている。
『誰を待っているのです?』
   丹緋螺に問われ、龍晶は肩を竦めた。
『友、かな』
『閣下のお友達ですか』
   いろいろ語弊があるな、と苦笑いして杯の酒代わりの水を飲み干した。
   ふと視線を感じて横を見る。慌てて目を逸らす者は一人ではない。
   異人の言葉だ、と囁く声もする。一方、あれは殿下ではないかと訝しむ声も。
   食堂は人の目があり過ぎる。
『部屋に戻ろう。多分、まだ来ない』
   立ち上がって、喧騒を後にする。
   自室に向かいながら、ちらと悪い予感が胸を掠める。
   もし燕雷が失敗していたら?
   皓照に見つからないとは限らない。あんな壁を作っていた程だ。無防備な事はしないだろう。
   ならば、俺たちはいつまで待つべきか。
   哥の捕虜達が主の先発隊は進める所まで進めと命じてある。道は示し合わせて追い付けるようにはしたが、果たして灌までに間に合うだろうか。
   そして向こうも何かが起こらないとは限らない。あれだけの人数の哥人が動いていたら、国に目を付けられてもおかしくはない。
   とにかく、動けるならば早くここから動きたかった。
   丹緋螺と二人で寝泊まりしている部屋に入り、自分の寝台に腰掛ける。
『閣下のお友達はどのような人ですか?』
   全く考えてもみなかった問いを突然投げ掛けられ、思わずきょとんと丹緋螺の顔を見てしまう。
   逆に彼の方がたじろいでしまった。
『すみません、おいら変な事言いましたか?』
『いや、それはいつもの事だ』
   意地悪く返してますます彼を懊悩させる。
「…どんな奴かって……困る」
   わざと通じない言葉でぼやいて、龍晶はやっと答えてやった。
『似た者同士…なんてな』
『閣下と似ていらっしゃるんですか?』
『さあ?』
   適当に流して寝台に横になる。
   似ているかと聞かれればまた困る。どう説明したものか。
   思うがままにならぬ我が身と、周囲からの存在否定と、苦悩の果ての狂気。
   そして延ばす手の先。
   それらが一致していたと言っても、他人には理解出来よう筈が無い。
   理解させる必要も無かった。これは自分達だけで共有していれば良い事だ。
   共にいつか来る永遠の安寧を待ちながら。
   燭台にぼんやり照らされる天井を眺める。
   階下の喧騒が壁越しに微かな雑音となって耳に入る。
   風が雨戸を鳴らした。
ーー俺達、似た者同士だったなーー
   悪魔の言葉が脳裏に蘇る。
   だが、俺は裏切った。
   裏切ろうとした。それは事実だ。
   使役される側から、使役する側へ。望んではならぬ地位を望んだ。
   朔夜を使って。
   今更、どの面下げて会えば良いのか。
   それが分からないから、こうも必死に彼を救おうとする。
   俺はお前を救ってやった、借りは返したとでも言いたいのか。桧釐を騙してまで。
   そんなもの不純だ。それとも悪魔を恐れるが故に?
   ならば朔夜を目覚めさせねば良いだけの話だ。
   皓照の言う通り、その存在ごと消せばーー
   身震いして身を起こす。
『閣下?』
   怪訝な声で丹緋螺に呼ばれた。
   ぐらぐらと目が回る。眉間を押さえて再び横になった。
『…何でもない。灯りを消してくれ』
   心配げに見つめてくる丹緋螺に頼んで、目を閉じる。
   瞼に兄の顔、義母である皇后、そして父の顔が順に浮かぶ。
   彼らの共通項。邪魔者は消す。
   その血を、己も確実に受け継いでいる。
   今まで消される側だったから気付かなかっただけで。
   それは今も変わらない。変わらないがーー
   かつて桧釐に問われた。
   俺にとって、あいつは何なのか。
   友、そう言っても良いのか。
   命を何度も助けられた。それも事実だが、殺されかけた事も事実だ。
   そして、俺自身があいつを陥れた事も。
   それら全てを引っ括めて、今はあいつに側に居て欲しい、と。
   それは本音だ。だが、同時にそれは恐ろしい賭けだ。
   あいつには消えて貰った方が、俺にとっても、この国にとっても平穏に近付くーー
   悲しいがそれが現実だ。ならば自分が情を捨ててあいつを消すべきなのか。
   いずれこの国を治めたいのならそうすべきかも知れない。
   王に、情は不要だ。
   それが己の見てきた父であり兄だ。
   俺はそうはなれなかった。故に王座から遠退いたのかも知れない。
   だけど。
『丹緋螺、一つ聞かせてくれ』
   闇の中、問い掛ける。
   何でしょう、と相手は応えた。
『王とは一を救い十に犠牲を強いるものか、十を救い一を殺すものか…お前はどう思う?』
『おいらにそんな難しい事をお訊きなさるのですか』
   随分戸惑った声に小さく笑って、龍晶は返した。
『済まん。誰かに訊きたかっただけだ。忘れろ』
   丹緋螺は安心した声で、はいと返事した。
   とろとろと眠気が襲う。
   矢張り俺に王となる資格は無いのかも知れないと、半分意識を溶かしながら考える。
   王ならば、十を取って然るべきだ。答えなど知れている。
   そして、そうしたくない俺が居る。
   朔夜。
   かつてお前は俺に王になれと言ったが。
   俺は、お前の為に王座を捨てるよ。
   それが俺の生き方、本望だから。

   寝静まった部屋に、乾いた音を立てて扉が開く。
   黒い影が部屋に入る。一人、二人、三人。
   気配を感じて龍晶は薄眼を開けた。
   身を躱さねばならぬ事に気付く間も無く。
   身体に突然圧力が掛けられる。
   目前には刃が寝具に突き立てられた。
   目の前を覆ったその鈍い光を放つ刃物から視線を上に向ける。
   黒い影が己の上に馬乗りになっている。
   それを確認するが早いか、その影が口に布を噛ませて縛った。
「大声は出さぬ方が身の為ですよ、王子」
   一切抵抗の出来ぬまま、口を塞がれ、身の自由を奪われた。
   今は着々と手足を縛られている。
   どうやら丹緋螺も同様だ。
   冷たい床に二人、投げ出される。
   目で丹緋螺に無事を問うた。彼は頷いた。
   そして闇の中に立ちはだかる三つの影を見上げる。
   何者だろうか。恐らく兄の差金だと思われるが。
   状況が一旦落ち着いた事で、龍晶は体内の違和感に気付いた。
   腹部の痛み。男に乗られた事で傷が開いたか。
   それが顔に出ていたらしく、丹緋螺が小さく声をかけた。尤も、口が縛られているので明瞭な言葉にはならない。
「黙れ」
   男が聞き付けて鋭く警告した。
   彼らは何やら小声で相談している。
   龍晶は痛みに顔を顰めながらも丹緋螺に頷いた。大丈夫だ、今は奴らに従えという意で。
   やがて男達がこちらに近付いてきた。
   胸倉を掴まれ、起こされる。
   そのまま担がれそうなので、龍晶は大声を出してやった。
   ここを動かされる事は避けたい。時間を稼がねば。
「黙れと言っているだろう!」
   声だけではなく、体の動く限りに暴れ、抵抗する。丹緋螺もそれに倣った。
「黙れ!」
   頭を蹴り上げられ、続いて腹を二度三度と蹴られる。
   完全に傷が裂けた。鋭い痛みと共に食道から血がせり上がってきた。
「やめろ!傷物にするな!命令だろう!」
   相手の仲間の制止で暴力は止まった。
   口に含まされている布が血を吸い、外へと漏れ出る。
   丹緋螺が酷く怯えた顔をしてこちらを見ている。この状況ではなく、龍晶の死を怯えているのだろう。
   龍晶はもう抵抗出来ず、ただ体内の痛みと戦いながら、生気の無い目で相手の出方を窺っている。
   早く。
   来てくれ。
   敵の手が伸びる。再び、今度は髪を掴まれ半身を起こされる。
   はらりと、血を含んだ口元の布が落ちた。濡れて緩んだのだろう。
   それを良い事に、龍晶は言った。
「待て。お前達は王の命令で来たのだろう?」
   担ごうとした男が動きを止める。
「良い話がある。間も無く俺達の連れがここに来る。そいつを王に差し出せ。報酬は倍以上になるだろう」
「おい、縛れ」
   耳を貸さず男が新たな布を口に当てようとしたが、構わず龍晶は続けた。
「来るのは王が血眼になって探しているこの国の宝だ。それを見過ごせばお前達に怒りが向けられるやもな。連れ帰るか、どちらが利口か判るだろう…?」
   男の動きが止まった。
   互いに目を見合って。
   掴まれていた身体が放り投げられた。
   床に身体を打ち付けて、痛みを呻きに変える。だが、内心ほくそ笑んだ。
   うつ伏せの頭を僅かに動かして、雨戸から漏れる光を確認する。
   光の筋が、闇に月の有る事を知らせていた。


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