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月の蘇る
  1
   光。
   闇の中で遠く、光が射し込んでいる。
   たった一筋。
   何の光かは分からない。
   この光を掴まねばならない、訳も無しにそう確信して。
   手を伸ばす。

「殿下…龍晶殿下!」
   伸ばした手を掴む人が居る。
   この声。宗温だ。
   龍晶はそっと目を開いた。
   窓から射し込む朝日に目を細める。
   この場所。意識を失う前の、そのままの場所。
   夢では無かった?
   はっと、起き上がる。
   何の痛みも無い。致命傷だと思われた背中の刀傷。
   矢張り夢だった?
   否。
   隣に朔夜が倒れていた。
   眠っているようだ。
「…治してくれたのか、お前…」
   眠る顔に問う。
   間違い無く何もかもが現実だった。
   それを証明するように辺りは屍だらけだ。
   不自然なほど喉笛ばかりを狙ったように掻き切った屍体。
「死ぬかと思ったが」
   言って、宗温に片頬上げて笑う。
「ご無事で何よりです」
   鼻で笑って、お前もな、と返した。
「何が起こったか聞きたい所だが…お前も同じ事を訊きたいんだろうな」
「ええ。正直、目の前で起きた事が理解できません」
「同じだよ」
   座り直して、朔夜の上半身を抱き上げる。
   かくりと落ちる首。本当によく寝ている。
「赤子かよ」
   苦笑しながら持ち直して、己の肩に頭を乗せてやる。
「…確かなのは、漸く俺は悪魔に逢えた…それだけだな」
「そう…ですね…。我々は彼に救われた」
   龍晶は頷いて、一回りは身体の小さい朔夜を抱き上げて立ち上がった。
   この小さな身体に、あの力が宿る。
   あまりに恐ろしく、あまりに大きい。
   そして、あまりにも魅惑的な。
「外はどうなっている?」
   入口の向こうに目をやりながら龍晶は訊いた。
   とにかく屍が累々と続いている。それはここからでも判る。
「敵兵はもう一人も居ません。皆は水と食料を探して逃げる準備をしています」
「ああ。国に帰らねばな」
   至極当然の様に言える。
   夜が明ける前は、望む事すら出来なかったのに。
   生きて、帰れる。
   帰るのだ。あの懐かしい故郷へ。
   龍晶は外へと踏み出した。
   自由の身となった同胞達が、旅立ちに必要な物を集めて走っている。
   一人がこちらに向かって走り寄ってきた。
「殿下、これを」
   両手で差し出された、龍晶の刀と、朔夜の衣服、そして双剣と虎の彫刻のある短刀。
「よく見つけてくれた」
   兵は一礼して去って行った。
   両手の塞がる龍晶の代わりに荷を受け取った宗温は、のんびりと彼に言った。
「まだ出立には時間がかかりましょう。ゆっくり準備してお待ち下さい。死の淵から蘇えるなんて大仕事をされて、さぞや空腹でしょう?」
   何故それを知っている、と宗温を見やる。
   ふふ、と笑って彼は教えてくれた。
「殿下もお召し替えが必要ですね」
   斬られた箇所の衣服が大きな口を開けているのだ。背中は全面、赤く染まっている。
「これが一晩にして治った。信じられるか?」
「もう何を見せられても驚きませんよ」
   景色一帯が信じられる物ではないので、感覚が麻痺してしまう。
「…確かにな」
「何か運ばせましょう。お休みになるならあの辺りが良いですよ」
   指差した先に、少しばかりの木陰と泉が見える。
「朔夜殿をお持ちしましょうか?」
「いや、大丈夫だ。荷を頼む」
   何故だか、今だけでも己が運ばねばならぬ気がした。
   軽かった。
「敵は戻って来ないだろうか?」
   木陰に向かう僅かな道中で確認する。
「戻るも何も…どうやらここに居た者は殲滅したようですからね。援軍が来るなら話は別ですが…呼ぶ事も出来なかったでしょう」
「生存者は居ないという事か…」
   あの人数を、一人で。
   逃げる暇をも与えない程の短時間で。
   人間に出来る事ではない。
「敵を殲滅した後、朔夜殿はあの柵を破壊してくれたのです。それも、ただ触れただけですよ?だからもう何が起こっても驚きません」
   先刻と同じ事を繰り返している間に、二人は木陰に着いた。
   ひりつく日光が柔らぐ。
「水と食べ物を持って来ますね。今回ばかりは甘えて下さい」
   宗温が笑いながら言って、踵を返す。
   龍晶は言い返す気も無く見送った。他人に何かをさせるのは大嫌いだが、今は動く気になれない。
   確かに痛みは体の何処からも消えたが、怠くて仕方無かった。
   朔夜を程よい場所に下ろして、自身も腰を下ろす。
   木陰の下ならば爽やかな風が吹き抜ける。
   随分久しぶりに風を感じた。
   全てが解決した。
   都に戻れば当然、様々な問題が待っている。
   だが帰れるだけ断然良い。死線を掻い潜って生き残った今は、待ち受ける問題など何もかも些事に思える。
   今はとにかく解放感が強かった。
   ぼんやりと辺りを眺めていて。
   ごろごろと転がる屍と砂しか景色に無い、何とも殺伐とした光景ではあるのだが。
ーー本当にこれは解決か?
   ふっと、頭の片隅に起きた疑問。
   敵が全て死んだーーそれは戦において確かに大勝利であり、これ以上無い結果である。
   だけど。
   龍晶は蒼醒めて立ち上がった。
「…馬卑羅…!」
   敵ながら世話になった少年兵の名を呼ぶ。
   生存者は、居ない。
   炎天下の中に飛び出す。
   嘘であってくれと声にならぬ叫びを上げながら。
   死人が多過ぎる。
   一人一人を確認し、だが少年の姿は目に入らない。
   否、無くて良い。徒労で終わって欲しい。
   こんな事は考えたくもない。
   友が、恩人を殺したなど。
「……!」
   水場に、皮袋を持って。
   だが、首は無かった。
   別人だ。別人に違いない、そう念じながら。
   井戸の中を、思わず見てしまった。
   赤く染まる水。
   浮かぶ、変わり果てた、顔。
   動けなかった。
   叫ぶ事も、震える事も。その場から逃げる事も。
   赤い、赤い水に、意識が吸い込まれる。
   これは。
   誰の罪だ?
「ーー殿下っ!!」
   急に井戸から体を剥ぎ取られて、龍晶は我に返った。
   水を汲みに来た宗温が、息切らして己を抱えている。
   自分が何をしようとしていたか、少しずつ理解した。
   ここに落ちるべきは、誰だ。
「…大丈夫ですか」
   肩を掴む力が、痛い。
「ああ…。悪い…」
   自分がしようとしていた事を、もう片方の自分が冷めた目で見ている。
   馬鹿な事をするな、と。
   正気と狂気が己の中で渦巻いている。
   一番信じられないのは、自分だ。
「もう、何も恐れる事は無いのですよ?」
   宗温からすれば、終わった今になって何故、と思うのだろう。
   それは龍晶とて同感だ。
   だが、終わったのは何なのか。
   黙って、少年の遺骸を指差す。
   宗温は指された方を見遣って、立ち上がり井戸の中を確認した。
「…彼、ですね」
   冷静に一言呟いた。
   聞いた龍晶の中で、怒りが突き上げた。
「それだけかよ!?貴様それでも人間か!?」
   怒鳴って。
   落ち着き払った宗温の視線に、冷静にならざるを得なかった。
「…悪い」
「いえ、ご尤もです」
   俯き、緩く首を振る。
「これが戦か」
   こんな、残酷な。
   この光景は、人を、おかしくさせる。
   自身も麻痺しかけていた。これが平和へ繋がる光景だと、つい、今し方まで。
   もう、何が正気で何が狂気なのか、分からない。
   おかしいのは、矢張り俺だろうか?
「これを戦と呼んで良いのか…いえ」
   何でもありません、と宗温は口早に言い足した。
   自分と朔夜の関係に気を遣っただけだと、龍晶はすぐに察した。
   だが、気を遣われるには度が過ぎている。
   朔夜は、意図してこの光景を生み出したのか。
   だとしたら。
「悪魔の所業だ、これは。お前達がする戦と同じだとは、俺も思ってない」
「殿下…」
「人の死に方もいろいろだな」
   立ち上がって、元来た方へ歩き出す。
   もう、怒りも無い。恐怖も。悲しさも、悔しさも。
   何の感情も起こらない。
   ただ、何故、と。
   天に向かい、何故こうなったと、問い質したいーー
   答えなど、誰も持っていない。それは知っている。

   一旦、峯旦の陣へ合流する為出立して、最初の夜。適当な場所に夜営を組んだ。
   これまで行き来に使った街道ではなく、人の目に付きにくい山道を進む。
   いつまた敵襲があるか分からない。壬邑からは一掃されたとは言え、哥の情報網と移動力は侮れない。
   怪我人、病人の多い一行だ。襲われたら、せっかく拾った命もひとたまりも無い。
   夜営の準備も一段落し、龍晶は病人と共に運ばれる朔夜の様子を見に来た。
   まだ目覚めない。
「いつまで寝こける気だ」
   文句の一つも言いたくなる。
   言いながらも、違和感を感じる。
   今迄通り、文句も冗談も、弱音も、本音も言える、そんな関係で良いのだろうか。
   確かに記憶は消えている。それでも、否だからこそ、側に居てやろうと思っていた。
   だが、あの姿を見、その埋められない損失を身を持って知ってからは。
   これまでと同じで居られる方がおかしい。
   そう思いながらもここに来てしまう自分が居る。
   分かっている。
   こいつがした事は、
   百を超える命を奪って、
   俺一人を救った。それだけだ。
「俺に見捨てられないように仕向けたろ」
   半分は冗談。もう半分は。
   自嘲した。
   こんな奴に守られ、今度は守ってやらねばならない。
   随分骨な世話だと、命令した兄に心の内だけで毒付いた。
   枕元に座る。
   一つ一つの情景が思い返される。
   例えば、あの瞬間俺がこいつを止められていたら、どうなっていたか?
   二人共死ぬだけ。それだけで済んだか?
   それでも良かったか?
   後悔なのだろうか。それすらも分からない。
「殿下、ここに居られましたか」
   宗温が近寄ってきた。
   井戸での事があるから、あれからずっと何とは無しに見張られている。
   悪かったのは自分だ。煩わしいよりも申し訳無さが先立つから特段何も言わない。
「まだお目覚めにはなりませんか」
   問いに頷いて、立ち上がる。
   ここに居ても仕方ない。
   宿営地は夕飯の香りと一時の安息で満ちていた。
「殿下、これは戯言として聞いて欲しいのですが…」
「何だ?」
「彼を、このまま都に帰しても良いものでしょうか?」
   思わず龍晶は歩みを止めた。
「…返さねば、どうする?」
   これは、兄のものだ。
「いえ、あくまで戯言です。聞き流して下さい。…今、都に帰しては、半永久的に故郷の地を踏む事は叶いますまい」
「…ああ」
「殿下のお命が懸かっている事も重々承知しております。どうかお忘れ下さい」
   言って、一足先に去ろうとする足を、龍晶は止めた。
「もし…もしも、俺達二人が都に帰る道を選ばなかったら、お前はどうする?」
   振り返り、微笑んで。
「お供致しましょう。お邪魔でなければ」
   一礼を残して、宗温は人の居並ぶ夕餉の集いに紛れた。
   龍晶は、朔夜を振り返る。
   安らかに眠る顔。
   この先の苦難など、何も知らない。
   龍晶とて、この先何が待っているか分からない。ただ、決して明るくはない。それは確かだ。
   朔夜は兵器として有効だと、証明してしまった。
   王の思惑通りに。全ては、あの掌の上。
   朔夜に待っているのは、次なる戦地だ。
   自分は。
「帰りたいよな…」
   前に訊いた問い。
   あの時はっきりと、頷いた。
   このまま皆と道を別けて梁巴へと向かうべきか。そうすべきかも知れない。
   その方が、希望はある。
「悪い」
   俺は約束を守らない。
   自分が、そんな選択など出来ない事を、龍晶は知っている。
   臆病故に。それだけで。
   兄に背く事が、出来ない。

   峯旦は来ぬ敵を待ち構えていた。
   まだ壬邑がどんな事態になっているか、報せは無いのだろう。
   一行が到着して、初めて何が起こったのか報された。
   報告は宗温が行った。龍晶は同席せず、会話も聞こえない陣の外へ一人歩いていった。
   悪魔の所業など改めて思い返したくもなかった。何も知らぬ第三者の会話ならば、尚更。
   陣の外れ、馬の繋がれる木立へ足を踏み入れて。
   意外過ぎる顔を見つけて、驚きで足を止めた。
「祥朗…!?」
   傍らには玄龍、そして桧釐。
「どうして…!?」
   嬉しそうに走り寄ってくる弟を迎え、ゆっくりと後に続いてきた桧釐に問う。
「お馬様は約束通りこの子の元に帰しましたよ?その後は判るでしょう」
   分からない、と首を振る。
   下から腕をぎゅっと引っ張られた。
「…心配されてるんですよ、あなたは」
   腕を抱くようにしてくっつく祥朗を見て。
   きちんと別れも言わず彼から、それも危うく永遠に別れようとしていた事に気付いた。
「ごめんな、祥朗。もう…大丈夫だから」
   真上から見下ろす頭が上下に振られる。
   本当は何も大丈夫だとは言えない。この先、またこんな事態になる事は想像に難くない。
   その上、まだここは戦場に違いないのだ。
   そんな場所に来させてしまった。桧釐を責めるのは見当違いだとは思いながらも、どうして止めなかったと腹の内で怒らずには居られない。
   ぐっと腕を引っ張られる。前へ。祥朗にとっては先刻居た位置へ。
   玄龍を見せたいのだとすぐに判った。
   愛馬は、程よい木陰に繋がれて、のんびりと下草を食んでいた。
   龍晶に気付いて首を上げる。
「玄龍、長い距離を往復させてすまないな」
   首筋を撫でる。横で祥朗がにこにこと笑っている。
   この瞬間の為に俺は生き残ったのだろうと、そう思った。
   そう、この刹那。
   そして再び地獄へと向かう。
   日が暮れ、祥朗が眠るのを見計らって、龍晶は桧釐を誘い天幕を出た。
「約束を果たしてくれた事には礼を言う」
   夜道を適当に歩きながら、龍晶は切り出した。
「それはそれで、言いたい事がありそうですな」
   結論など御見通しとばかりの桧釐に、一つ息を吐き、提案した。
「お前、俺に付き合わされてから酒浸りになってないだろう?そろそろ我慢も切れる頃じゃないか?」
   桧釐が目を丸くする。
「どうしたんです、急に」
「俺とて素面じゃ居られない時があるんだよ、蟒蛇殿」
   北州での己の呼び名を呼ばれ、思わず笑って桧釐は快諾した。
「無論、付き合いますとも」



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