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月の蘇る
  3
   赤褐色の大地が月光を吸い込む。
   今宵は十三夜。望月を手前にし、白い丸はいよいよ輝く。
   乾いた空気に干上がった大河は深くとも膝下までしか水深は無く、徒歩で渡るのに何の苦にもならなかった。
   つまりそれは、戦をする上で何の防御にもならないという事だ。騎乗するならば尚更有利になるだろう。
   やはりこの大地を戦の舞台にしてはならない。するならば敵陣に直接攻め込むか、自陣であるあの城での籠城戦か。
   後者はなるべく避けたい。籠城するほどの備えは無い。餓死者を出すだけで何の成果も得られないだろう。せいぜい時間稼ぎだ。
   ならば、選択肢は一つ。
   朔夜は闇の中の道無き道を見据えた。
   疎らな潅木の林。その向こうに崖がある。
   その下から明かりが漏れている。夜営による明かり。
   それが目標とする敵陣だ。
   今宵は下見に来た。近く一人で攻め入る為に。
   別に絶対必要な事ではない。情報なら宗温に訊けばいくらでも教えてくれるだろう。
   繍に居た頃は毎日のように違う戦場に立った。知らぬ場所でも別に不自由は無かったし、知ろうとも思わなかった。
   命令された場所に赴き戦うだけ。故に『生ける兵器』だ。
   だが、この戦は違う。何が違うのかと問われれば言葉に窮するのだが。
   国が違うだけで命令された場所で戦うのは同じだ。だけど、何か決定的に違う。
   勝たせたいと思うのだ。もっと正確に言えば、救いたいと。
   それは龍晶であり、北州の民であり、宗温の率いるこの部隊でもあり、龍晶が良くしたいと願うこの箋という国でもあり。
   それらの命運が、己の働きで変わるのだ。だから、勝たせたい。救いたい。
   繍でそんな事を思った事は無かった。漠然と、自分は民を守る為に戦うのだと信じようとしていたとは思う。だが、日々を生きる為に与えられた仕事をこなして、その結果に自己嫌悪になるだけの、それだけの意思だった。
   こんなに明確に、戦を戦う組織の一人として、味方を助けたいと思ったのは初めてだ。
   だから、出来る事はしておきたい。戦さ場に居ながら何もしないなど、居ても立っても居られなかった。
   崖の下は明るい。篝火が煌々と焚かれ、人々のざわめきと馬の嘶く声が聞こえる。
   そっと覗けば、予想通りに陣中は活気に溢れていた。人も馬も多い。一見して戦力差を思い知らされる。
   時折豪快な笑い声がする。空気の中に混じる酒精の匂い。肉を焼く煙も見える。
   敵方の物資は潤沢に有る。兵站がしっかり確保されてあるのだろう。騎馬民族ならではの機動力がこんな戦地だからこそ生きるのだ。
   輸送経路を叩けば有効だろうかと考えたが、道など彼らはいくらでも変えられる。意味は無いだろう。
   やはり襲うならこの陣中だ。それもこうして酒宴などしている時。油断を利用してやれば良い。
   とにかく一つ確かなのは、この軍にはまだ積極的に進軍しようという意思が無い事だ。それは助かる。
   まだ後続が到着する見込みがあるのか、こちらの降伏を待っているのか。その両方かも知れない。
   普通に考えればこちらは粘られれば粘られる程厳しくなる。何せ物が無い。今後、餓死者が出る可能性すらある。
   自然に瓦解するのをこうして悠長に待つ気なのだろう。
   それを止める為の自分だ。朔夜は辺りを見回し、崖を降りる道を探した。
   今日襲う気は無い。あくまで下見だ。
   だが、いざとなれば力を使う気で来た。それに相応しい月だ。
   林と言えど潅木は人一人の姿を隠すのがやっとの高さで、月光は何処に居ても白々と朔夜の元へ届く。
   歩き出しながら、己の考えの変わりように自嘲した。
   こんな力など無ければと、ずっと恨んできたのに。
   どんなに頼みにしようと、これは人殺しの力に相違無い。使ってはならない力だ。
   それで世界を己の思い通りに変えるなど、果たして許される事なのだろうか。
   今までの繍での戦いと、今回の戦いとの決定的な違いはそれだ。
   他人の意思で使っていたこの力を、初めて自分の意思で使う。他人の為だとは言え。
   己の責任で、己が望んで、人の命を奪う。
   今までとは違う。今までは手は汚しても誰かのせいに出来た。これは逃げ場が無い。
   足が止まる。
   許されるのか。こんな事が。
   ざわざわと、風が木を揺らす。
   鳥の声が不気味に響き渡った。
   ここに居るのは己か、
   それとも悪魔なのか。
   ひゅ、と耳元で空気を切り裂く音がした。
   反射的に避ける。鏃は頬を裂いた。
   敵に気付かれた。
   続く矢の襲撃を姿勢を低くして躱す。身を隠せる場所が無い。
   そのまま走り出す。横へ、少しずつ後退しながら。
   走りながら刀を抜く。夜の気配は敵の気配を飲み込み、窺わせない。
   突然目の前に白銀の刃が走った。大きく背後に飛び退き、致命傷は避けたが危ない所だった。
   それで漸く判った。囲まれている。
   敵は多い。まだ何処かに潜んでいる可能性もある。潅木の影に、乾いた地面の割れ目に。
   敵の二撃を刃を当てて受け止め、別の襲撃者を身を捻って刺す。また別の方向からの攻撃。
   騎乗はしていなくとも、腕力に違いがあり過ぎる。気を付けねば刀を飛ばされてしまう。
   攻守の合間を縫って月を見上げる。御託は兎も角、今は力を使わねば厳しい。
   憑け、と念じる。その間にも白刃は容赦無く飛んでくる。
   おかしい。いつもは何も考えずとも憑かれるのに。
   意識が徐々に溶けていって、何も考えずとも勝手に体が動き、気が付けば屍が転がっているーー
   がつん、と手元に衝撃が走った。
   短刀が目前を飛ぶ。気をつけねばと判っていたのに。
   そこに気を取られている間に隙が出来た。慌てて飛び退いたが肩を斬られた。
   傷を抑える。浅くはない。血が手を伝う。
   限界だ。朔夜は敵を牽制しつつ、ぱっと背中を向けて走り出した。
   当然だが追ってくる。足の速さには自信があるが、片腕が動かせないぶん走り辛い。
   背中に刃が迫る。倒れながら自棄っぱちに刀を振った。
   刃が虚しく空を切る。仰向けに倒れた視界に敵の影と、我関せずと輝く月光。
   己の呼気ばかり耳につく。
   何故だ。
   こんな所で月に見離されて死ぬのかーー
   突如、近い所で刀と刀がぶつかり合う音がした。
   朔夜に刀を振り下ろそうとしていた敵も、その音に気を取られ振り返る。
   その隙に立ち上がりその敵を斬った。
「逃げろ!」
   どうやら味方の援護らしい。言われるがまま再び走り出す。
   無我夢中で足を動かした。後ろにはまだ追手が居る。
   川が、月の光を受けて白い線となって輝く。
   あれを越えれば。
   体の傍を矢が擦り抜ける。
   敵に深追いをする気は無い。しても国境線であるあの川までだ。故に追跡をやめ、飛び道具に切り替えたのだろう。
   朔夜は川に入った。膝までという水深は半端で進み難い。いっそ深い方が泳いで渡れる。
   流れに足を取られる。体勢を崩す。何とか次の一歩を踏み出そうと藻掻く。その時。
   脇腹に衝撃と同時に鋭い痛みが走った。
   一瞬で理解した。矢が当たった。しかしそれ以上考える事も出来ない。
   全身から力が抜ける。決して深くは無い水中へと視界は吸い込まれる。あとは、流れのままに。
   暗い筈の水の中で、水面に遊ぶ月の光と、己の体から流れる赤い血潮を見た。
   ーー朔夜、潜ったら駄目だよ。危ないよ。
   大丈夫。俺、溺れても生き返るから。
   生き返れるかな?
   今度は。
   今度は、大丈夫じゃないのかもーー

   でも、それなら俺は、母さんの所に行けるのかな。

   目覚めて、暫しぼんやりして。
   ここがまだ生きている世であると理解して、朔夜はちょっと笑った。
   甘かったなぁ、と。それだけの笑いである。
   くっきりしてきた視界は古城の中の部屋だ。
   傷は痛む。肩の傷は相変わらず腕の動きを鈍らせている。腹の矢傷は下半身を動かせば引き千切れそうだ。
   それでも生きていた。まだ傷はある程度再生出来るという事だろう。力は格段に落ちているようだが。
   参ったな、と深刻に表情を曇らせる。
   これでは救うどころか足手まといも良い所だ。
   窓からは光が差し込む。朝か、昼に近い時間か。とにかく暑い。
   毛布に包まれた体から汗がたらたらと流れ落ちる感覚がある。気温だけのせいではないかも知れない。
   それでも意識は随分はっきりとしてきた。
   考えたくない事まで考えねばならぬが、とにかくぎりぎりまで直視は止めた。確かなのは自分が思った以上に役立たずだったという事だ。
   それだけで良いような気もした。俺には何も出来ない。
   これで戦と関わらずに済むなら、それ以上の事は無いではないか。
   漏れる笑みが自嘲だとも自覚したくなかった。
   乾いた音を発てて扉が開く。
   龍晶と桧釐が入って来た。
   出来れば顔を合わせたく無かったな、と。
   朔夜はこれまでの己の言動を後悔していた。
「起きていたか」
   狸寝入りで逃げる間も無かった。諦めて瞼を上げる。
   枕元で覗き込むのは桧釐で、龍晶は窓辺の壁に体を預けてこちらを見るともなく見ていた。
「今起きたばかりだよ。まだ寝呆けてる」
「それだけ目が覚めてりゃ十分だ」
   どうやら今度は逃して貰えそうにない。
   自業自得ではあるので諦めた。
「何があった?」
   鋭く問う桧釐の表情に、全く甘さは無い。
   下手な説明はしない方が良い。朔夜はありのままを話すしか無かった。
「敵陣を見に行って下手を打った。包囲されて殺される寸前だった所を味方の斥候に助けられて、逃げる途中で腹を射られた。あとは分からない」
   桧釐を不機嫌にさせるにはそれだけで十分だった。
「何が悪魔だ。そのざまでよくも敵陣に一人で攻め込もうなんて言えたな?」
「反省してます。でも味方と攻め込む方が危ないし」
「何処がだ、この野郎め」
   反省も何処にも無ければ、一人で攻め込む理由も何処にも無い。
   客観的に見ればそうだろう。朔夜は上手く説明しようと頭を回したいのだが、熱っぽい頭ではどうも上手くいかない。
   言い淀んでいるうちに、桧釐の怒りは増してきた。
「お前の無謀かつ勝手な行いのせいで、味方全体が危険に晒されるんだぞ!この軍だけじゃない、この壬邑が抜かれれば、一般の民に戦火が及ぶ!分かっているのか!?」
   言わずとも怒りの理由は北州を守りたいその一心から来るのだと分かる。
   それは朔夜も重々承知しているし、守りたいのは程度の差こそあれ同じだ。
「分かっている。分かっているからこそどうにかしたかった。結果は悪かったけど、俺が何とかしなきゃならないと思って…」
「もう誰も頼まねぇよ、お前なんかに」
「頼まれなくとも戦うよ。その為に来たんだから」
「だから余計な事はするなと言っている!」
   怒鳴られて、朔夜は渋々黙った。
   龍晶が壁から身体を浮かせた。
「桧釐、熱に浮かされたお子様に怒っても無駄だ。目覚めた事だけ宗温に報せてくれ」
   淡々と命じる従兄弟を睨み付ける。
「殿下が無茶な事をしなければ俺もここまで怒りはしないんですがね」
「無茶?俺はこいつを探すと言っただけだ。預かり物を無くす訳にはいかないからな」
「ご事情はよく存じてますよ。ただあまりに聞き分けが無いから危険でも兵を割く事になった事はご留意下さい」
「その皮肉な喋り方は止めろ。…行け」
   足音も荒々しく桧釐が出て行く。
   朔夜は龍晶に目線を送った。
   視線の意味を察して龍晶は不機嫌に返す。
「手ぶらで帰れば俺の命も無い。分かるだろう」
「それは分かるけど」
   桧釐の先程の言いようだと、理由はそれだけではないような感じがする。
   この男は、己の保身の為にそこまで騒ぎ立てたりしない。
「自分一人で探す気だったのか?俺のこと」
   いくら何でもそれは無茶があるから桧釐が止めに入ったのだろう。
「川で倒れたという目撃情報はあったからな。探してみる価値はあると思った。あの川ならそう遠くまで流されないし」
「桧釐に文句言わせてまで探さなくても良かったのに。目撃談があるなら、王様にもあいつは役立たずで勝手に死にましたって報告すれば良いだろ」
「…何があった?」
   朔夜の態度が自暴自棄に見えたのだろう。龍晶が傍に座って顔を覗き込む。
   そんなつもりは無かった。ただ事実を述べただけ。
「さっき桧釐に言った通りだよ」
「じゃあ質問を変える。何が無かったんだ?お前が本来の力を発揮させる為の、何が」
   的を得た質問に朔夜は答えに窮した。
   それなのだ。自身が一番知りたいのは。
「…本来の力なんて言わないでくれ。あれは俺の力じゃない。悪魔に操られているだけだ」
   答えを出さず、話を逸らした。これも言わねばならぬ事ではある。
「悪魔に操られる…か」
「信じろとは言わないけど。でも俺のした事じゃない」
   言いながら目を逸らし、語尾は萎んだ。
   確かに自分で動いている自覚は無い。
   だがその意思を持つのは、悪魔であるのは、自分なのかも知れない。
「だから嫌なのか?その力を使う事は」
「好きでやってる訳無いだろ」
   ぶっきらぼうに言って、動く片腕で傍に畳まれた衣を探った。
   硬い感触。己の得物の所在を知りたかった。
「使いたくないから使わなかった?」
   問われて、短刀を引き抜こうとした手を止めた。
「…どういう意味だ?」
   多少の険を込めて問い返す。
   龍晶はちらりと朔夜を見て、暫し視線を宙に漂わせた後、静かに告げた。
「お前を助けた斥候、重傷を負って帰ってきたが…今朝死んだ」
   声が出なかった。
   ただ、心臓が早鐘を打つ。「死んだ」という言葉に。
   自分でも顔が青褪めるのが分かった。その表情を龍晶は一瞥し、言った。
「気に病むなと言ってやりたい所だが、お前のせいじゃないとは言えない」
「…使えなかったんだ」
   早口に、震える唇で弁明した。
「嘘じゃない。使おうとしたけど使えなかった。何故かは分からない。俺だって殺されるくらいならあの力を使う!況してや、誰かを犠牲にしてまで…!」
「使えるなら使っていた。そうなんだな?」
   朔夜は枕の上の首を大きく縦に動かした。
「分かった。お前に翻意が無い事は認めてやる」
   言葉を失う。そこまで疑われていたとは。
   だが自分のせいで人が一人死んでいるのだ。何を言える権利も無い。
「彼のお陰でお前が川に流された事が分かった。絶え絶えの息でそれを教えてくれたから、お前は今ここに居られる。それに報いなければ、俺は、許さない」
   震える唇は否も応も言えなかった。
   報いろ、とはこの戦を勝利に導け、という意味だ。
   出来ると、数日前までの自分なら簡単に答えた。だが今は違う。
   己の中の何もかもが崩れ去った。
   忌み嫌いながらも頼りにしていた悪魔の力は、自分の思い通りになどならない。ならば、何を持って己を立たせれば良いのか。
   自分には何も無かった。虎の威を借るように、悪魔に操られる事で良い気になっていただけだ。
   見捨てられて、やっと気付いた。
   己の卑小さを。
「とにかく傷を治せ。問題はそれからだ」
   龍晶はそう告げて立ち上がる。そしておもむろに朔夜の首を立たせ、湯飲みの水を口に注いだ。
   飲める訳が無い。水を吐いて噎せる。
   その様を半分笑いながら見て、勝ち誇ったように龍晶は言い放った。
「お前を助けてやった事も含めて、俺の看病の借りは返したからな」
「は!?これで!?」
   朔夜は噎せながら声を上げる。雑過ぎる。
「あの時言っただろ。俺にお前の世話は出来ないって」
「分かった、もう良いよ…。お前にやらせると何もかもろくな事にならない…」
   色んな意味で脱力して毛布の中に潜り込む。
   その中で、噎せたついでに流れた涙を拭った。
「本当は熱冷ましに頭に水をぶっかけたい所だが、生憎ここにはそんな無駄使い出来る水が無いからな。自力で治せよ」
「分かってるよ…」
   突っ込む気力も失せた。
   一体彼はどういうつもりで行動しているのか、何とも計り兼ねる。
   言った通り借りを返したつもりなのか、もっと他の意図があるのか。
   斥候の死について、自分を責めすぎるなという言外の励ましにも思えた。
「龍晶」
   出て行こうとする彼を呼び止める。
「敵に動きは無いか?」
   本当は他の事を問いたかった。だが言葉にならなかった。
   これも知らねばならぬ事だ。だが龍晶ははぐらかした。
「有ったとしても今のお前には教えない」
「は?なんで」
「ま、実際無いから安心して寝とけ」
   それだけ言って龍晶は部屋を出た。
   釈然としない思いで朔夜は毛布を被る。
   すぐに意識が蕩ける。痛みより、身体の疲労や熱の攻勢が勝っているらしい。
   うとうとしながら、ふと思い当たった。
   あいつは、優しさも不器用なんだ、と。

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