月の蘇る
3
うっすらと眠っていた。自分が寝ている事に気付いて、危機感で目を覚ます。
夜が明けようとしている。炉の火は消えて白い煙が細く上がっていた。
龍晶は眠っている。額に汗が浮かび、苦しげに喘いでいる。悪寒が収まり、いよいよ高熱と変わったのだろう。
朔夜は布団の上に掛けた毛布を剥ぎ取り、布切れで顔の汗を脱ぐってやった。
触れる肌が、熱い。
立ち上がって土間に降り、井戸の水を汲む。
盥に水を取って枕元へ戻り、布切れを浸して額に置く。
こんな事しか出来ない。これで治ろう筈も無いのに。
祥朗にはあんな事を言ったが。
きっと次会う時には嘘つきだと罵られるだろう。出ない声で、刺さるような目で、お前は生かして帰すと言ったのに、と。
それとも、嘘だと解って聞いていただろうか。
いずれにせよ、悪戯に希望を持たせた罪は重い。
自分とて――希望くらい持ちたいのだ。嘘を嘘だと思って言い切った訳ではないのだ。
頭を抱える。どうしたら良い?
どうしたら助けられる?
「…おい」
微かな声を聞いて顔を上げた。
虚ろな目が、こちらに向けられている。
「目が覚めたか」
龍晶は、水、とだけ言った。
朔夜は立ち上がって再び井戸の水を椀に取る。
戻って、起き上がろうとする背中を支えた。
一口、水を飲んで、龍晶の目は窓に留まる。
紫色の朝焼け。
「凄いな」
朔夜が言いたいであろう事を代弁すると、龍晶は頷いた。
その目にこの空はどう映っているのだろうか。
この世で見る、最後の朝とでも考えているのか。
「…ちょっと疲れが出たんだよ」
反射的に朔夜は言っていた。
「ほら、お前みたいな王子様がさ、こんな山奥で暮らそうなんて…慣れない環境にも程があるって。おまけにやった事も無い竈の火を焚いたりとか、知恵熱でも出たんだろ」
煩いとばかりに視線をくれる。それでも朔夜は言ってやった。
「竈の代わりに自分の熱上げてりゃ世話は無いな。それで湯でも沸かせられれば良いけど」
「…言ってろよ」
再び寝転んで、荒い息の中で龍晶は言った。
「これがあの病なら、三日三晩高熱が出た果てに死ぬ。そう聞いた」
「もうすぐ下がるよ」
「気休めは良い」
朔夜は口を閉ざす。
お前だけの気休めじゃないと言ってやりたい。
その点、こいつは最後まで分からないままなのか――そう思ってすぐ打ち消した。
分からせるまで、死なさない。
「…死んだらまず藩庸の馬鹿に取り憑いて後悔させてやる…」
「そうか。お前はこの国を脅かす大怨霊になるんだな」
ふっ、と笑って。
「そのくらいしか出来まいよ…もう」
顔を横に背けて、ふうと長く息をついた。
額にかけていた塗れ布巾が、横を向いた事で目元へ落ちる。
朔夜はそれを直してやる気にもならなかった。
「生きる気が無いなら、祥朗に詫びて死ね」
捨て鉢に言ってやった。
返答は無かった。
朔夜もそれを期待した訳ではない。
投げ槍な気分で明けてゆく空を睨んでいた。
ただただ無性に腹立だしく、情けなかった。
「なんでお前が泣くんだよ…」
泣いていたつもりは無い。
涙が止まらないだけ。
「高熱だと目が乾いて涙も出ないみたいだ…。お前、贅沢だよ」
「知らねぇよ、そんなの」
人の気も知らないで。
「…俺には何も出来ない…。お前が、羨ましい」
悪魔が羨ましいと言うのか。
本当に、人の気を何も分かっていない。
「お前の言う通りだよ。俺は何も出来ない馬鹿な王子様。何も出来ない癖にぎゃあぎゃあ騒いで周りに疎ましがられて。せめて…俺に兄のような権力があれば、もう少し何かの役には立てたのかな…」
朔夜は龍晶の目元を隠していた布を引ったくると、水に潜らせて絞りもせずに額に押し付けた。
「お前は阿呆だ!」
意味も分からず泣きじゃくりながら。
「何も分かってない癖に、そんな事偉そうに言うんじゃねぇよ!お前はまだ、多くの人の為に生きなきゃならないんだ!今頃になって権力が欲しいなんて言うな!生きてるうちにやれよそんな事は!まだ、お前には…!」
知らず知らず掴んでいた両肩の上に、涙が一粒、落ちた。
自分だって泣いているのに、朔夜はそれに驚いた。こいつが泣く事も有るのか、と。
濡れた目で見つめる先にあの小箱があった。
代わりに手を伸ばして取ってやると、その蓋を開いて朔夜に見せた。
母親からの、最後の手紙。
『――これを見つけた人へ、
どうか私の宝珠にお伝えください。
母の事は忘れ、貴方は生き延びなさい。
くれぐれも、短気を起こしてはなりません、と――』
「…親しい皆が俺に生きろと言う」
感情の抜け切った声で龍晶は呟く。
「ずっと分からなかった…。俺は、皆を…母上を、犠牲にしてまで、生きる価値のある人間か?死を願う連中があんなに居て…現にこうして殺されようとしているのに…」
あまりに、身に覚えのある問いかけに、驚きで息が詰まりそうになりながら、朔夜はそっと龍晶を寝かせた。
同じ想いを、同じ自問を、同じ年月で、問いかけ続けてきた人が居る。
俺は生きていて良いのか。皆を犠牲にしてまで。
多くの人に死を願われてでも、生きていく意味は。
朔夜に、咄嗟に答えなど出せよう筈が無かった。
嘘でもお前は生きなきゃならないと、答えを言うべきなのは分かっている。でも、何を言おうと、自分自身にその言葉が重くのし掛かる。
直接の答えを出す事を、朔夜は諦めた。
「…逆なら良かったな、俺達…」
死を選ぶべきなのは、自分の方だ。
そして、この男は生きてゆくべきなのだ。理屈ではなく、そう確信している。
「そうかな…?俺にお前の世話は出来ないぞ」
龍晶は薄く笑って言った。
「分かってるよ、そんな事。お前は飯も炊けないし」
言い返して、軽く笑って。
熱くなった布をまた水に晒し、額に戻して。
否、と弱気を消すべく言った。
「何の病かは分からないんだ。大丈夫…治るよ」
龍晶が眠ってしまうと、風の音だけ。
祈る神はとうに無くした。だから風に祈るしか無かった。
どうか、こいつを生かしてください、と。
夜。
そう深い時間でも無いだろう。だが朔夜には直ぐに今が何刻頃かも分からなかった。
夕暮れ、疲れてうとうととしているうちに、すっかり寝入っていた。
こつり、と音がする。それで目が覚めた。
また、こつり。
重たい瞼を開けると、龍晶の眠る顔がある。苦しげな息はまだ続いており、額からは汗が流れ落ちている。
一先ず起き上がって、すっかり乾いた額の布を濡らした。音の正体は後で確かめれば良い。
こつり。
何かが戸口に当たる軽い音だ。獣でも居るのだろうかと朔夜は窓に目を向けた。
そこに人の顔があったから、驚いて大声をあげた。
窓の顔はしぃっと人指し指を立てる。何の事は無い、その顔は佐亥だ。
朔夜は驚きながらも窓に駆け寄る。
こつりの正体は、壁に小石を投げていた祥朗だった。何とか龍晶を起こさず朔夜だけに気付かせたかったらしい。
「こんな夜に…危ないですよ!」
小声ながらも精一杯叫んで、朔夜は二人を咎めた。
「この時間しか無いのです。連中に見咎められずに、ここまで来るには」
「でも…」
「我々は龍晶様より後に生き残ろうとは考えておりません。このくらい、何でも無い」
言う佐亥の隣で、祥朗が力強く頷く。
朔夜は情けなく顔を歪めた。
「それを…あいつに聞かせてやりたい」
それを知れば少なくとも、もう少し生きようとする気にはなるだろう。
「容態は?」
訊かれて、朔夜はますます肩を落とした。
「高熱が出たまま、下がりません。昨日からだから、かれこれ丸一日以上…」
「これを」
格子戸の穴から、小さな包みが押し込まれる。
「熱冷ましの薬です。少しは楽になるやも知れません」
「試してみます。でも…二人とも早く去った方が良い。ここで伝染したら、龍晶はもっと投げ槍になってしまう。俺もきっと感染してるし」
「あなたは症状は無いのですか?」
「まあ…幸いにして、まだ」
言いながら、おかしいなとは思う。
あの時、感染者に近付いたのは朔夜の方だ。それ以前に龍晶がより接触していたかも知れないが、しかし朔夜にも何らかの変化があっても良い筈だ。
「祥朗も病の出始めにあの街へ行っていました…が、感染はしていないようです」
佐亥の言葉に更に首を傾げる。
「ただの幸運か…症状の出る者と出ない者が居るのか…」
「空気で感染する訳ではないのかも」
医者の言葉を思い出しながら、朔夜は佐亥の言葉を接いだ。
「だって…空気ならもう都中に病人が溢れてますよ。感染する方法は別にある…」
それが判れば、感染者の増加も、もしかしたら治療法も、解明するかも知れない。
祥朗が、行灯の火を頼りに腰に提げた雑記帳へ何やら書き付けだした。
それを破り、格子戸へ押し込む。
『あした、先生をつれてここに来ます』
「先生?」
「貧民街の医者の事です。我々は先生と呼びます」
佐亥の説明に頷き、しかし顔を顰めた。
「本当に空気感染じゃないなら良いけど…あの街に入るのは危険過ぎる」
祥朗は首をぶんぶんと横に振って反論する。それでも行く、と。
「でも、祥朗…お前の兄貴はそれを望みはしないぞ」
言っても、首を振る。横から佐亥が口を挟んだ。
「龍晶様をお助けする為なら、この祥朗も危険など省みません。殿下のお怒りは甘んじて受けます。しかし今我々が動かねば、お怒りを受ける事すら出来なくなりましょう」
「…そんなに、命と引き換えにする程、大事なのか」
「ええ、無論です」
朔夜は後ろを振り返り、眠る龍晶を見る。
「幸せだな、お前は」
呟いて、二人に向き直った。
「分かった。くれぐれも気を付けて。入口は俺が何とかするから」
「ありがとうございます。では明日、この時間に」
二人を見送って、見れる限りに空を見た。
月明かりは無い。厚い雲で覆われている。
「俺が本当に神の子なら、もう少し有能だろうよ…」
こんな肝心な時に、何も出来ない。
力など無いと見える人達が、命を擲つ覚悟で動いていると言うのに。
龍晶の枕元まで戻ると、譫言が耳に入った。
母親を呼んでいるのか。朔夜はたまらず、その手に金の小箱を握らせて立ち上がった。
手燭を持って土間に降りる。
母を呼びたい気持ちは痛いほど分かる。でも、龍晶はまだ呼んではいけない。
身近に、まだ、その帰りを待つ人が居るのだ。
忘れなさいと手紙に書いた母親は、きっともうこの世界には居ない。
彼らを差し置いて、自分だけ母親の許へ行って良い筈は無い。少なくとも朔夜は許さない。
自分には、行く資格も術も永久的に失われたから、余計に許す気になれないのかも知れない。
土間から納屋へと入る。
手燭が無ければ足元も見えないほど暗い。
丁度ここは屋敷の裏手になる。あの坂道からは見えない場所だ。
手燭を地面に置き、その僅かな光を頼りに、朔夜はそこにある雑多な物を退かし始めた。
ここに入口を作るのだ。
どうせ腰抜けの憲兵どもはもうここに来る事は無いだろうが、それでも万一を考えてすぐには見つからない方が良い。
狭い空間で様々な物を退かすのは難儀だったが、邪魔な物はあらかた土間へ出し、人一人通れる空間が出来た。あとは壁を壊すだけ。
薄い木の板が打ち付けてあるだけの壁だが、勿論人の手では壊れないだろう。
壁に触れる。神経を集中させて。
問題は、壊す事ではない。
この力を、暴走させない事。
月の無い今ならその危険性は少ない。が、保証は無い。
だが、今は四の五の考えている時ではないのだ。
助けたい。
その為に。
閃光が走り、壁に亀裂が入った。
朔夜は詰めていた息を吐き出し、触れていた壁から離れる。
板が割れている。思いきり蹴ると、いとも簡単に人の大きさに穴が開いた。
外の空気が埃と木の屑を飛ばしてゆく。
「…よし」
大丈夫だ。正気は保てている。
座敷に戻ると、龍晶の目が開いていた。
あれだけ大きな音をさせたのだから当然だ。
声を出す気力は無いのだろう。目で問われて、朔夜は肩を竦めた。
「ちょっと脱出口を作ってた」
は?と口の形だけで問い返される。
「裏の壁に穴を開けた。これで行き来は自由だ。いざとなればお前を担いで出せる」
「…意味無いだろ」
「何もしないよりはと思ってね。起こして悪かった」
祥朗の事はまだ伏せておいた方が良いだろう。そう考えて肝心な事は言わなかった。
龍晶はすぐに瞼を下ろさず、ぼんやりと闇に包まれた虚空を眺めていた。
現を見る目ではなかった。
「…死にたくないな…」
闇に溶けるような呼気の、諦め混じりの本音。
朔夜は唇を噛んで涙を堪えた。
堪えた所でからかってはくれぬし、こうも暗ければ見えもしない、それも分かってはいたが。
泣いたら負けだと、何故だかそう思った。
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