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月の蘇る
  4
「ごめんなさいね。呼びつけたりして」
 華耶の母親は横たわったまま弱々しい声で呼び掛けた。
 朔夜は首を横に振る。
 二人きり。呼びに来た於兎も、看病していた華耶も、乞われて席を外した。
 誰もが何の用なのか思い当たらぬ顔をしていた。
 朔夜もまた、彼女が自分に何の話があって呼んだのか分からないまま口を開いた。
「怪我は治せるけど、病気は俺、治せるかどうか…」
 母親は優しく笑って首を振った。
 力を利用した治癒が目的ではないという事だ。
 朔夜はますます分からなくなった。
「あなたを苦しませるような事は、もうしません」
「え…?」
 唐突に言われた事に更に戸惑う。
「私達の為にあなたは沢山苦しんできたのでしょう?もう十分です。これまでの事は、村の皆に代わりお礼を言います。だからもう、他人の為にその身を削るような事はしないで」
「そんな事…」
 村の皆の傷を癒やす事は、自分の役目だと思っていた。決して望んで得た役回りではないが。
 逃げる事もあったが、必ずしもその仕事が嫌だった訳ではない。
 ただ、普通になりたくて。
「身を削る程の事はしていません。俺の力で皆を救えるなら何だってしたい。今はそう言えます」
 救えなかった――それどころか、傷付けてしまった、沢山の人が居る。
 せめてもの詫びではないが、善行をしないと己に救いが無い。
 結局、自己満足や利己主義でしかないのだろうが。
「出来るかどうか分からないけど、治させてください。華耶の為にも」
 華耶の名に、母親の瞳が揺らぐ。
 暫し何をどう伝えようかと黙して、彼女は言った。
「朔夜君」
「…はい」
 改めて名を呼ばれて、少し身構える。
 まるで今から怒られるかのような。
 母が子に言い聞かせる時の声音。
「華耶はね…あなただけが頼りなの」
 朔夜は眉根を寄せた。『だけ』という事は無いだろう。
 華耶の周りには自然と人が集まる。その優しさ故に。
「あの子の…ずっととは言わないけれど、もう少し…側に居てやってくれる?あの子が本当に安らげるのは、きっと朔夜君、あなたの側だけ…」
 そんな事は無いだろうとは思うが、朔夜は頷いて言った。
「側に居させて貰うのは俺の方です。ずっと…それは変わらないと思います」
 安らかな、嬉しそうな笑みで、彼女は礼を言った。
「でも、華耶にとっても母親は唯一無二です。俺のように失う苦しみを見せたくない。だから…」
「もう、良いの」
 治療しようと伸ばしかけた手を、両手に包まれた。
「もう良いのよ朔夜君。あなたは人で居なきゃいけないの。もう月神様にはならないで。華耶の為に」
「…人で…」
「あなたの望むように生きていって。それが私の願いです」
 言葉に詰まる。本当に何を言って良いのか分からない。
 もう人には戻れない。確信ではないが、刻々とそこから離れていく己が居る。
 開き直って化物として生きていく、だから今治療する事は何ともない。そう伝える事もできる。そうすべきだろう。
 だが、言えなかった。
 何故だか分からない。理由が有り余っているせいかも知れない。
 彼女の望みを断ち切る事が出来なかった、そういう事にして逃げて。
 本当は、己の望みも同じ所にあるからだろう。
 自分のため。
 それだけ。
 それで良いと、彼女は言ってくれている。
 それに甘えてしまって大切なものを失う事も辞さない己が居る。
 本当にそれで良いのか分からないまま。
「…ずっと…」
 今、言える事は、これだけ。
「華耶を守れるところに居ます。もうあんな目には合わせないから」
 華耶の母親は微笑んだ。
 口には出さず、お願いね、と言うように。
 一方朔夜は、心の中でごめんなさいを言った。
 自分の為に助けられるかも知れない命を見殺しにする、そんな思いがあった。
 だけど、ここで力を使って治したとしても、決して喜ばれないのは分かっていた。
「あなたのお母さまに、良い子に育っている事、伝えますね」
 夢見心地で彼女は言った。
 鉛を詰めたような心持ちで部屋を出ると、華耶が待っていた。
「ごめんね。急に呼び出したりして」
「いや、ありがとう。呼んでくれて」
 どちらも表情は暗い。
「稽古してたんでしょ?お茶入れるから飲んで行って」
 華耶に誘われて、土間へと足を運ぶ。
「稽古なんかじゃないんだ。あいつが喧嘩ふっかけて来るから、付き合ってやっただけ」
「またそんな事言って。本当は心配してるのよ、お父さんも…皆も」
「それは…ありがたいけど。でも燈陰は違う。あれは心配じゃない。俺をさっさとどこかにやりたいだけ。顔を見ずに済む場所へ」
 華耶は土間に降り、竈に火を入れて湯を沸かし始めた。
「朔夜は変わっちゃったね」
 作業しながらの何気ない一言に、自分でも驚くほど心臓が早鐘を打った。
 口が乾いて返答も出来ない。
 確かに変わった。己が己でなくなる程に。
 でもそれを誰かに、殊に華耶に、知られたくなかった。
「前はあんなにお父さん大好きだったのに」
 背を向けている朔夜の内心など知らず、華耶は付け加えた。
「あ…ああ」
 咄嗟に考えていた事とは全く別の話で、朔夜は多少混乱しながら間抜けた返事をする。
「いつも稽古稽古で、あんなに吹っ飛ばされても叩きのめされてもお父さんから全然離れないからさ…母さんとよく笑ってた。朔夜は本当にお父さん大好きなんだねって」
「……」
 遠くあった幸せな日々が、絶対に手の届かない所に行ってしまう。
 華耶に、どうにか伝えなければならない事がある。
 伝え方は、ずいぶん難しいけれど。
「あのさ、華耶…」
「うん?」
「おばさんの事…何も出来なくて…いや、何もしなくて…ごめん」
 華耶の手が止まった。
 怖くて息を呑む。
 次、何と言われるだろう。
「それで良いんだよ、朔夜」
 水鏡に目を落としたまま華耶は言った。
「謝らないで。それが母さんも私も望む事なんだから…」
「でも、華耶」
 この先何が待っているか、判らない訳は無いのに。
「手遅れになったら、もう…どうしようもないだろ?やれる事はやっておいた方が…」
「私達に失うものは無いから」
 芯の入った声音で、華耶は言い切った。
「でも、守りたいものはあるんだよ?」
 振り返って、にこりと笑う。
 朔夜は言葉を失った。
 どうして。そこまで。
 自分でも半ば諦めて棄てるしかないと考えているなけなしの自分を、彼女達が命懸けで抱えてくれている。
 結局、自分の事ばかりだ。
 俺は誰も守れない。守られてばかりで。
 つい先刻、あんな大口を叩いたばかりなのに。
 湯が沸く音が耳に入る。
 華耶が急須に湯を入れるべく動き出す。
 茶葉の薫り。流れ落ちる水音。
 どうやって、この恩を返す?
 どうやって、彼女を守る?
「どうぞ」
 鼻先に差し出された湯飲みを取る。
「…ありがと」
「どういたしまして」
 言って、不意に華耶がふふ、と笑った。
「どうした?」
「ううん。…いや、変だよね」
 溜め息。笑いの余韻に少し悲しみを混ぜて。
「きっと近いうちに朔夜も母さんも居なくなるのに…そんな気がしなくて。今が…楽しい」
「そう?」
「うん。昔みたいで」
「それは…分かる」
 華耶も湯飲みを持って上がり框に腰を降ろした。
 二人、並んで、暫く黙して。
 茶は熱かった。両手を温めるように湯飲みを掌で包んでいた。
「皓照さんに聞いたんだけどね」
 突然に意外な名を華耶が口にしたので、朔夜は湯飲みに口をつけようとしていたのを止めた。
 止めて正解だった。
 平常心で聞ける話ではなかったから。
「私、朔夜と同じ命を貰ったみたい」
 思わず湯飲みを取り落とした。
「そ、それって、つまり…」
 しどろもどろに問い直そうとするが、言葉が出てこない。
「良いんだよ、朔夜」
 華耶は寂しそうに笑って、燃える竈の火を見つめていた。
「私の事、いつかは忘れて良い。永遠に一緒に居るなんて夢物語だよ。責任なんて感じないでね?私は同じ世界のどこかに朔夜が居るなら、それだけで十分」
「そんな…華耶」
 あまりに情けない顔をしていたのだろう、華耶が吹き出した。
「別に嫌いになった訳じゃないよ。勿論一緒に居られるならいつまでもそうしていたい。…でもそれじゃ、朔夜の重荷になるだけだから」
「そんな事…!」
「良いよ。そんなに気を遣わないで」
 朔夜は絶句して、華耶の横顔を見つめた。
 どうしてそんな事を言うのか――考えなくとも分かる事だった。
 現に今、ここから離れようとしているのは誰だ。
「華耶、俺が戔に行くのは…その、ここに居たくないから行くんじゃなくて…」
「うん。分かるよ」
「え…」
 言葉だけ予想外にはっきり返ってくる。
 朔夜はそれ以上の言い訳が出来なくなった。
「何か理由があって行くんでしょ?それが何かは…訊かないから」
「あ…うん…」
「朔夜は朔夜のやりたい事をすれば良い。私には構わないで。もう…私の為に火の中に飛び込むような真似はしないでね」
 眉を上げて華耶を見返す。
「私なんかの為に命投げ出しちゃ駄目」
 竈の中の薪が爆ぜる。
 朔夜が返す言葉に迷っている間に、華耶が立ち上がって落ちた湯飲みを拾った。
「夕飯、お芋を炊こうと思うんだけど良い?」
「華耶」
 動きを止めて大きな瞳で朔夜を見る。
 やっと、言いたい事が纏まった。
「俺のやりたい事なんて…今ここに生きてる理由なんて、一つしかない」
「何?」
 一つ、大きく息を吸って。
「華耶を守る事」
「……」
「戔に行くのはその為の寄り道。だから必ず戻ってくる。華耶の居る所に」
 華耶は天を仰いで笑った。
「そう…そっか…」
 何か誤魔化すように後ろを向いて、炊事の準備を始めた。
「俺、今まで何度か死にかけた時、華耶の声が聞こえて戻って来れたんだ。諦めて、全て投げ出した時、いつも華耶が呼び戻してくれた。だから今、ここに居る」
「…うん」
「だから絶対に戻ってくる。どんな場所に行っても、時間はかかるかも知れないけど、必ず」
 華やかな笑顔が振り返る。
「良かった。私、いつまでも待っていられるね」
「あ…」
 『同じ命』という言葉がまた重くのし掛かる。
 良かったのか。本当に。
 誰にも、まだ何も判らない。
 気の遠くなるような未來にしか。

 華耶の母親はその数日後に亡くなった。
 『あなただけが頼りなの』その意味に気付いたのは、その亡骸を遠目に見ていた時だった。
 永遠の命の事を、彼女は知っていたのだろう。
 そうしてしまった自分は、責任を取らなければならない。
 同じ時間を生きられる者としても。
 皓照と燕雷が帰ってきたのはその翌日だった。
 測ったように発ってから二週間後の日だった。
 それほど皓照の中で自分の件が重大事なのだと朔夜は察した。
 自分の、と言うよりは、一刻も早く戔を動かしたいのだろう。
 大雨の中、二人はずぶ濡れになりながらもやって来た。
「もう少しまともな日に来たら良かったのに」
 土間で水の滴る外套を受け取りながら、呆れ混じりに言ってやると、皓照は爽やかに笑いながら返した。
「一刻でも早い方が吉日です」
 横には燕雷のげんなりした顔。
 強行軍の犯人は明白だ。
「そうは言っても、日は悪かったようだな」
 燕雷が座敷の奥に目をやりながら小声で囁く。
 まだそこには弔いの色が濃く残っている。
「華耶ちゃんは大丈夫か?」
「…俺には弱音吐かないから」
 きっと誰にも華耶は弱音など吐かない。昨日からもずっと気丈に振る舞っている。
「それでも…暫く近くに居てやる事は出来るだろう?」
「それじゃあこの雨の中急いで来た意味が無いだろ」
「そんなもん…」
「全くです」
 『関係無い』と言おうとした燕雷を遮って、皓照がにこにこと笑いながら肯いた。
「今日とは言いませんが、明日には晴れますよ、朔夜君」
「…ああ。それは良かった」
「おい、朔夜」
「燕雷ごめん。俺の気は変わってない」
 ぐいと腕を掴んで引寄せた燕雷を抵抗せず見上げて、朔夜は言った。
「戔に行く事が皆の為でもあるんだ。俺ももう…ここに居続けるのが怖いから」
「…朔」
「華耶の事、頼んで良い?ほら、あの駄目親父じゃ不安だからさ」
「お前が思う程、燈陰は駄目親父じゃないぞ」
 少し笑って肩を竦める。
 そんな朔夜に真剣な表情で燕雷は言った。
「戔も…お前が思う程甘い国じゃない。出来れば俺が付いて行ってやりたいが…。俺が出るとややこしい事になるからな…忠告だけで済まないが」
「大丈夫だよ、燕雷」
 朔夜は逆に燕雷の肩を叩いて笑った。
「俺も一連の地獄を味わってきた身だ。繍より酷い国は無い。多少の事は何でも無いさ」
 燕雷はただ難しい顔をして言葉を飲んだ。


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