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月の蘇る
  7
   桧釐は信用していた同志の言い分を聴き終え、じっと口を閉ざして窓の外を睨んでいた。
   哥の国境を前に龍晶の元を去った面々だ。やっとの思いで故郷へ戻ってきた。
   彼らが任務を放って戻ってきた事は非難に値するだろう。だが、彼らの気持ちも桧釐には解る。長年顔を付き合わせてきた仲間でもあるからだ。北州を思う気持ちは同じだ。
「…せめて、殿下の無事くらいは確認して戻って欲しかった」
   桧釐は溜息混じりに言った。
   不遜だが、龍晶の生死如何でこの戦の意味は全く違うものになる。
「だけど、あれじゃあもう時間の問題ですよ。灌の医者にはもう駄目だって言われたらしいですし」
   仲間の言葉を無言で手を翳し遮って、桧釐は別の問題を切り出した。
「国境はどうだった。お前達がこうして難無く戻ってきているのを見るに、もう国は兵を置ける余裕が無くなっていると見えるが」
「ええ。苴との国境は閑散としていましたよ。繍軍が居ると聞いていたが、本当に居るだけでした。全くやる気が無くて意味が無い」
「へえ。ま、自国すら守れないのに今わざわざ他国を警備する気は知れないな。兵の士気が低いのは当然だろう」
「全くです。しかし流石は桧釐殿ですな。これなら首都陥落も間近でしょう」
「さて…な」
   桧釐は険しい顔を緩めない。
   国内では同志が各地方で反乱を起こし、国はその鎮圧で疲弊している。
   今、都を叩けば不可能と思えた革命も現実のものとなるだろう。
   だが、今のままではそれは出来ない。
   反乱の大義が、ここに居ないのだ。
   乱れた国を糾弾し建て直す、その旗頭を振れる唯一の人物が。
   各地の同志は皆、王位を継承する龍晶の名の下で動いている。勝手な事をすれば彼らには裏切りと映るだろう。
   龍晶の生死を確認してから戻って欲しかったのは、その辺りの理由もあるのだ。
   もう一つ、都に侵攻できない重大な理由がある。
「…哥軍がこっちに向かっている」
   初耳である仲間達は声を失って驚いた。
「ここを俺達が抑えている以上、壬邑を攻められれば…俺達があの大国と戦わねばならなくなる」
「ならば一刻も早く侵攻し国を掌握すべきです!」
「間に合わんだろ。追い込まれた鼠は何をするか分からんのだぞ。都を火の海にする気か?それで息つく間も無く哥と戦えと?俺達は故国を売り渡したも同然の愚民となるぞ」
「では、哥と戦うと…!?」
「戦って勝てる相手じゃないだろう。どの道あの大国に戔は踏み荒らされる事になる」
「ではどうするのです!?まさか国に頭を下げるつもりじゃないでしょうね!?」
   桧釐は窓枠に頭を凭せ掛け、ぽつりと言った。
「俺は祖父と同じ運命を辿っても仕方ないな」
「桧釐殿…!」
「まぁ、それは最悪の場合だろう。望みの綱はある。それこそ、お前達が捨てたあの殿下だがな」
   彼らは目を泳がせた。それが望みになるとはどうしても思えない。
   龍晶はもう無理だ。あの体では、国境すら超える事も出来ないだろう。
「なるようにしかならない。ご苦労だった」
   彼らはまるで葬送の列のように去った。
   勿論、桧釐とて死ぬつもりは無い。
   が、なす術が無い。何よりもの頼みであった皓照は、もう随分と姿を見ていない。
   龍晶が無断で、しかも策を弄して朔夜を連れ出した事に怒り、見切りを付けられたのだと皆が言う。
   桧釐はそれを鵜呑みにしてはいないが、真相は知らない。
   ただ確かなのは、皓照一人に頼らねばならぬこの状況自体が完全に失敗だった。
   龍晶を急き立てたのは自分達かも知れないが、この反乱を決意するのは十年は早かったという事だ。
   そして決めた龍晶自身は勝手に死のうとしている。冗談じゃない。
   まだやらねばならぬ事は沢山あるのに。
「ああ…ったく」
   伝令が走り寄ってくる様が見えて桧釐は呻いた。また抑えきれなかった民の怒りが蜂起したという知らせだろう。
   導火線に火は付いてしまった。あとは何を巻き込んで爆発するかだ。

   王宮に来て三日目。
   思わぬ長逗留だが、特に不自由は無い。
   この場所の健全かつ穏やかな時間の流れが、龍晶を快復させるのに最適だった。今は庭を散歩できるまでになった。
   広々とした庭の、小川に掛かる石橋の上で彼は立ち止まった。
   回廊を渡りこちらに近づいてくる人影を見つけたからだ。
   単独であったのが意外だった。
「誰?」
   朔夜が問う。
「大臣だ」
   龍晶は答えて渡りかけた橋を引き返した。
   大臣は真っ直ぐに謁見の予定された東屋へと入って行った。
「行くか」
   二人もその後を追う。
   昨日の食事の際、龍晶は王へここに来た理由を語り、交渉のやり直しを申し出た。
   明紫安は表向きの事は大臣を混じえた方が良いでしょうと告げ、明日大臣をここに呼ぶと約束したのだ。
「大丈夫か?顔色冴えないぞ」
   朔夜の言葉に珍しく素直に頷く。
   失敗はもう許されない。三度目は無い。だが、こちらは言うべき事は言い尽くしてしまっている。その上で蹴られたのだから、本来ならもう交渉の余地など無い。
   良い知恵など何も浮かばない。席に着きながら何も言えない自分を想像し、龍晶は暗澹たる思いになっていた。
「大丈夫だよ。今度は王様が居るから」
   朔夜の言う事も解る。
   交渉の可能性がまだあると王は考えているのだろう。だからこその二度目だ。
   香奈多が走り寄ってきて、二人に告げた。
「大臣瀉富摩が参りました」
   龍晶は頷き、香奈多に案内され交渉の席へと着いた。
   今度は大臣と同じ目線で話が出来る。それも、卓一つ隔てた近さで。
   その同じ卓に、王明紫安も着いた。
「言葉はどちらがよろしいでしょうか?」
   明紫安はまず龍晶に尋ねた。
『そちらの言葉で構いません』
   言葉通り哥の言語で答える。大臣に話が通じ易い方が良い。
「必要な事は教えてやる」
   龍晶は隣の朔夜にそっと耳打ちした。
「いいよ。俺はここに居るだけだから」
   朔夜の言葉に少し表情を和らげ、目前の大臣へと向き直った。
『お忙しい中、御足労感謝します』
   瀉富摩は見るからに不機嫌だった。
『私は陛下にお尋ねしたい。何故、唐突に異国の者をこの宮にお召しになったのですか。前代未聞ですぞ。この者達が陛下のある事無い事を言いふらしたらどうなさるのです』
『あら、瀉富摩。私のする事が間違いとでも言いたいのです?』
『そんな事は…。ただ、危険であるとお伝えしたいのです。大臣として陛下をお守りせねばならぬのはこの瀉富摩なのです。お解り下され』
『大丈夫。私は守られずとも生きてゆけます。それよりも彼の事です。何故に彼の提言を袖にしたのです』
   龍晶は己が何も言わずとも進む話に眉を上げた。何より知りたいのはそこだ。
   瀉富摩は苦り切った表情で答えた。
『落ち着いてお考え下さい。何処の馬の骨とも知れぬ若者が我が国に無遠慮にやって来て、開国を迫っているのですよ?こんなもの容れられる話ではござりますまい』
『いいえ。彼の出自はとてもはっきりしています。何なら、私の方が何処かの馬の骨だわ』
『陛下…御冗談を…』
『それに瀉富摩、私は多くの国と交易出来るなら、これほど嬉しい事はありません。私の蒐集が増えるだけではありませんよ?民の多くにも同じ楽しみと富を齎すのです。それは国として幸せな事ではありませんか?』
   思った以上に、否、全く意外なほど、こちらに優位な展開となった。
   これは龍晶の願いを聞き入れて無理に作られた席ではなく、王が望んで設けた席なのだ。
   昨日までの疑問が一気に解けるようだ。
   王は自分達を利用して開国を進めたいが為にここへ逗留させた。そして各国の物品を見せ、自分は交易に前向きであると言外に語っていたのだ。
   が、瀉富摩の次の言葉に、空気は壊された。
『陛下が表向きの事に口を出されるとは、心外でございますな。不吉が起こらねば良いのですが』
   女王は表情を固くした。
   謂れの無い差別と迷信が王の身まで及んでいる事に、龍晶は心臓を掴まれるかのような息苦しさを覚えた。
   それは、自分や母にも通じる。
『陛下に向かって口が過ぎます!大臣と言えどお慎み下さい!』
   鋭く窘めたのは香奈多だった。
『これは失礼をば致しました』
   少女に向け笑って見せ、王へ頭を下げる。
   慇懃無礼な態度を受け取った王は、何事も無かったかのように話を続けた。
『例えば鉄資源のように、我が国に足りないものをこちらは多数持っていらっしゃいます。物だけではなく、技術もそうです。例えば医療技術をご教授頂ければ、どれだけの民が救われる事でしょう。そう考えれば我らに利の多いお話です。瀉富摩、是非一考を』
『しかし、どの道それらは我らの手に入るのですよ、陛下』
   大臣はちらりと龍晶を見て、続けた。
『戔の征服は目前です。征服さえすれば、永久的に無駄な代償など払わずとも全てが我らの物です』
『戦で喪う人々こそが大きな損失であり代償でしょう』
   龍晶は言って、瀉富摩を睨め付けた。
『征服?そんなものさせる訳が無い。確かに戔は貴国に敵わないかも知れないが、我々は最後の一人となるまで戦います。そしてあなた方は何一つ手に入れる事は出来ない』
   身を切り裂くような厳しい空気が、南国のような庭園に張り詰めた。
   まるでこの場所こそが戦さ場かのように、龍晶と瀉富摩は睨み合っていた。
   身じろぎ一つでもしたら斬り合う気迫で。
「…っくしゅん!!」
   朔夜のくしゃみが一気に現実を引き戻した。
「あ、悪い悪い。なんか寒気した。風邪かなぁ」
   ばつが悪そうに龍晶に謝る。
「…お前な」
「ごめんって。でも生理現象だから仕方ないじゃん」
「別に咎めてねえよ」
   龍晶がぞんざいに放った時、明紫安は堪らず笑い出した。
   娘のような笑い声に誘われ、皆が皆、呆れたように笑う。
   この庭を照らす明るい陽の光が戻ってきた。
「すみません。殿下は本当に、良いお友達をお持ちですこと」
   扇で口許を覆いながら、明紫安はまだ笑い顔で言った。
   そしてきりと表情を引き締め、腹心を見据える。
『これは王命です。戔を蹂躙せんとする軍を退却させなさい』
『陛下!何を…!?』
『私はこの国に利のある命令しか出しません。それとも何か?千里の真実を見抜く私の目が曇っているとでも?』
   瀉富摩は顔色を変えた。そして呻くように声を出した。
『滅相も御座いません…』
『ならば早く。数十年振りの王命に皆、歓喜することでしょう』
   大臣はまだ何か言おうとしたが、口を歪めて背中を向けた。
   その後を、王の視線を受けた香奈多が追ってゆく。命令がきちんと伝えられるか見る為だろう。
『良いのですか』
   思わず龍晶は問うていた。あまりに強引に見えたからだ。
   明紫安は何食わぬ顔で答えた。
『今言った通りです。哥の利にならぬ命令など、私は出しません』
   それでも何か信じられず言葉を継げない龍晶に、朔夜が問うた。
「どうなったんだ?」
「全て殿下の望む通りです」
   明紫安が代わりに答え、すっと龍晶の前に手を差し出した。
「私たちは良き友を持つ事が出来ました」
   その意を考え、手を握り返して、龍晶は応えた。
「願わくば未来永劫、我々は親しく居られますように」
   王は離した手で、まるで恋人か愛息かのように龍晶の頬を覆った。
「あとは…殿下が厳しく辛い大仕事を成し遂げられますように。あなたが無事乗り越えて初めて、輝く未来が開けるのですから」
「…分かっています。そうでなければ、全てが意味を成さない…」
「殿下」
   落とした視線を頬を包んだ両手で押し上げる。
「御身大事になされませ。あなたが持っているのはあなた一人の命ではなく、戔や哥、或いはその周辺の国の百万の民の命です。それを、お忘れなきよう」
   龍晶は逃れられず王の目を見返す。
   未だ迷いは有る。不可能だとも思う。
   それでも、己の肩に乗る責務は分かっている。
「王様ありがとう。俺もそれが言いたかった」
   朔夜の言葉に王は龍晶を解放し、また華やかに笑った。

   その翌日、実に二十年振りとなる王の声明が都中に拡められた。
   戔との戦の終結。その条件として、戔に起こる民衆の反乱軍を支持し、現戔王政を覆す事。それが成った後は、南方諸国との交易を開始する事。
   民の暮らしがより豊かになるであろう、という王の言葉に街中がお祭り騒ぎとなった。
   それが現実のものになると、皆信じて疑わない。
「…誰も見知らぬ土地の人々を本気で恨む気持ちなんか無かったんだな」
   香奈多に案内され帰途に着く際に、都の様子を見て朔夜は呟いた。
   敵対していた国同士というだけで、今喜ぶ彼らには遠い話だったのだろう。それよりも明日の己の生活だ。
   浮かれる民を愉しく見ていた朔夜は、ある一角に目を向けて突然顔を顰めた。
「うわ…あれはやり過ぎだ」
   騒ぎ狂う一団の中には、現戔王政、つまり戔王硫季の名を麻袋に書き、火を付けている輩が居る。
   自分達の豊かさへの障害の象徴として、彼らは兄へ怒りを向けているのだと、龍晶はその光景を見た。
   実際に手を下さねばならぬ自分は、炎の下で焦げてゆく名前を見続ける事も出来ない。
「許せよ?皆、他人事なんだから」
   朔夜は機嫌を伺うように言い繕ったが、龍晶は怒りも不快も感じなかった。
   放心したように輿の中で揺れている。
「龍晶?」
   朔夜の声も遠い。
   機を逃してしまった。
   あの人と対峙する事から逃げる、死という機会を。

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あきゅろす。
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