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月の蘇る
  2
   翌日、朔夜は旦沙那邸の中庭で短刀を砥石に当てていた。
   少し肌寒いが、太陽が燦々と降り注ぐ屋外は気持ちが良い。手頃な庭石を背凭れに、黙々と手を動かす。
   千虎からこの短刀を受け取って五年程になるだろうか。孟逸に言った通り、朔夜自身は一度もこの刀錆を落とそうとはしなかった。
   憎き繍に捕まった時に奪われ、その間に奴らが最低限、人を斬れる程には磨いたらしい。これを持って華耶を斬るか、二人で死ぬよう脅してきたくらいだから、本当に最低限の手入れだけだ。
   まだ千虎から渡されたあの日の刃毀れと、根元には血錆が残っている。
   五年も放っておいたのだから厄介な錆ではあった。腐っていなかったのは本当に幸運だ。
   昨日、孟逸は後悔の楔と言ったが、本当はあの日の記憶から逃げていただけだとも思う。
   この刃の錆を見る事すら嫌だっただけだ。苦い記憶と変わらぬ自身に向き合う事が出来ずに。
   千虎は怒るだろう。
   いつまで湿った根性を引きずってんだ、と。
   この錆を落とし、彼の息子に返す事が、一つの贖罪なのだとは思う。
   だけど、どの面下げてその息子に会えば良いのだか。孟逸にあれだけ頼んでおきながら、朔夜には気が重くてならない。
   その気の重さを助長するように、錆は落ちない。
「手こずってるな」
   ひょいと上から龍晶が覗いて、手元に影を作った。
   砥石は龍晶から旦沙那に借りて貰った。刀の手入れがしたいから、とだけ言って。
   普段はこんなにしつこい錆など落とさないから、砥石など持って歩かない。普段使いの得物の手入れは毎日のように欠かす事は無いので、旅の荷は打ち粉だけで充分だ。
   龍晶は朔夜が背凭れにしている庭石に座って言った。
「良い研ぎ師を知ってるんだが、紹介しようか?」
「へ?戔のか?」
「そ。ま、全部終わった後になるから、それまでお互い無事ならの話」
「じゃあその時が来たら頼むわ。俺だけじゃ全部落とせそうにない」
   龍晶は頷く。伯母の家から北州に戻るまでの道中に出会ったあの老いた研ぎ師は、まだ息災だろうか。
「その刀、前からお前に不似合いだと思ってたら…そんな事情だったのな」
   不意に龍晶が言った事に、驚いて朔夜は彼を見上げた。
「聞いてたのか!?」
「聞いてたよ。寝てたと思ったか?甘い甘い」
   偉そうに言っているが実際は、疲れ過ぎて寝付く事も出来ずさりとて動く事も出来ず、耳に入ってきただけだ。
「お前が記憶を無くしてる間に訊いた事があってさ。なんでこんなもん持ってるのかって。お前はそれも忘れてたけど」
「ああ…そうなのか」
   記憶を無くした果ての出来事を考えねばならぬので、それもまた苦い。
「でも、まぁ、良かったんじゃないのか?いつかその人に謝罪出来るって事だけでも」
「…うん」
「ただお前の"ごめんなさい"はしつこいからな。煙たがられない程度にやれよ」
「何だよそれ。どうせ石を投げられて追い払われて終わりだよ。だからこれは孟逸から渡して貰った方が良いんだ」
「それは無責任ってやつだろ。ま、本当のとこ、お前はどれだけ石を投げつけられても我慢して頭下げてるんだろうけど」
「うーん…うん…」
   考えただけで泣きそうな顔になっている。
   それを見、龍晶はぽつりと言った。
「俺はお前を許した」
   その意が分からず彼を見上げる。
   彼もまた、空を見上げていた。
「お前がお前自身を許してないだけだろ、きっと。俺の事だって、その人の事だって」
「…そうかな」
「じゃなきゃ、そんな大事なもん渡さねえよ。殺されながらそれはお前の罪じゃないって、分かってたんだ、その人」
「これが無いとあの夜、袋叩きに合って無事では済まなかった」
「だろ?生きて欲しかったんだ、お前に。大事な部下を犠牲にしてまで」
「うん…」
   砥いだ刀を持ち上げ、陽の光に照らす。
   鋭さを取り戻した光が目に刺さる。
「立派なもんだよな。俺はそんな瞬時に許せやしなかったよ」
   龍晶の表情を伺うと、今度は真正面から視線がぶつかった。
「何度もお前が居なければと思った。それは事実だ。済まん」
「謝るのは…」
「お前は謝るな。しつこいから」
   釘を刺されて出そうとした言葉を挫かれた。
   代わりにいじけてみせる。
「ずるい」
   龍晶は鼻で笑った。
   そして本題を切り出す。
「これからの事だけどな、朔夜」
   これまでとは打って変わって、声音に弱気が混ざる。
「三日後に王宮に召される事が決まった。向こうはわざわざ敵国に袋叩きにされに来た珍品を見たいんだろうな。捕虜解放の礼がしたいと言ってきたが、本当の目的は何なんだか」
「こっちだってそれだけで終わらせる気は無いだろ」
「ああ、勿論だ。それで…お前にも来て欲しいんだが…」
   そのつもりで居た朔夜は言葉を濁した龍晶に首を傾げた。
「頼みがある」
   気負い込んで頷く。
「何でも言ってくれよ」
   促したが、龍晶はすぐには口にせず、迷いながら何か随分嫌な事を言うように、やっと吐き出した。
「誰も殺さないと約束してくれ。これはもう条件だ。それが出来ないなら、お前じゃなく燕雷か孟逸に供を頼む」
   朔夜は絶句して、手元の刀に目を落とした。
   己が望まなくとも、悪魔は不意に誰かの命を奪う。龍晶とてそれは重々分かっている。
「だがな、こんな事を言っておきながら俺はお前に更に頼みたい事があるんだ。手前勝手なのは承知で聞いてくれるか?」
   朔夜は頷く。龍晶は苦しそうに口許を歪めて、胃の腑から言葉を吐き出すように呟いた。
「お前の力を、交渉の切り札として使えないだろうか?」
   沈黙が訪れた。
   龍晶は自分の足元を睨んでいた。とても友の顔など見れなかった。
   国に利用され続けてきたその力を、今度は自分が使おうとしている。自分自身が、或いは皓照に対して侮蔑してきた、同じ事を。
「お前自身を売る訳じゃない。ただ…少し力を見せてやるだけだ。脅しでもあり、俺たちに付けば利があると分からせる為に…。…いや、そんなのやっぱり駄目だな」
   どんなに言い訳を重ねても、否、重ねれば重ねる程、嫌悪感が増してゆく。奴らと同じだと気付かされる。
「何でもない。忘れてくれ」
   矢張り供は燕雷に頼もうかと思い直して立ち上がった時、朔夜は口を開いた。
「いいよ。やるよ、俺」
   龍晶は立ち止まる。
   矢張り顔は見れない。
「龍晶が望むなら、その通りにするから」
   大きな溜息。それと共に体の力が抜けたように。
   朔夜の横に地べたに座り込む。
「大丈夫か?」
   体の不調かと心配してくる朔夜に頷いて、庭石に頭を凭せ掛け空を仰いだ。
「力って何なんだろうな。権力って…本当に必要なんだろうか」
   思わぬ問いかけに朔夜は間抜けに口を開けた。
   その顔に少し笑って、龍晶は続けた。
「他人を自分のもののように使うのが権力なら、そんなもん無い方が良いに決まってる」
「そういうものなの?」
   権力とは何かなんて、朔夜は考えた事が無かった。
   いつもその力に使われ振り回されるに過ぎない側だから。
「お前がその刀の主を殺しに行ったのは、権力に抗えなかったから。そうだろ?」
「…まぁ、うん」
   権力に抗えなかったから、あまりにも多くの命を奪った。
   だが同時にそれは言い訳にも思えるのだ。
   選び、実行したのは、自分だ。
「何の力も無い俺が、お前の力を自分のものとして使うなんて、本当はおかしな話だ」
   分かりやすく説明しようとした龍晶の言に、朔夜は首を捻った。
「それは…そうは思わないけど」
「何故?」
「だって、お前は権力で俺を動かそうとしてる訳じゃないだろ?俺は、お前が友達だから、何とか力になりたいって動くだけ」
   龍晶は首を傾け、真っ直ぐ過ぎる友を見、ゆっくりとまた空の青を見上げた。
「…それにしては度が過ぎてると思うんだよ」
   悲しく龍晶は言った。
「この一事で、またお前の人生を壊す事になるかも知れない。そんな事、俺だって頼みたくないし、お前も受けられるか?」
「それは考え過ぎだろ。ちょっと力を見せるだけで…」
「それで戔ではどうなったか…解るだろ」
「でもお前は俺を売らない。皓照とは違う」
   平原に広がる空はあまりにも広い。
   山多い場所で育った二人は知らない青の色。だけど同じ空。
   信じられるものは無いと知っていた。
   だけど、信じてくれる人はいると知った。
「出来得る限り、俺はお前を守るよ」
   龍晶は言った。
   その為の権力ならば、手にせねばならない。
「それでも、何が起こるかは分からない。お前の力は施政者にとって喉から手が出る程の、そんなものだからな。増してやこんな軍事一色の国でお前の存在を知らせる事自体が危険過ぎる」
「うん。でも最後に選ぶのは俺だ」
   朔夜は砥いでいた刀に最後に水を掛け、いくらか輝きを取り戻した刃を拭き清めてから虎の鞘に戻した。
「大丈夫だよ龍晶。俺はもう、繍に飼われてた悪魔じゃないから」
   じっと無言で考え、やっと龍晶は曖昧に頷いた。
   朔夜は砥石を持ち、龍晶に訊いた。
「こっちの言葉でありがとうってどう言うんだ?」
   龍晶は空に目を向けたまま、その言葉を呟いた。
   朔夜は砥石を持ち、呪文のようにその一言を唱えながら、旦沙那の居る母屋へと向かった。
   空は青かった。
   これから来るであろう嵐を予感させて。

   苴王と灌王の書状の翻訳に漸く取り掛かる。
   忘れていた訳ではないが、今まで落ち着いて机に着く時間など無かった。
   この切羽詰まった状況で、初めてその中身を検め筆を取ったという次第だった。
   翻訳は思っていたよりずっと難事だった。政治的な固い言葉まで自在に置き換えられる程、龍晶とてこちらの言葉に精通していない。
   況してや、要らぬ誤解を招かぬよう置く言葉は精査を極めねばならない。旦沙那の力を借りつつも、二日間は殆ど独りでの作業となった。
   夜は眠ろうにも目が冴える。早く仕上げねばならないという焦燥感と、王宮でどう交渉したものかという迷いと、緊張と。
   眠れないから作業をするのか、作業をするから眠れないのか。灯りに使う油が勿体無いと旦沙那にぼやかれる程に夜を徹しての翻訳となった。
   しかし無理の効く体ではないのだ。いよいよ完成という時、旦沙那から聞き出した言葉を書き写した紙と翻訳した草稿を抱えたまま中庭で倒れ、それも運悪く池まで転げ落ちてしまい、救出された後は寝台に押し込まれた。
   二日間の苦労は池の水に溶けた。
   明日には王宮に行かねばならない。
「王の書状自体はあるんだろ?ならもう、そいつを渡して向こうに訳して貰えよ。仕方ないだろ」
   意地でも起きようとする龍晶を押さえ込んで燕雷は呆れ混じりに言った。
「それで良いなら初めからこんな事しない」
   譫言のように言い返す。
   向こうの都合の良いように意を捻じ曲げられて訳されるのを防ぐ為、自ら翻訳に当たっているのだ。
   それは燕雷とて重々分かっている。
「でもな、翻訳したところで相手は読みたいようにしか読まないぞ。何処に行っても同じだ。人は都合の良い言葉しか拾わない」
「それを少しでも防ぐ為にやってた事だ!お前はこの交渉がどれだけ重要か分かってるだろ!?最善を尽くさなくてどうす…」
   言い切らぬうちに咳き込んで、意に反して布団に戻ってしまう。
「とにかく少し休め。今、旦沙那と孟逸で復旧できる所は書き写しているから。休んだらお前が少し筆を加えれば良い。な?大丈夫だから寝ろ」
   それ以上抵抗する力も無く落ちた意識を確認し、燕雷は足を押さえていた朔夜に視線を送った。
「骨の折れる坊ちゃんだ」
「骨を折らなかっただけ良かったよ」
   庭に作られた浅い池で本当に骨を折っていた可能性もある。但し、この坊ちゃんは痛いと言わずに痩せ我慢している可能性もある。
   結局皆が寝静まった深夜に龍晶は起き出して、翻訳を一から書き直し完成させた。
   朝はそれなりに安心したのか体の限界なのか、いくら揺すっても目を覚まさない。
「ま、ぎりぎりまで寝かしてやれよ」
   燕雷は気楽に言ったが、孟逸は官僚らしく最悪の事態を想定していた。
「私は苴の使者として参りますが、戔の交渉までする権限はありません。どうします」
   暗に、誰かが代理で王宮に行かねばならないと言っているが、それに相応しい人物など居る筈もなく。
「…旦沙那から謁見の延期を頼んで貰うか」
   燕雷は言ってはみるものの、そんな事は不可能だと知っている。
   硬直した空気を拭い去るように。
「行くよ。俺は行くからそんな議論は不要だ」
   重い重い毛布をやっと押し上げて、龍晶は起き上がった。
   但し目はまだ開いてない。
   寝台から降りるなりたたらを踏み、その後もふらふらと歩いて心許ない。
「いや…そりゃ無理だろ」
「うるせえ黙っとけ」
   燕雷の心配に言葉だけで冷や水を浴びせるが、本当に言葉だけで声に力は無い。
   苦笑いで燕雷は仲間へ肩を竦めて見せた。もう好きにさせようという降伏宣言だ。
   らしさを発揮し過ぎていて手のつけようが無い。
   身支度を整え約束の時間を待つ。
   机に肘をつき、額を両手に乗せ、目を瞑って。少しでも体力を削るまいと。
   ただ、頭の中には様々な考えが渦を巻いているのは傍目にも分かった。
   そろそろ発っても良い頃だろうかと周囲が目配せしだした時、そのままの姿勢で龍晶は言った。
「孟逸は苴の使者として共に来て欲しい。旦沙那と、三人で行く」


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