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月の蘇る
  4
   何も無い、光も音も存在しない空間に、己の体だけが存在している。
   ただし横たわる感覚だけで五感は薄れている。あるのは荒れ狂う体内の痛み。
   ずたずたに斬り裂かれた己の体は、痛みなど感じる事なく屍となっている筈だった。
   それなのに、地獄を彷徨う亡者のように、終わりの無い苦痛を舐めさせられている。
    扉が開く。薄暗がりに、悪魔の姿が浮かぶ。
   悪魔は人の形で、時には友のように優しく、時には神の如き気高さで、己に近付く。
   更なる地獄に招き入れる為に。
   目前の悪魔に龍晶は問うた。
「今度こそ殺してくれるのか?」
   それとも、生かしてまた苦しめるのか。
   悪魔は怪訝な顔をしている。
   何を言っているのか分からないとばかりに。
   そうやって惚けて笑いながら人を地獄に落とすのだ。それが悪魔だ。
   怒りが込み上げる。何の為に、こうも苦しまねばならないのか。
   俺の生など悪魔の娯楽なのか。
「膾にして表面だけ治すなんざ生半可な事してないで、息の根まで止めれば良いだろう!?どうせお前は俺を殺す気なんだ!その為にずっと…」
   ずっと、側に居る。
   それは、誰だ?
   側に居て欲しいと自ら願ったのは。
「…違う…違うんだ朔夜」
   切れる息で龍晶は言い足した。
   ここは戔ではなく、灌の牢屋で。
   ここに居るのは、悪魔ではない。
「大丈夫大丈夫、お前悪い夢見てたんだろ?分かってるよ」
   無理矢理に笑いながら朔夜は言った。
「水、飲むか?」
   差し出された器。横たわったまま、首を横に振る。
   喉は乾いていた。だが、それを受け取る気にはなれなかった。
「そっか」
   何も気にしてないように朔夜は返して、器を引っ込めた。
   ここに入って三日は経った。時間の経過も分からないから本当はもっと経っているかも知れない。
   何も変化は無かった。燕雷も姿を見せない。来るのは水と食料を運ぶ兵くらいだ。
   龍晶は刻々と弱っていった。ただの風邪ではないのは明白だった。ずっと高熱と痛みに魘されている。
   その原因をやっと、朔夜は悟る事となった。
   器を床に置く手が震えていた。
   龍晶は何か言いたげにこちらを見ているが、口を開く事は無かった。
   何か言ってももう遅いと、もう何を言っても逆効果だと、分かってしまっていた。
   朔夜は膝を抱えて壁にもたれ座った。
   鉄格子と、その向こうは狭い通路。目に入る光景は何の慰みにもならない。
   龍晶が臥せっている分、自分が精神的に参ってしまう訳にはいかないと、そうやって自分を保たせてきた。
   だが、龍晶の苦痛の原因が自分だと分かって、それを言われてしまって、何処に立てば良いのか。
   消えてしまいたいと、思った。
   知らず知らず膝の中に埋めていた頭を振る。
   駄目だ。この感情は、また悪魔を呼び覚ます。
   あいつは、今も俺を、この身体を乗っ取ろうと狙っている。
   消えてしまいたい俺を消し去る事を望んで。
「朔夜」
   龍晶が呼ぶか細い声が耳に入った。
   縋るように、視線を上げる。
「やっぱり水…貰って良いか?」
   朔夜は必死で頷いた。急いで器を取り上げて、龍晶の元へ運んだ。
   痛そうに起き上がり、器を受け取って、水を飲み干して。
   腹の腑の傷に水が沁みるのを、押し殺した呻き声で耐える。
   そんな龍晶の様を見て、申し訳無さで涙が溢れる。
   彼は、本当は隠し通す気だったのだ。この重大な事実を。
   何も知らないでいる自分をどんなに恨めしく思っただろう。それでも、意識のあるうちはそんな気持ちを押し殺して言い続けていてくれた。
   お前は悪くない、と。
「…何、泣いてんだよ」
   力の無い冷えた手が、乱暴に涙を拭い去った。
   殆ど小突かれたような格好で、朔夜は思わずきょとんと龍晶を見返す。
  彼は眉間に皺を寄せたまま、口元だけで悪戯に笑って、囁き声で言った。
「お前一人でもここを出るつもりで居ろよ?それが一番の良策だ…」
「それ…どういう意味だよ…!?」
   思わず食ってかかるように問うて、しかしすぐに後悔した。
   何かを企むような笑みだけを返されて。
   朔夜はただただ首を横に振り、その絶望に彩られた笑みを丸ごと胸に抱え込んで、怒った声で言った。
「二人揃って出るに決まってんだろ。馬鹿な事考えるなよ」
   この痛みは、彼に死を望ませる。
   それを作り出した俺は、それを絶対的に否定する。
   矛盾している。分かっている。
   だけど今、抱えている体温が無くなるのなら、俺の持つこの温度も、要らない。
   例えそれで世界が悪に染まろうとも、こいつだけは生かす。絶対に。
   そう、前から誓ってきた事だ。
「これくらいの事で…明日にも解決するかも知れない問題で、深刻になり過ぎなんだよお前は」
   わざと明るく言い放つ。
   何も壊させはしない。悪魔にも、世界にも。

   見張りの兵が騒ぐ声で、うとうとと眠りかけていた顔を上げる。
   燕雷が来たに違いないと鉄格子に駆け寄り、通路の向こうを覗いた。
   不自由な視界に入り込んで来たのは、一目で期待とは違うと判別出来る人影。
「おやめ下さい!危ないですから!」
「鴇岷(ホウミン)様!お止まり下さい!」
   悲鳴のような兵達の制止を掻い潜って現れた子供。
   朔夜は顔を顰めてその顔を見た。
   暫し考え、ああ、と低く声に出す。
   一度会ってはいる。本当に一瞬顔を合わせただけだが。
   あの時よりいくらか大人っぽくなった顔に、朔夜は皮肉を込めて問い掛けた。
「囚人の見物なんざ趣味の悪い王子様だな?」
   相手は灌王の第一王子だ。但し、母親の身分が低いというだけで厄介者扱いされている、不遇の王子だ。
   こんな所に顔を出すくらいにはやさぐれていてもおかしくはない。
   追ってきた兵を一瞥して黙らせ、その王子は朔夜に応じた。
「悪魔の見物ならば確かに趣味は悪いかも知れない。だが私の目的はそなたではない」
   四年前の無邪気な物言いとはかけ離れた口調に、思わず朔夜は口の端を吊り上げた。
「ご立派になっちまったもんだな。そうか、お前の目的は同じ境遇のお仲間に会う事なのか」
   その『お仲間』を振り返る。
   苦しげに魘されながら眠り続けている。とても話の出来る状態ではない。
「具合が悪いのか?」
「こんな所に入れられている所為でね」
   子供に視線を戻し、挑発的に朔夜は言った。
「お前の親父さんはどうやら大きな勘違いをしているらしい。そのお陰で俺たちはこのザマだ。下手をすればこのまま殺され兼ねない。ま、俺たちが死んだとしてもお前には何の影響も無いだろうが」
「それは本当か?」
「さてね?本当だとしてもこの国の誰も信じやしない。お前もそうだろう?」
「私が信じると言っても、それを信じないのはそなたの方ではないか?」
   意外な問いで返され、朔夜は一瞬真顔になった。
   そして笑う。
「冗談だよ。暇過ぎるからちょっと王子様を揶揄って遊びたかったんだ、悪い悪い」
「そういうものか?私には分からぬ」
   純粋な王子は朔夜の言う事を全て真に受けていたようだ。
   朔夜は笑う目に真剣な光を宿らせ、鴇岷に告げた。
「お前があいつと話をしたいって言うのなら、まずはあいつだけでもここから出さなきゃならない。出してきちんと療養出来る所に運ぶんだ。解るな?」
   鴇岷は頷く。朔夜も頷いて続けた。
「その為にお前はまず、お前の親父やその取り巻きを説得するんだ。出来るか?」
「やってみよう」
「よし」
   今度は大きく頷いて、笑って見せた。
「手腕を期待しているぜ、王子様」
   鴇岷は頷くなり、走り去って行った。
   別に期待はしていない。どうせ彼もこの城では何の発言権も無いのだろうから、期待するだけ無駄だ。
   では何故あんな頼み事を持ち掛けたのか。
   龍晶を楽にしてやりたい、その一心で口走った事は間違いない。
   もう一つ。
   自分達が越えられない肉親という壁を、一回り幼い彼はどう立ち向かうのか、それを見てやろうと思った。
   勿論、意識的にではない。ただ意地悪のつもりで、どう足掻くのか興味があるだけだ。
   言うだけ無駄とすぐに諦めるのか、それとも。
   それにしても、一体龍晶と何を話したかったのだろう。ただ顔を見たかっただけと言うのなら、朔夜の言う事を一笑に付していても良い筈だ。
   だが違った。彼なりに真剣な面持ちをして、龍晶を救わんと考えていた。
   それに賭けたくなったから、あんな願いも出たのだが。
   互いの傷を舐め合いたいのだろうか。そんな相手など龍晶を逃せば一生現れはしないだろうから。
   それは別に構わぬが、こちらはそんなに悠長な状況ではない。
   傷では済まない日が刻一刻と近付いてきている。
   朔夜でさえ、心の片隅で燕雷を疑い始めた。
   事が進展しているのなら、否していなくとも、それを報告に来てくれても良い筈だ。
   なのに、顔一つ出さない。
   裏切りとは思わぬが、自分達を救い出す事を諦めてしまったのではないかと。
   そのくらい、この牢の中に流れる時間は長く重苦しい。
   龍晶の苦しげな喘ぎを聞くより他にする事が無い。介抱したいのは山々だが、たまに目を覚ました時に水を飲ますくらいしか出来なかった。
   その、目を覚ます時間も少なくなってきた。
   何も食べる事が出来ないのだから、体は弱っていく一方だ。
   更に意識も混濁している。目覚めても、朔夜を見て悪魔だと怯え慄く。悪夢と現実の境目が曖昧だ。
   龍晶のその反応に朔夜は、正直参ってしまっている。
   己の罪に胸を抉られる。逃れようのない罪悪感。
   その贖罪の為にも、龍晶を救いたかった。
   そうでなければ、自分自身が苦しい。
「なあ」
   眠る友に語りかける。
「やっぱり力尽くでここから出ようか。灌の人達を敵に回してでも、お前を生かせる所まで、闘いながら逃げようか…」
   そんな事は不可能に近い。
   いくら自分の人外の力を使おうと。
   そもそも、今この世界で龍晶を匿える所などすぐには思い付かない。どの国も敵に近い。
   そして、犠牲にするのはこの国で漸く平穏を見つけた華耶ら同胞だ。
   思ってもみない所で完全に道を塞がれた。
   溜息と共に額を己の膝に打ち付ける。
   誤魔化しの痛みだけ。何も紛れやしない。
   ふと。
   冷たいものが、膝を抱える手首に触れた。
   龍晶の手だった。
   やめろ、と言いたげに。
   すぐに力を失ってぱたりと床に落ちる。
   彼は目覚めたようには見えない。無意識だったのだろう。
「…お前らしいよ」
   ふっと笑って朔夜は呟いた。
ーー『俺一人の命で済むなら躊躇わないんだがな』
   こいつは、あの時のままだ。
   俺は?
   変わらずに居るのか?
『俺はお前の側に付く。お前を生かすと決めたから』
   生かすと決めた、そんな大口叩いたって。
   守りたかった人を、今までどれだけ守れたんだよ?
   またか。
   また、俺の側に居たばかりにーー
   龍晶の冷えた手を握る。
   本当は側に居てはいけなかった。でも、今見える希望はこの手を握れる事だけだった。

   寒空の下で縁側に腰を下ろし、じっと一点を見詰めている。
   その視線の先にあるのは、高台の上に築かれた王城だ。
   そこから今まさしく帰って来た燕雷は、気まずい思いで彼女に声を掛けた。
「ただいま」
   はっと視線を向け、慌てて笑みを作る。
「お帰りなさい。ご苦労様でした!どう…でした?」
   首尾など聞かずとも察しは付いているだろう。それでも期待を抱いている振りをする。それが彼女の優しさだ。
   対して自分は首を横に振る事でしか答えられない。情けない事に。
   華耶は落胆を隠してもう一度労いの言葉を掛け、立ち上がった。
「お茶を淹れますから、上がって下さい」
「…悪いな」
   いえ、と微笑みながら返し、厨に向かう。
   燕雷も土間から上がろうと踵を返した。
   どうにも、交渉は捗らない。
   それも交渉をする為に王や宰相らに会わせてくれという交渉だ。肝心な所に行き着いてすらいない。
   今までならこんな事態にはならなかった。
   何が変わって話も出来ないなんて事になったのか、思い当たる節は一つしかない。
   皓照に刃向かったが故だ。
   あの男を敵に回すとは、こういう事なのだ。
   彼に付き随う国々をも敵に回す。
「おい」
   戸口を潜ろうとして、低い声に呼び止められた。
「ああ、燈陰」
   農作業から戻ってきたらしい彼は、鋭い目でこちらに近寄って来る。
「丁度良い、一緒に茶にしよう」
   一方的に決め付けて、中に居る華耶におーいと呼び掛ける。
「燈陰のも頼む」
   はい、と気持ちの良い返事が返ってきて、二人は上がり框に腰を下ろした。
   何から説明しようかと考えれば、知らず知らず溜息が出て来る。
「珍しいな」
   燈陰に言われ、何が?と見返す。
「何かあれば出鱈目でも動き回るお前が、何か考えて溜息吐いてる」
「…そりゃ褒め言葉か」
「全然?」
「…だよな」
   この男が誰かを褒めるなんて、それこそ珍しくて雨が降り兼ねない。
「事情なら大体分かる。ついに誰にも相手にされなくなった哀れな呆け老人って所だな」
「呆けてる訳じゃねえよ失敬な」
「老人は事実だろう?いつまでも爺いにちょろちょろ動き回られるのは何処でだって迷惑だ」
「そう思うならお前が動き回ってくれよ若者…俺だって好きでやってる訳じゃない」
「思い切り好きでやってる事だろ。何の関係も無いのに」
「だから、若くて思い切り関係もあるお前が動いてくれたら俺は高みの見物を決め込めるんだ」
「俺が関係を感じない。よって動く必要も無い」
「出た出た。お前の親権放棄にはもう怒る気もしねえ」
「大体な、あいつももうそこまで子供って歳じゃないだろ。てめぇのケツはてめぇで拭えって話だ」
   華耶が茶を運んで来て、二人に差し出す。
「それでも最後に頼りになるのはやっぱり、お父さんだと思いますけど?」
   悪戯っぽく笑いながら言って、彼女もそこに腰を下ろした。
「俺に何が出来るって言うんだ。国同士の諍いに、ただの一農夫が」
「何か出来るならやる気はあるのか」
「ある訳ないだろ、そんなもの」
「でも心配はしてますよね?でないと燕雷さんの帰りは待ってないもの」
   図星を突かれて燈陰は閉口する。
   構わず華耶は続けた。
「私も心配するしか出来る事が無くて。朔夜は勿論だけど…龍晶さん、大丈夫でしょうか。また熱が上がってなければ良いけど」
「…それがなぁ…」
   本気で心配する華耶に、冗談でも寝込んでいるとは言えない。
「せめて、お側で看病出来たら良いんですけど」
「そりゃ朔が別の病気になっちまうぞ」
「え?」
「ん、何でもない…って、そうだ」
   突然、膝を叩いて。
「華耶ちゃん、それが本気なら…その線で行ってみるか」
「え?あ、はい、本気です…けど」
   それはどういう事かと首を傾げる華耶に、にっと笑って燕雷は言った。
「今日な、小さい王子様が求人募集してたんだよ。病気のお客を看てくれる女官は居ないかって」
「女官、ですか」
「ま、何とかなるだろ。存外、あの城は子供に甘いからな。王子様から取り成して貰えれば上手くいくやも知れん」
   そこから何かしら突破口が生まれるかも知れない。とにかくやってみなければ分からない。
   腰を浮かせた燕雷を、厳しい声音が引き留めた。
「賛同出来んな。そんな博打染みた事にこの娘を巻き込む気か」
   燕雷は肩を竦めて燈陰を見やる。
「危険は無いと思うがね」
「そんなもん分かったものじゃない。朔の縁者と知られれば立場も危うくなる」
「それでも私は行きます。そのつもりです」
   当の本人に言い切られて、燈陰は口を閉ざした。
   華耶はにこりと笑って言う。
「おじさん、言いましたよね?私ももう子供って歳じゃないんです。自分の身は自分で守ります。だから私のやりたい事をやらせて下さい。おじさんの心配だけは有難く受け取ります」
   息子と同い年の娘は、随分大人らしくきっぱりと告げて反論を摘み取った。
   朔夜、華耶、そして龍晶が齢十八となる春が近付いてきている。
「…他所の子の成長は早いって、こういう事だよなぁ」
   しみじみと燕雷が言って、やはり己の子供くらいは歳の離れた燈陰に笑いかける。
「どうするよ、お父さん?」
「別に、好きにしろ」
   湯呑みをその場に置いて、自室へと立ち去った。
   その背中を見送ってから華耶は言う。
「おじさんは優しい人ですよね?他人の私の事までちゃんと考えてくれてて」
   燕雷は笑顔のまま頷く。
「それがちゃんと解る華耶ちゃんが一番優しいんだよ」
   はにかむ彼女を見て。
   あ、これは孫と爺の会話だ…と気付いてしまって密かにがっくり来ている燕雷であった。


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