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月の蘇る
  2
   下ろされてゆく荷物に混じって、龍晶が縁側に倒れ込んでそのまま動かない。
「お前、調子に乗り過ぎだよ」
   苦笑いで燕雷が声を掛けた。
   別に調子に乗っていた訳でも好きで動き回っていた訳でもない。他に通訳出来る人間が居ないから仕方ないだろ、とはとても言えず高熱に意識が溶けてゆく。
「しょうがねぇな。黄浜、坊ちゃんの世話を頼むよ」
   心配で駆け付けた黄浜に後を託そうとしたが、それよりも適任を見つけて燕雷は声を上げた。
「あ、華耶ちゃん!おーい、頼みがある!」
   気付いた彼女が縁側を小走りにやって来る。
「燕雷さん、お帰りなさい!頼みって何ですか?」
   近付きながら尋ねる華耶にもそれが見えるよう荷物を退かしながら、燕雷が頼みを指差す。
「介抱してやってくれない?大風邪引いてる上に知恵熱出してぶっ倒れてるから」
「えっ!大丈夫ですか!?」
   本人に尋ねても大丈夫ではないからこうなっている。
「どこか静かな部屋にでも案内してくれよ。運ぶのはこの黄浜に任せれば良いから」
「お願いします」
   黄浜は少女にも律儀に頭を下げる。
「分かりました。じゃあ、こちらに」
   華耶が指し示した方向へ、龍晶を背負う黄浜が付いて歩く。
   それを見送って、燕雷はぐるりと状況を見回した。
   都の郊外にある、梁巴の民が暮らす長屋街。
   ここに暫く逗留するつもりで居る。
   大所帯が寝泊まりできる程の空間は一応有る。空き家の建具を外して一行を押し込んだ。
   梁巴の民は女性が殆どなので、野郎の集団で押し掛けるのは心配と言えば心配だが。
   まあ、戔の民にも哥の人間にもしっかりした者は居るので大丈夫だろうと思いつつ、何かあったら激怒しそうな住人を探して燕雷は歩き出した。
   馬を引いてゆく。その背には、菰に巻かれた朔夜の体。
   華耶にはこの事を言いそびれた。否、わざと言わなかった。問わせない為に龍晶の世話を頼んだと言っても過言ではない。
   元の姿で戻すと宣言したのに、この姿では約束を違えたも良い所だ。
   だが、必ずそのうち蘇る。それが何日後の事なのかは分からぬが。
   段々畑の上り坂を進むと、険しい顔で向こうがこちらを見下ろしている。
   そう言えば怒らせたままだったかと思い返しはするが、その理由は絶対的に向こうが悪い。
   何ら悪びれる事なく燕雷は声を掛けた。
「よお」
   嫌そうな顔はしているが、避けはしないのでまあ良しとする。
「何の騒ぎだ」
   問われて、そりゃ当然の疑問だよなと燕雷は頭を掻いた。
   自分だって、ここを出立した時にはこんな大人数で帰ってくるとは思いもしなかった。
「成り行き上でな。戔と哥の異文化交流を楽しみながら旅のお手伝いをしているんだ」
「あれだけ忌み嫌っていた戔の人間と慣れ合ってるのか。家族を殺された憎しみも怒りも知れたものだな」
   挑発に乗ってやれないのは、燕雷も燈陰と同じ事を考えてはいたからだ。
「まぁ、それはそれだけど。俺も自分で驚いちゃ居るんだ。仇の子孫とこんなにお近付きになっちまうなんて」
「所詮その程度だというだけだろう」
「その国ごと滅べば良いと考えるお前さんには敵わんよ。だけどまぁ、出会ったのがあいつじゃなければ俺は仇として憎しみをぶつけていたと思う。朔が繋げてくれた縁だ」
「意味が分からんな。そんな事より、あいつはどうなった」
   本題はそれだ。燕雷は馬と菰を括っていた紐を解き、荷を降ろした。
   余計な説明は止して、菰を開ける。
「…死んでいるのか」
   無感情に燈陰は問う。
「済まんな。元気なまま帰そうとは思っていたが、やむを得なかった」
「帰す必要すら無かった」
   流石に大きく息を吐いて、父親を呆れた顔で見上げた。
「もうこいつは悪魔じゃない。それでもそんな事言えるのか」
「悪魔じゃないという証拠は有るのか」
「元の朔に戻ったからこそ、これだけの大人数と行動を共に出来た。力の操作も出来るようになっている。それでも不満か?」
   燈陰の表情にはまだ疑念が蟠っている。
   言葉での説得を諦め、燕雷は訊いた。
「誰にも見られず月明かりを浴びせられる場所が有るか?」
「蘇らせる気なのか」
「当たり前だ」
   それから暫し何を考えているのか分からぬ無表情で立ち尽くしていた燈陰は、不意に背を向け歩き出した。
   当然のように燕雷は朔夜を背負い後をついて行く。
   段々畑は登るごとに小さくなってゆき、ついにまだ開墾していない山へと入って。
   燈陰は足を止め振り返った。
「俺以外誰も近寄らない場所だ。お前が何をしようと勝手だが、ここに暮らす者を傷付けるような事はするな」
「それは無い」
   燕雷がきっぱりと言い切るのを聞いて、燈陰は去って行った。
   極力関わりたくないのだろう。
   それでも、全く信じていない訳でもないようだ。自分の事も、朔夜の事も。
   月明かりの降りそうな木立の合間に菰を敷き、朔夜を寝かせる。
   まだ開墾はされていないものの、切株が点々と見える。燈陰が切ったものだろう。
   ここもいずれ開墾するつもりなのか、木材や薪を取ろうとしたのか。その本意は分からないが、日がな一日こうして誰とも関わらず山の中で過ごしているのは確かだ。
   確かに、長屋は女ばかりで居場所が無いのは分かるが。
   それにしたって、何だかなあと燕雷は考える。
   彼は今何を求め、何を目指し、こんなにも働いているのだろう。
   否、目的など無い気がする。根拠は無いが。
   ただ、己に残された茫漠とした時間を埋めているーーそんな気がするのだ。
   彼の時間もまた、止まったままなのだ。
   あの雪の中、冷たくなった愛する人を抱いていたあの時から、ずっと。

   物音に目覚めて辺りを窺う。
「あっ、ごめんなさい。起こしちゃいました?」
   蝋燭の光が眩しくて声の主は見えないが、年若い女である事は分かる。
「起きていらっしゃるか見に来たのに、それで起こしちゃったら元も子もないですよね…。いえ、あの、夕飯、食べられるかなと思って」
「あなたが華耶さん…ですか?朔夜と友人の」
   そんな気がして龍晶は訊いた。
   華耶は目を見開いて頷いた。
「あっ、はい。華耶です。朔夜の事、知っているんですか?」
「知っているも何も、あいつからあなたの事をよく聞かされたので、つい不躾に訊いてしまいました。申し訳ない。俺は龍晶と言います」
「龍晶さん。凄いお名前」
   素朴な感想にふっと笑って、龍晶は話を戻した。
「夕飯を頂いても?」
「はい、勿論。持って来ますね」
「いえ、こちらが足を運びます。案内をお願いします」
「大丈夫ですか?」
「大袈裟にしてしまって恐縮なくらいの、ほんの風邪です。もう病人扱いは勘弁願いたい所なので」
   華耶はふふっと笑って返した。
「分かります。病人って飽きちゃいますよね」
   二人で厨を目指し歩きだす。
「朔夜が私の事まで話すんだから、龍晶さんとはきっとお友達なんですね」
   直球な質問に思わず苦笑いする。
「まぁ、何というか…成り行きで」
「でもそれって凄い事です。私、朔夜の友達が出来たの初めて見ました」
「はあ…?」
「あ、私、変な事言ってますね。でもそうなんです。村には私達くらいの子供は少なかったし、居ても朔夜の事をいじめてたか、全く無視してるかどっちかだったから」
「まぁ…分からなくはないし、俺も似たようなものだから」
「そうなんですか?」
   厨に着いて、華耶は龍晶に席を勧めた。
   鍋から椀に粥を注ぎながら、彼女は訊いた。
「龍晶さんは戔の方なんですよね?」
   椀を目前に出される際、龍晶は頷いた。
「生まれてこの方、故国を出た事が無かったのですが」
「そのくらい素敵な国なんですか?」
   流石に何と答えるか悩んだ。
   何処まで話すべきか。しかし何も知らなければ、恐らくこの先も関わる事の無いであろう彼女に有りのままを言う気にはなれない。
「他の国を知らないので、そこは何とも」
   結局、有耶無耶にして流した。
「そうですよね。ごめんなさい。私も梁巴から出されるまで他の場所の事は何も知りませんでした」
「出されるって…繍に連れ去られたって事ですか?」
「そう。朔夜は何でも喋っちゃってるんですね。あ、ごめんなさい。冷めないうちにどうぞ」
   椀を勧められ、龍晶は箸を取って軽く頭を下げ、食べ始めた。
   華耶は卓を挟んだ椅子に座った。
「あいつに聞いた通りの味です。美味い」
   褒めると、華耶ははにかんだ。
「もう、朔夜ったら本当に何でも喋ってる」
「それだけあなたの事が好きなんですよ。それはよく分かる」
「やだなぁ、恥ずかしい。朔夜って小さい子みたいでしょ?恥ずかしげもなく他の人に私のことぺらぺら喋るんです。私には何にも言わないのに」
「夕日を見てにやついてましたよ。あなたの事を思い出してたってね」
「あー、もう!ほんっと恥ずかしい!」
   赤くなった顔を手で覆う華耶に笑って、龍晶は少し真顔になって口を開いた。
「朔夜があなたの事を本当に守ろうとしているし、あなたがあいつを大切に思っているのはよく分かりました。だから俺はあなたに謝らねばならない」
「え?」
   きょとんと目を見開く華耶に、龍晶は姿勢を正し、正面を向き、頭を深く下げた。
「俺はあいつを壊そうとした。何をしようと許されないのは分かっていますが」
「…どういう事…?」
   困惑した笑みで華耶は尋ねた。
   龍晶は有りのままを答えた。
「最初は俺の為に戦に巻き込んでしまった。それで大怪我をし、記憶を無くし…それでも戦に出て貰わねばならず、騙し、脅して、無理矢理戦で多くの敵を殺させた。その結果、あいつは自我を無くし、悪魔と化した。俺への復讐の為ならば何人でも殺す、そんな悪魔に」
   華耶はじっと、大きな目で龍晶に視線を注いでいる。
   龍晶は続けた。
「皓照が現れなければ俺は地獄へと送られていた。あいつの存在を踏みにじった、当然の報いとして死ぬつもりだったが…死んだのはあいつの方だった。それで元に戻ったのも事実だが…」
「朔夜は元の朔夜に戻ったんですか?」
   龍晶は頷く。それは絶対ではないが、華耶の前ではそうとしか言えない。
「なら…それで十分です。良かった。あなたが無事で」
「え?」
   朔夜ではなく自分の無事を言われるとは、心外だった。
   華耶は優しく笑って答えた。
「だって、あなたが居なければ、朔夜は悲しみます。きっと」
   朔夜の優しさの源流を見た思いだった。
   この人の側にずっと居れば、あの性格になるのも必然だろう。
「そう言って貰えると我が身も救われます」
   微笑んで、椀を空にし、手を合わせた。
「馳走になりました」
「お粗末様でした。龍晶さんは上品なお家の御曹司さんみたいですね。王子様みたい」
「そんな事は無いですよ」
   さらっと嘘を吐いて悪戯っぽく笑う。
「そう仇名で呼ぶ人も居ますけどね」
「やっぱり、見る人はみんなそんな印象なんですね!何だか普通の人じゃないような気品と言うか、そんな雰囲気があるもの」
「自分では全く分かりませんけど」
   誤魔化し笑いで席を立つ。
「龍晶さん」
   背後から呼び止められて、扉に向かおうとした足を止めた。
   華耶は真っ直ぐにこちらを向いて、言葉も真っ直ぐに言った。
「ここに来てくれてありがとう。今まで私なんかには分からないくらい大変な事もあったと思うけど、あなたが朔夜の側に居てくれた事、私は本当に嬉しく思うんです。それで…一つだけ訊いても良いですか?」
   龍晶は頷く。何を問われるのか見当は付かない。
   彼女はとても切実な声音で訊いた。
「朔夜は今、何処に居ますか…?」
   え、と小さく声を漏らす程、龍晶は面喰らっていた。
   てっきり彼女は既に朔夜の様子を見ているものだと思っていたのだ。
   燕雷ならば、まず真っ先に二人を会わせるだろうと思っていたが。
   しかし直ぐに彼がそうしなかった理由も思い当たった。
   朔夜は今、屍である事に違いは無い。
「燕雷は何か言いましたか?」
   問いに、彼女は首を横に振った。
「あなたの事を任されてから、姿を見ていません。ごめんなさい、本当は燕雷さんに訊くべき事なんですけど…」
「いえ…詫びねばならぬのはこちらです」
   朔夜の事について、彼女に対し誤魔化す気にはなれなかった。
   燕雷はそうするつもりなのかも知れないが。
「恐らく、燕雷は朔夜の体を月明かりの下に運んでいると思います」
   華耶の目が見開かれる。
   それで全てを察したようだ。
「どうしてそうなったかを聞かせて貰っても良いか?」
   開けたままだった背後の出口を男の影が塞いだ。
   驚いて振り返る。そこにあるのは、見慣れた銀髪。
「おじさん…。あ、こちらは朔夜のお父さんです」
   華耶の説明に納得して、朔夜の言葉を思い出す。父親についての印象は良くは無い。
「燈陰さんですね?朔夜から話は聞いています」
「一体何を聞いているのやら」
   鼻で笑って、燈陰は壁に背を預け話を戻した。
「この度、朔が死に至った状況を知っておきたい。聞かせて貰えるか?」
「それは…あいつの親として知っておくべきと思うからですか?」
「いや?朔が何を言ったかは知らんが、俺が何を知りたいのか察しはついているんだろう?」
「いえ、そこまでは。ただ、あいつの為にでは無さそうだという事は察しは付きます」
「無論だ。あいつが何度死のうと関係は無い。俺が知りたいのは、戦が近付いて来ているか否かだ。あいつの居る所には嵐が来るからな」
「…矢張りあいつを戦の道具にしたのはあなたでしたか」
   知らず知らず向けていた軽蔑の視線を伏せて、溜息に変える。
「信じられなかったし、信じたくは無かったけど、朔夜の言葉は本当だったようですね」
「否定する必要も無いな」
   居直る燈陰に、反対の声を上げたのは華耶だった。
「そんな事ありません!おじさんも朔夜も、村を守る為に必死だったんです!悪いのは戦をした人ですよ!」
   燈陰は他人事のように目を合わせる事もしなかった。
   代わりに、龍晶がじっと彼女を見返して、ぽつりと返した。
「それは間違い無い。朔夜も同じ事を言っていました。そして、あいつは今そういう人間に復讐する為に刀を握っている。あなたに教えられた刀を」
   語尾は燈陰へと視線を向けて言った。
「あなた方の気持ちは分かります。刀を持たせねば生き残れなかったのは事実でしょう。朔夜もそれを良しとして今まで生きてきた。…でも、俺はもう止めさせたい。刀を持つ限り、そこにどんなに崇高な理念があろうとも、誰かの命を奪う事になる。それでは戦と変わらない。そしてあいつは悪魔と呼ばれ続ける事になる」
   沈黙が訪れた。
   燈陰は相変わらず視線を宙に投げて何を考えているのか分からない。
   華耶は膝の上に置いた己の拳を見つめていた。
「…戦はここに近付いてきています。下手をすればここも戦地となるかも知れない。それは俺の責任でもあります。故国を止められない俺の非力さの。あなた方には申し訳ないと思っています」
   ぽつりぽつりと、一言一言押し出すように龍晶は口を開いた。
「朔夜はこの戦を止めようと…止めるまでいかなくとも、戔軍がこの国に入らぬよう、大軍に一人立ち向かった。命を投じるつもりで。それを分かっていて俺達は遺体を回収した。こんな方法しか取れない己が情けないと、そう心底思います。見ている事しか俺には出来ない…」
「それでも朔に刀を置けと言うのか」
「俺に言う資格なんか無いかも知れない。でも誰かが言わないと…誰があいつを止めてやるんです?」
「そんな事不可能だ」
   言い捨てて、壁に凭れていた背中を浮かせた。
   その背中に、厳しい声音で龍晶は言った。
「そうやって逃げていたら何も変わらない」
   足を止めた燈陰に、更に畳み掛ける。
「現実的ではないのは分かっています。だけど、いつかその時が来たら、刀を置いても良いんだと教えてやれる存在は必要です。それは刀を持たせたあなたの責任では?」
   燈陰は龍晶を一瞥し、立ち去る歩みを進めた。
「朔夜は人を殺す事を望んではいない」
   龍晶はその背中にもう一言ぶつけたが、もう留まる事は無かった。
   月明かりが人気の無くなった濡れ縁を照らす。
「…見苦しい所をお見せしてしまいました。勝手ばかり言い放って申し訳ない」
   背後で固くなっている華耶に龍晶は柔らかく謝った。
「いえ…。あなたの言う事は尤もです。私も目を背けてしまってた。朔夜は自分の苦しみを私に言わないだけだって分かってたのに」
   独白のように呟き、ふっと微笑んで立ち上がった。
「お茶、淹れますね」
   竃に薪を焼べ、湯を沸かしながら。
「私は朔夜が自分の望む通りに生きてくれたらそれで良いんです。戔に行く事も朔夜が決めた事だから、私が何か口を挟む事じゃないって思ってた。それは今も変わりません。だけど、朔夜が私や誰かの為にって考えて無理をしているのなら、そんな事しなくて良いよって、そう言ってあげなきゃいけませんよね。それは私の役目かも」
「…そうでしょうか」
   華耶は頷いて、悪戯っぽく笑う。
「だって、反抗期の息子さんにはお父さんの言う事、素直に聞けませんよ」
   龍晶も呆れ混じりに笑って頷いた。
「そういうものらしいですね。俺には分からないけど」
「龍晶さんは親孝行してそうな性格だもの」
「…その機会が有れば良かったのですが。肉親がもう、腹違いの兄しか居ないもので」
「えっ、ごめんなさい。失礼を言ってしまって」
「いえ、それは全然。ただ、俺はその兄に疎まれているので、父親に子供として見て貰えない朔夜の気持ちは分かります。そのお陰で俺達は気が合った部分はあるけど」
「そっか…お辛いですね」
「身の上話をするつもりでは無かったのですが」
   苦笑いして、茶の入った湯呑みを受け取った。
   燈陰に対して怒りを覚えるのは、朔夜から聞いていた話の所為だけではないだろう。
   己の不遇を重ねてしまっているから。
   兄に対してはとても抱けない怒りが、朔夜を通して燈陰に向けられているのだ。
「でもね龍晶さん、おじさんは朔夜に愛情が全く無い訳じゃないと思うんです。本当は一番心配してる。それを素直に出さないだけ。だからお互いにますます辛くなっちゃうんだけど」
「そうなんですか?」
「みんなそう思ってます。お互いに嫌ってると思っているのは本人達だけじゃないかしら。本当はそんな事無いのに」
   仕方ないとばかりに笑って、その笑みを龍晶に向けた。
「龍晶さんはどうですか?いつかお兄さんと分かり合えたら良いですね」
   きょとんと、彼女を見遣る。
   そんな事を言われた事、これまで一度も無かった。考えた事すら無かった。
   服従か抑圧か。殴られない為に、殺されない為にどうしたら良いのか。そればかりで。
   状況を知らないからこそ言えた言葉なのだろう。だが、だからと言って聞き流してはしまえなかった。
   それを望むから。
「…ありがとう」
   こんなに素直な言葉、何年ぶりに使っただろう。
   これ以外に今しっくり来る言葉が無かった。
「どういたしまして」
   茶飯の礼と勘違いして華耶は空いた食器を受け取った。
「後の事は良いから、ゆっくり休んでくださいね。病人である事には間違い無いんですから」
   華耶は笑って龍晶を厨から追い出した。
   何も言えず、濡れ縁を歩き元の部屋へと向かう。
   何か言ったら、何かをこれ以上考えたら、泣いてしまいそうだった。


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