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月の蘇る
  9
   脱いだ軍服を弄びながら、時折朔夜へと視線を投げる。
   俯せで眠る、諸肌を脱がせた背中で、傷口が弱々しい光を帯びる。
   奇跡を当然のように見遣る。そいつは当たり前のように隣に居るから仕方ない。
   普通はとっくに息絶えているであろう傷だ。
   空はまだ曇っていた。月が出ていればもう少し治りも早いのかも知れないが、贅沢は言えないだろう。
   寧ろ龍晶にとっては丁度良いと思えた。時間をかけて治ってくれた方が、また馬鹿な程の無茶をする足止めになる。
   これ以上、朔夜に自国の民を傷付けさせたくない。
   燕雷の王道の話ではないが、この国の民を守れるならば一人でも守りたい。今はそんな事を口にするのも烏滸がましい立場ではあるし、溟琴の言うような反乱が成功した後の事までは考えられないのだが。
   幼い頃自分が身に着けた王としての本能は無意味であると思う。
   反乱の成功を勿論願ってはいるが、自分が王になれるとはさらさら考えていない。
   だがそんな事とは無関係に、今、目の前の民を救えるのなら、手段は選ばない。
   そうすべきだと、確信している。
   朔夜に、もうこの場所で刀を抜かせる訳にはいかないのだ。
   軽い咳の音がして視線を戻した。
   朔夜の目が開いてこちらを見ている。
「…夜?」
   問いに頷くと、彼は唸りながら身体を起こした。
   自分で腕を回して背中を触る。傷口は塞がり切っておらず、触れると痛そうに顔を顰めた。
「まだ動くな。完治するまで寝てろ」
   龍晶の命令に首を振って、彼は言った。
「舟は来た?」
「…舟?」
「奴ら河を渡る舟を待ってた。今日にでも揃うって…早くしないと国境を超えちまう」
「もうその話は良い。状況が変わった。苴を目指す」
「はっ!?何だそれどういう事だよ!?」
「どういう事も何もお前の体だろうが」
「は?…そんな理由かよ!治ってるし、動けるのは見ただろ!?」
「治ってねえしあんなの動けてるうちに入らないだろ!」
「いやもう大丈夫だってば!」
「理由はそれだけではないのだよ朔夜君」
   揶揄う口調で燕雷が近寄ってきて朔夜の頭の上から握り飯を差し出した。
「食って頭冷やせ。食わなきゃ治らんぞ」
「だーかーら、治ってるって」
   食う事に異論は無いので素直に握り飯は手に取るが。
「理由って、何」
   かぶりつきながら訊く。
   龍晶は端的に答えた。
「兵の中に農民が居る。彼らを死なせる訳にはいかない」
「…どういう事?」
   朔夜にこの理屈は通じなかった。戦場に立ち続けてはいても、そこに居る兵がどういう人間なのかは知った事では無い。
   閉口する龍晶の代わりに燕雷が説明した。
「こいつの兄貴は今の兵数じゃまだ不足だと思ったんだろう。だが訓練済みの兵なんて数に限りがある。そういう時は農民を徴兵して狩り出すんだ。普通は国が攻められた時に仕方なく取る手だがな」
「そんなの狩り出す方が悪い」
「ああ。だがもうどうしようも出来ない。この軍とは戦うな。俺達は迂回して苴に向かう」
「いや、俺は戦う」
「は?」
   言い切った朔夜を龍晶は不信の目で見る。
「悪いけど、それは俺を止める理由にはならない。軍そのものが撤退しない限り戦う気でいる」
「彼らに刃を向けると!?農民達に罪は無いんだぞ!?」
「普通の兵だって罪は無いだろう?戦場でいちいち罪なんか問えるかよ。そこに居る以上は皆同じだ。生き残るか否かだけ」
「お前…」
   月の眼には命はどれも等しく映る。
   ここに居るのは、朔夜の筈だが。
   それは朔夜自身の理論だから、月と化した時もそれが反映されていただけなのか。
「俺には戦わなきゃならない理由がある」
   脱いでいた服を着、刀を差しながら、朔夜は言った。
「お前の守りたいものは判るよ龍晶。出来れば俺もその人達を守ってやりたいけど、今回はそれは出来ない。俺にも守りたい人が居るから」
   少し痛そうにぎこちなく立ち上がり、装備を点検して。
「誰を守るって言うんだ…この戦で」
   問う龍晶を見下ろして、朔夜は答えた。
「この軍を灌に入れる訳にはいかない。梁巴の人達…俺の同胞に、もう戦火は見せたくないから」
   龍晶は言葉を失ってただ朔夜を見上げていた。
   そんな事、考えもしなかった。
「華耶ちゃんの為でもあるか。それは致し方ないな」
   燕雷が諦めたように言って、訊いた。
「だが、華耶ちゃんの為にも、お前は生きて戻る算段は本当にあるのか?手負いのまま行かせる訳にはいかんぞ」
「…生きて…かはともかく、お前が協力してくれたら何とかなるかも知れない。とにかく陣の中を見てみないと」
   移動を始めているか否かで戦い方は全く違う。
「解った。行ってみよう」
   燕雷は頷き、龍晶を振り返る。
「お前はどうする?」
   直ぐには答えられなかった。
   勝手に期待していただけだと解ってはいるが、裏切られた気持ちで一杯だ。
「勝手にしろ」
   それだけ吐き捨てるのがやっと。
「うん、勝手にする。お前も好きなようにしたら良い」
   朔夜は答えて、闇の中へ消えた。
   困るのは燕雷だ。
「黄浜、お坊ちゃんが勝手をしないようここで待っていてくれ。俺は戻ってくる」
「あ…はい」
   お坊ちゃんに睨まれたが、それどころではなく燕雷は朔夜を追った。
  夜の森の静けさが戻る。
  黄浜は気まずく龍晶へと目をやった。
  その視線に気付かぬ程、鈍感ではない。
「心配するな。俺は何もしない」
「え…あ、はい…」
「と言うより…出来ないな、何も」
   龍晶は溜息を吐き出し、黄浜に笑って見せた。
「あいつをぶん殴ってでも張り倒してでも斬り捨ててでも…止めるべきなんだろうが…俺にはそのどれも出来ない」
「当然です。相手はただの人間ではないのですから」
「ああ。そうだな」
   木の幹に寄り掛かり、暗い空を見上げて。
「悪魔と友情を結ぼうとした俺が馬鹿だった。こんなもの、分かっていた結果なのに」
   朔夜を選ぶか、民を選ぶか。
   ずっと突き付けられてきた二択が、具現化した。
   そうはならないと何処かで逃げてきた、その付けが回ってきたのだ。
「あいつも民も、両方失う…俺が決断出来なかった罰なのか、これは」
「いいえ龍晶様、まだ間に合います」
   黄浜の力強い言葉に首を向ける。
「あなたが友と信じるのなら、言葉は届く筈です。我々も追い掛けましょう」
   じっと、黄浜を見詰めて。
   微笑んだ。
「俺は良い仲間を持った」
   立ち上がり、林の中へと歩んで行った。

   再び、陣営の見渡せるあの崖の上。
   移動は今まさに始まろうとしていた。
   荷を纏め、陣を畳もうとしている。
   河の上には何隻もの舟が浮かんでいる。
「間に合った…!」
   安堵の声を漏らし、朔夜は口早に燕雷へ告げた。
「下流で網を張っていてくれるか?息はしてないと思うけど、必ずそこまでは辿り着くから」
「おま…そういう事かよ」
   言いたい事は沢山有るが、とにかく飲み込んで。
「五体揃えて流れて来いよ。必ず捕まえるから」
「うん。頼む」
「どうやって舟に乗り込む?」
   朔夜は抱えてきた軍服を差し出した。
「これで紛れ込む事は出来るだろ。乗るのはあの大きい舟だ。頭のみを叩く」
「ほお?」
「指揮官と行動を共にするのは絶対に農民じゃないだろう?その舟に乗り込めば龍晶を裏切る真似はしないで済む。効率も良いしな」
「成る程。だが頭はいくらでも挿げ替える国だぞ?」
「それでも指揮系統はどうしても弱くなるだろ。混乱は避けられない筈だ。そこを灌軍に叩いて貰う事にする。俺の役目は今夜だけだ」
   燕雷は満足気に頷いた。
   そこまで考えられているのなら、文句は無い。
「気を付けて行け。必ず捕まえてやるからな」
   繰り返すと、朔夜は頷いて軍服を着込みながら走り去った。
   死ぬ事も作戦の中に織り込み済みなら、気を付けろと言うのも変な台詞ではあるが。
   それにしても危うい綱渡りである。
   行かせた事を後悔するだろうかと思いつつ、燕雷は立ち上がった。急ぎ下流へと向かわねばならない。
   成功を信じてやるべき事をやるだけだろう。
「燕雷!」
   踵を返した側から向かって来る面々と顔を合わせた。
「朔夜は!?」
「もう行った」
「はっ!?」
   龍晶は声を上げて悔しそうに顔を歪める。
   その理由は承知している。燕雷は説明しながら来た道を返した。
「朔はお前の願いを無駄にした訳じゃない。あいつはちゃんと考えている。ただ、それが出来る確証が無かったから言わなかっただけだ」
「どういう事だ」
   自分の前を過ぎ去って進んで行く燕雷を追い掛けながら龍晶は問うた。
「指揮官だけを襲撃するんだそうだ。船上ならそれは可能だ」
「舟に乗り込む気か?それだと逃げ場が無いだろう?」
「流れて来るってよ」
「はっ?」
「下流に網を張れと言われた。今宵はお月さんを網で引き揚げる漁だ…そんな顔するな」
   そんな馬鹿な、無茶も程がある、そもそも止めなかったのか…と、龍晶の顔に色々出ている。
「本人が息をしていない事を前提で作戦立ててんだ。覚悟決めちまってんだよ。お前の願いを裏切りたくもない、だけど自分の信念も曲げられない、その為の方法だ。俺達は信じて待つだけだろ」
「…ほんっとに…」
「馬鹿だよ。本当に優しくて残酷で愚かで賢い馬鹿だよ。だから俺は止める気にならなかった」
   そこまでまくし立てられて、もう龍晶には言葉が無い。代わりに人を変えて問うた。
「黄浜、協力してくれるか?漁師から網を借りて欲しい。あの河を覆える程の網を」
「勿論です」
「その前に軍の目に付かない場所まで急ぎ向かわねばな…!」
   元の場所まで戻り、繋いでいた馬に乗って。
   夜道を駆け抜ける。他に出来るのは、祈る事だけだ。

   ぶかぶかの軍服の下で傷が疼く。
   治っていないのは自分が一番よく分かっている。少し走っただけで息が切れるのは肺の穴も塞がっていないからだろう。
   それでも痛みを無視すれば動ける。刀を抜けば興奮と集中力で痛みなど問題にならないのが常だ。
   己の立てた計画をやり通す自信はある。
   程なく灯りが見えてきた。
   大方は解体された陣に近付いた。
   銀髪を隠す為の頭巾を目深に被り直し、何食わぬ顔で人の行き来する中に混じる。
   纏められた荷を持ち、人の流れに従って運ぶ。
   河までは少し距離がある。その間を人と馬と荷車が行き交う。
「おい、お前!」
   後ろから呼び止める声に、もうバレたのかと首を捻りながら足を止める。
   無論、しらばっくれる気で居るが。
   呼び止めた兵は荷車を引いて隣に立った。
「重いだろう?ここへ乗せろ」
   正体を追及されるどころか、思ってもみない親切だった。
「良いの?ありがとう」
   示された所は確かに丁度良く空いている。
   そこに荷物を乗せ、朔夜は荷車に並んで歩いた。
「お前、こんな所に来るには小さ過ぎるだろう。幾つだ?」
   兵の言葉に何とか表情を崩さずに答えた。
「十…四」
   わざと少なめに答える。自分なりに外見相応にして怪しまれない為なのだが。
「へえ?もっと小さい子供かと思った」
「えー…そんなに子供じゃないんですけど」
   流石にここまで言われると我慢ならず言い返す。
「済まん済まん。だが十四でも十分子供だ。親は居ないのか?」
「父さんは居るよ。畑を耕しても家族みんな食えないから、三男坊の要らない俺がここに来たんだ」
   出任せだが、農民の子供にありがちな事情だ。
「成程なあ。 まあ、この先何が起こるか分からんからな、要らない三男坊でも必要とされる事になるやも知れん。くれぐれも生きて帰れよ?」
「戦に来てそんな事言うの?」
「勿論だ。命が無けりゃ何にもならないだろ。報奨を受け取る事も出来ん」
「おじさんは軍の人?」
   発想は農民のそれだが、仕草や装備は訓練された兵のようでもある。
「おじさんのつもりは無いが」
「あ、ごめん。お兄さん」
「田舎の子っぽいなあ」
   笑われ内心で、山育ちには間違いないからなと毒付く。
「俺はれっきとした軍の一員だよ。だが、軍の人間だからって忠誠心ばかりで動く訳じゃないって事だ。子供にこんな事言っちゃいけないかも知れないけどな」
「だから、そこまで子供扱いするな。世の中綺麗事ばかりじゃないのは知ってるよ」
「ほー?田舎の子供の癖にこましゃくれてるな」
   言い返したいが燕雷や龍晶とのように戯れている場合ではない。
「お兄さん、一つお願いが有るんだけど」
「うん?」
「ここで一番偉い人に会いたいんだ。教えてくれない?」
「ほお、どうしてまた」
「父さんに、お世話になる人にはきちんと挨拶しろって言われたから」
「はは、そうか。成程な」
   的を確かめておきたいのだが、嘘に説得力が無かったらしい。
「そのうち判るよ。今は大将も忙しいだろうしな」
「それはそうだろうけど、顔も知らないんじゃ粗相しちまうかも知れないし。遠くからでも良いから教えてくれよ」
「あー、それは有り得るな。じゃあ遠目でな」
   何とか約束を取り付けた時には河に着いていた。
   舟に荷を運び入れる担当の者に荷車を引き渡し、兵は朔夜を連れて歩き出す。
   事前に目星を付けていた大きな舟、その前で彼らは立ち止まった。
「ほら、あの人。一人だけ鎧が違うだろ?」
   実用性の高い兵達とは違い、装飾の施された豪華な鎧を身に付けた男が取り巻きと話をしている。
   髭面の大男だ。
「うわぁ…怖そう。知っといて良かったぁ…」
「だろ?下手な真似はするなよ?」
「うん、気をつける。ありがと」
   本当に下手な真似は出来ない。
   体力勝負では確実に負けてしまう。しかも今は手負いだ。まともに切り結べば体が持たない。
   かと言って力を使い過ぎても体力が持つかどうか怪しい。舟の中で倒れる訳にはいかないのだ。
   どうにか逃げて、水中に飛び込まねば。
   その前に、まずは舟に乗り込む事だ。
「おい、行くぞ」
   空いた荷車を受け取って、兵は来た道を戻ろうとして朔夜を誘った。
   これ以上同道する訳にはいかない。
「あ、俺こっち手伝うよ。重い物は持てないけど、掃除なら出来るから」
   舟の中を指差して告げた。
   船内に運び込まれた荷を点検し、拭き清めている一団が居る。
「そうだな。お子様には持ってこいの仕事だ。粗相するなよ」
「しないよ!」
   手を後ろ手に振りながらその兵は戻って行った。
   これ以上一緒に居ると、情が湧いてしまう。戦えなくなる。
   本当はここに居る誰もが敵だ。
   朔夜は目的の舟に乗り込んだ。
   誰もが忙しく動き回っている。他人を気にする者など居ない。
   適当に箱を持ち、それを運ぶ振りをして船室に入る。
   階段を降り、同じような箱が積み上げられた一角を見つけ、隙間を探して体を滑り込ませた。
   明かりの無い室内で、音さえ発てねば存在を知られる事は無いだろう。
   息を殺し、出航の時を待つ。
   何処へ向かう舟出だろうか。
   対岸には華耶の待つ灌がある。しかしこの舟も自分もそこには辿り着けないだろう。
   向かうのは、地獄か。
   ただ死だけが待つのみか。
   俺は何処へ向かうのだろうーー
   どれだけ待ったか、ぎしりと舟全体が軋む。
   数多の運命と共に、舟が動き出した。

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