月の蘇る 9 確かに違和感はあった。 それまでの彼と付き合いが長かった訳ではないので、そんなものなのかと見過ごしていたが。 こんなに急に、持て余していた破壊の力を自在に操れるようになるものなのか。 それも、本人は当然のように使っている。 壬邑で力を失ったあの時、あれ程思い悩んでいたのが嘘のように。 今の朔夜はあの時に比べれば、何処か淡白な、そんな印象を受ける。 龍晶にとってはその程度の、そんな小さな違和感だ。それが燕雷に言わせれば『悪魔のまま』だと。 その理由を、彼は語りだした。 「以前のあいつは襲撃してきた敵の急所を外して撃退し、その後自ら治癒していた。殺す必要は無いと言って」 「…へえ」 有りそうな話だとは思った。 力が使えないと解りながらも、兵を見殺しに出来ず戦地に舞い戻るあいつなら言いそうな事だと。 「それが宿屋や昨日の晩はどうだ。変な言い方だが、殺し方に容赦が無さすぎる」 「確かに」 どの屍を思い出しても、あまりにも無惨だ。 「確かに手心を加えられる状況でも無かったが…。だけどその後も自分のした事に無関心と言うか」 「朔夜は人を殺す事を嫌がっていた。同時に後悔もしていた」 龍晶は言い切った。 それは記憶を失った純粋な彼を見ていて思い知った。 恐らくそれは記憶を失う前もそうだったのではないか。 人の本質は、そう簡単に変わらない。 「燕雷、お前の言いたい事はこういう事だろう?今の朔夜は、人の命に対して以前のような執着が見られない。つまり、他人なら死んでも良いと思っている」 「…俺はそこまでは言わないけど」 「言い方云々じゃないだろう。実際そうだ」 「お前が怒ってるのはそれなんだろう?」 指摘されて、言葉に詰まった。 それでも燕雷は更に詳らかに問うてきた。抱えている丹緋螺に目を落として。 「こいつの治癒を簡単に諦められたから怒ってるんだ。もっと続けていれば治せたとでも?」 「…そんな事は思っていない。可能かどうかはあいつにしか分からない事だ」 「そりゃそうだけどな」 だが、燕雷の指摘は事実だ。 過去の朔夜との比較など問題ではない。ただ、昨夜の態度が素っ気なく感じられて、それが重傷を負った仲間に対するものなのかと。 冷静に考えれば朔夜にとって丹緋螺は偶々同道するようになった関係に過ぎない。互いに何者なのかも知らない。 龍晶は、自分の主観を朔夜に押し付けてしまっている事が怒りの一因なのだと分かっている。だから表には出したくなかった。 しかし苛立ちは朔夜にも見て取れるだろう。 ずっと、何故、と自問している。 何故こうなったかーー事実を直視すれば、全て自分の所為だ。 それを考えたくないから、朔夜の所為にしようとしている。 罪悪感が吐き気になる。 元々前屈みだった姿勢が腹這いになり、馬の鬣に顔を埋めた。 「おいおい、大丈夫か」 前は見えなくとも馬は勝手に進む。 鬣の中で龍晶は頷いた。 「休む間は無いぞ」 少し顔を起こして燕雷の方に向く。 「分かってる。置いて行け」 「だからそれは出来ないって…」 「丹緋螺を頼む」 言い切られてしまって、ずるりと馬から落ちた。 仕方ない。 「朔夜を急ぎ戻らせるから、それまでここに居ろよ。絶対に拉致されるなよ」 沈んだ頭が頷く。 彼の馬を近くの木に括り付け、燕雷は馬に鞭打って駆け出した。 道の脇、木の根元に横たわって虚ろに地面を見る。 何故、丹緋螺があんな目に遭わねばならなかったのか。 警告はした。俺の側に居るだけで命懸けだと。 その言葉通りになってしまった。 解っていた事なのに。 そこまでして、守られねばならない自分ではないのに。 どうして他人を傷付けてまでーーまたその問いが浮上するのだ。 犠牲者は増える一方で、守られた自分は未だ何も報いられずに居る。 「もう…嫌だ」 何度目の吐露だろう。 何度、これを繰り返して。 全ては、自分が生き永らえてしまったから。 生きている限り、誰かを。 見上げる草花が風に揺れた。 さらさらと音をたて、それは通り過ぎた。 その向こうの青空。 空っぽで。 どれくらいそうしていたか、人影が道の向こうから目に入って我に返った。 朔夜では無さそうだ。来た道から来る。 ただの通行人だろうか。それならそれでこの状況を不審がられるだろうから面倒だなとぼんやり考える。 実際は、そんなに呑気な事態では無いだろう。歩き方で判る。 あれは、軍人だ。 楽観を辞めた所でどうする事も出来ない。 抵抗出来る術が見当たらないのだ。 その理由も見当たらなかった。 燕雷には悪いが、理由と言えば彼らに行方を捜させてしまう事くらいしか思い付かない。 手間を掛けさせてしまって悪いな、と。 何処か他人事のように迫る危機を迎えた。 「龍晶殿下とお見受け致します」 取り囲んで、白々しく確認してくる。 反応せず転がったまま覗いている面々を見上げていると、腕が伸びてきて四肢を掴まれた。 「運べ」 無情な命令が下る。 ぽつりと、頬に冷たい雫が落ちた。 運ばれながら、俄かにかき曇る空を見た。 やがて断続的な雨が落ちてきた。 なす術もなく縄を掛けられ、背負われて、行きたい方向とは反対に進んでゆく。 雨風は激しさを増していった。 濡れるままに。 どうせこのまま死にゆくだけだ。 皆と同じ場所に行くだけの事なのだから。 一陣の風が吹いて。 閃光。 同時に轟音が全てを劈いた。 わっ、という男達の驚きの声。 驚きの余り、体は地面に投げ出されて。 めきめき、と木の軋む音。続いて地面を揺らして雷に撃たれた大木が倒れた。 悲鳴。何人か下敷きになったようだ。 阿鼻叫喚の様相を、愕然と目に入れる。 不幸中の幸いに、木は燃える前に豪雨で鎮火した。しかしそれは下敷きにされた者の寿命が少し延びただけだ。 混乱の中、雨音の向こうから蹄の音が近寄り、近くで止まる。 「龍晶!」 久しぶりに感じた、温度のある手が泥の中から体を引き起こした。 朔夜の顏。 「偉い事になってるな」 言いながら、短刀で縄を切る。 大木の下から仲間を引き出していた兵達が、招かれざる客に気付いて声を上げた。 「馬に乗れるか?」 問われても、それを考える事が出来ない。 全てが混沌として、物事が見えない。 豪雨の中のこの光景のように。 「仕方ない。片すか」 朔夜は元通り龍晶を泥水の中に寝かして立ち上がった。 両手に刃を持って。 待ってくれ、と懇願する声が雨音の向こうから途切れ途切れに聞こえた。 敵は相手が何者なのか知っているのだろう。 恐怖で裏返る声。 この後の惨状が、朦朧とする脳裏に閃光のように映し出された。 大木の下で重傷を負った者。彼らを救い出す筈の者達は、無惨に斬り刻まれて。 ぞっとする。 生きている人間の運命に、そんな悲劇があって良いのか。 命乞いの声が届く。 龍晶は出ない声を振り絞った。 「やめろ、朔夜…!」 朔夜は。 動きを止めた。 ゆっくりと振り返って。 笑った。心臓が凍り付くような笑みで。 「そんな甘い事、通用すると思うか?」 地面を蹴って、雨水が撥ねた。 龍晶は叫んでいた。叫びながら目を瞑り、耳を手で固く固く塞いでいた。 何も知りたくなかった。 刃が空を切る。 塞いだ手と、雨音の向こうから、異質なーー思ってもみなかった音が届いた。 恐る恐る、目を開ける。 斬られていたのは、木だった。 誰もが信じられないという顔つきで、一人を見ていた。 軽くなった木の下から這い出た者、仲間に手を引かれて出された者たちが、ぽつりぽつりと同じ言葉を口にしだした。 「神だ」 悪魔ではない。 人を救う、神なのだと。 その当人はさっさと踵を返し、龍晶の元まで戻るとその手を取って引っ張った。 引かれるままに立ち上がり、よろけながらも肩を借りて歩き出す。 何か言葉を掛けるべきかと思ったが、その力は無かった。 朔夜もまた、何も言わなかった。 二人で騎乗し、町に向けて進み出す。 雨で冷え切った身体に、寄り掛かかる朔夜の温度が沁みた。 冷酷でなど無かった。 今も、あの澄み切った宝玉がある。 神の作り出した宝玉が。 「…丹緋螺かな」 ふと朔夜が呟いた。 「あいつが、お前を助ける為に雷さまになったのかもな」 随分おとぎ話染みた話だが、そうかも知れない、と。 そうであって欲しいと思った。それで、凍て付いた心が温まるから。 判っていた。 あの吹き抜けた風と共に、彼はこの世界から去って行った事を。 町に戻り、丹緋螺の埋葬を終えた燕雷と合流した。 通り雨は去って西日が射し始める。 しかし一度奪われた体温は戻らず、無論衣服も濡れたままで、龍晶は酷く震えながら意識を無くしていた。 「とりあえず、宿を探さないと」 応急処置として毛布で包む燕雷に朔夜が言う。燕雷とて同じ思いだ。 とにかく手近にあった屋敷の戸を叩いたが、反応は無かった。 その隣家も同じで、二人して虱潰しに戸を叩いて回る。 十軒近く走り回って、やっと朔夜が叩いた戸が開いた。 「…何でしょうか」 初老の女性が戸惑う表情で問うた。 「一晩泊めて貰えないかと思って。病人が居るんだ」 燕雷が背負う龍晶に視線を向ける。 「頼む。雨に濡れて身体が冷えている。早くどうにかしてやらないと」 相手は表情に怯えを混じらせ、口早に言った。 「無理です。すみませんが家にはお泊め出来ません、お引き取りください」 閉めようとする扉を慌てて抑える。 「なんで!?頼むよ!早くしないとこいつ…!」 「朔夜!やめとけ!」 叫ぶ朔夜を燕雷が窘めて、扉から引き剥がした。 「怖がらせてどうする。次を当たるぞ」 「どの家も無理よ」 扉の僅かな隙間から住人が忠告した。 「国に逆らう事は出来ない」 「…何だって…!?」 燕雷は扉に近寄り、板越しに彼女に訊いた。 「教えてくれ。どうして俺達を泊める事が国に逆らう事になるんだ?」 「軍人が触れて回っているわ。見知らぬ者と関わってはならないって」 「何故」 「国に楯突く罪人がこの町に来るかも知れないと言われた。支援した者は同罪になると」 先回りされたか、と燕雷は舌打ちした。 軍は自分達の動きを把握し始めたようだ。恐らく目的地が西にあるという事も判っているのだろう。 朔夜に目をやると、彼は真顔で、扉の前に再び立っていた。 「龍晶は罪人じゃない」 朔夜は言い切った。 「この王子様はな、弱い立場の民の為にこうして命棄てる覚悟で動き回ってんだ。どうしてこんな奴が罪人だって言えるんだよ?悪いのは俺たちなのか、国なのか、頼むからよく考えてみてくれ。あんたの未来の為に」 「…朔」 何が朔夜にこれを言わせるのか、燕雷は知らない。 ただ宿泊を頼む為の説得ではない。 龍晶を救う為、そしてそれ以上に、この国の理不尽に怒り、新たな世を引き寄せる為に。 この国の一人一人に、同じ台詞を説くのだろう。 「…俺は見た。誰もが見て見ぬ振りをする貧民街の人たちを、こいつは一人で救おうとした。こいつだけは、死なせちゃならないと思った」 朔夜は呟くように彼らに教えた。 耳元で苦しい呼吸をしながら眠る龍晶を、燕雷は微かに揺さぶった。 出来る事ならば、起こして朔夜の言葉を聞かせたかった。 互いに大きく傷付いた末に変わってしまったと諦めていたが、実はそうではないのだと。 教えねばならない。大事な事は、何も変わってはいない。 「…西の丘の麓に社があります。無人の社ですが、旅の人が泊まれるようになっております」 戸の向こうから、細い声が聞こえてきた。 「そこをお使いください。お役に立てず申し訳ありません」 朔夜は一歩、扉から退いた。 是非も無かった。 「分かった。ありがとう」 踵を返し、馬に乗って。 首を巡らすと、夕日の影で黒々とした小高い茂みが確かに有る。 「大丈夫か?」 燕雷が支えて馬に乗せた龍晶の様子を訊く。 「相変わらずだが…急ごう」 背中から闇夜が迫ってきている。 言われた通り、丘の麓に社はあった。 外見は簡素な作りだが、それなりに大きい。 正面の扉を開ける。夕暮れの山影に覆われ外も相当暗いが、中は更に暗い。 ぽっかりとした空間。奥には御簾に隠された神域があり、左右にはいくつか引き戸がある。 その一つを開けると、厨が現れた。 「とにかく湯を沸かそう。井戸もある」 燕雷が土間の囲炉裏の横に龍晶を寝かせながら朔夜に指示する。 自らは囲炉裏に火を入れた。まだ龍晶の体温は戻らない。 暫くして、沸いた湯を飲ませようと、燕雷が龍晶の身体を抱き上げて起こす。 薄く目が開いた。 何かを問う眼に、燕雷は頷いて呼び掛けた。 「大丈夫だ。ほら、飲め」 温かい液体を体内に流し込んで、震えは収まってきた。 濡れた衣服を剥ぎ取り、代わりに毛布を巻き付ける。 「燕雷、これ」 後ろから朔夜が布団を抱えて持って来た。 「納戸に納めてあった。いつでも旅人が泊まれるようになってるんだな」 「この辺りは信仰の篤い土地だからな。巡礼の旅人が多く立ち寄るんだろう」 「そうなんだ」 会話しながら布団を敷き、改めて龍晶を寝かせる。意識は既に再び落ちていた。少しは落ち着いて眠ったのだろう。 「燕雷はこの国が嫌いだったんだろ?」 その癖、そんな細かいことをよく知っている。 「嫌いだよ。だが、それとこれとは関係無いからな。俺はこの国の生まれだから色々知ってるだけで」 「え?そうなのか?知らなかった」 「ま、大昔の話だからどうでも良い事だ」 「そんなものか?俺は何年生きても絶対、生まれ故郷がどうでも良いとは思えない」 「そりゃお前はな、特別だろ。俺はどうでも良いんだ。つまらん事だよ」 「…ふぅん」 あまり詳しく聞き出す事も躊躇われて、曖昧に返事した。 その間に燕雷は荷物の中から食糧を取り出し、湯の煮える鍋に入れた。 「久し振りに温かくて柔らかい物が食えるな。有難い事だ」 野宿している間は携帯食の乾飯など日持ちのする物ばかりを食べていた。 「燕雷、食い物はまだ有る?」 「それだ」 朔夜の問いに振り向く。 「そろそろ調達せねばと思っていたが…」 「難しいだろうな。この先はもっと」 行く先々で軍が村人に規制を掛けていたら、物を売り買い出来なくなる可能性がある。 「先を急がなきゃならないが」 視線は龍晶へ。 「ま、明日の事は明日考えよ?心配ばっかりしてても仕方ないや」 朔夜が明るく言い放って、燕雷は意外な面持ちでおう、と返した。 夜は穏やかに更けていった。 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