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月の蘇る
  7
   気が遠くなる程長い夜だった。
   否、捕虜となった砂漠での夜を思い起こせばこのくらい何とも無いかと思い直す。
   あの時は朝が来る事に何も希望を見出せなかった。今は希望を待つ事が出来る。
   ただ、身体の痛みだけは厄介だった。何度も気が遠退く。その度に縛られた掌に爪を押し当てて傷を作る。
   眠ったら終わりだと思った。根拠は無いが、その向こうには死が待っている気がする。
   新たに縛られた口の中は、時折腑の中から上がってくる血で満たされている。王ではなく、この身体に殺されそうだ。
   丹緋螺が啜り泣いている。視界に入らないのでその音だけを聞いている。
   俺はまだ死んでないのにな、とそれが不満だ。
   敵は寝台で寝転ぶ者や、苛々と外を窺う者、扉にぴたりと身体をくっつけて待つ者と三者三様だ。
   その開け放った窓の向こうの闇が薄らいできた。
   何かの諦めと共に夜明けが近い事を知った。
「限界だ。行くぞ」
   いよいよ担ぎ上げられる。もう抵抗は出来ない。体力的にも、精神的にも。
「こいつはどうする」
   別の男が丹緋螺を指して問う。
「始末して行け」
   無情な声が答えた。
   堪らず龍晶は声を振り絞った。
   やめろ、そう言いたかったがくぐもった声にしかならない。
「懲りない奴だな」
   担がれ逆さまになった頭を殴られる。流石に意識が飛びかけた。
   刃が飜るのをどこか夢のような感覚で見て。
   扉を叩く音で正気が帰ってきた。
   男達も動きを止める。緊張が走る。
「龍晶?寝てるか?」
   扉の向こうの声。確実に燕雷のもの。
「こんな時間に済まんが今着いたんだ。開けてくれ」
   すぐにでも返事がしたかったが、声を出す事は憚られた。
   敵は今にも丹緋螺を斬れる態勢にある。
   龍晶を担いでいる男は部屋の奥に戻った。
   手の空いている男が扉に手をかけ、刀を抜く。
   そして。
   扉を開いた。そこに確実に居る新手に向けて刀を振り下ろす。
   龍晶は血の気が引いた。燕雷が、斬られた。
   そう、見えた。
   が、吹き出した血は燕雷の物では無かった。
   斬りかかった敵が倒れる。
   残る者は驚きはしたが焦る様子も無く、恫喝の声を上げた。
「止まれ!こいつを斬るぞ!」
   部屋に足を踏み入れた燕雷は動きを止める。
   丹緋螺に、そして龍晶にも、刀が突き付けられている。
「こいつは分が悪いな」
   燕雷が刀を下ろす。
   その向こうに。
   龍晶は見た。
   否、目が合った。
   あの、懐かしい色の瞳と。
「っうあぁぁぁ!!」
   男の咆哮に近い悲鳴。
   丹緋螺に刀を向けていた、その腕が無くなっている。
   それは重い音を立てて床に落ちた。
   次の瞬間、その声も止まった。
   丹緋螺の足元に首が落ちてきて、彼は小さく叫んだ。
   男の手中にあった龍晶は、目前の首が吹っ飛ぶのを目撃した。
   首どころか、五体全てが血飛沫と共に吹き飛んでいた。
   残った身体と共に血の海に投げ出される。
「うっ…ぐっ」
   腹を打ち付けた衝撃で、これまでに無い量の血を吐いた。
   それは他人の血の中に混じり、生温く全身を濡らす。
   気持ち悪くても、流石にもう動く気力体力が無い。
「龍晶!」
   駆け付けてきた燕雷に仰向けにされ、口を塞ぐ布を取り払われる。
   喘いで、やっと自由になった呼吸を繰り返す。
   血の海から引き摺り出され、手足を縛っていた縄を切って貰い、五体を床に投げ出して。
   燕雷は丹緋螺の縄を切りに動いた。
   そして視界に入ってきた。
   己を見下ろす冷たい目が。
「…朔夜」
   声にならず、呼気だけで名を呼ぶ。
   反応は無い。じっと見下ろすだけで。
   背筋に冷たいものが走る。
   朔夜では無いのだろうか?
   未だ彼は月なのか?
   自分を助けてくれたと喜ぶのは間違いかーー
   今から、仕留められる?
「朔夜」
   丹緋螺から視線を移した燕雷が緊張した声で呼ばわった。
   月は刀を抜いていた。
   その無感情な瞳。
   また、魅入られる。
   その魅惑に全てを忘れて。
   そうしているうちに、地獄に送って貰える。
   がつ、と。
   龍晶の頭のある直ぐ脇に、刃は突き立っていた。
   見れば、朔夜はその場にへたり込んで座り、肩で息をしている。
   その肩を、燕雷が背後から抱えていた。
「落ち着け。大丈夫だ。こいつはお前の友人だろ」
   どうしようも無いくらいに身体が震えている。
   何度も頷いたのか、ただの震えか、それも分からない。
   そんな二人から目を逸らし、龍晶は目前に突き立っている刀に手を伸ばした。
   仰向けのまま、手の届くその刃を直接掴む。
   掌に痛みが走ったが、体内の痛みを紛らわすだけだった。
   床の木材に浅く突き刺さっているだけのそれは、僅かな力で簡単に抜けた。
   その柄を、朔夜に向ける。
   何も言わなかった。
   彼の顔も目に入れなかった。
   殺すならそうしてくれれば良い。
   ずっとそのつもりで居る。
   暫くあって、漸く刀は手から離れた。
   その瞬間、受け取る側の震えを感じて。
   何を恐れる事が有るのだろう。
   俺が憎いのだろう。分かっている。
   復讐の悦びに震えるのなら、それで良い。
   だが、恐れる必要など無いではないか。
   俺たちは二人とも、
   罪びとだ。
   かちり、と。
   刀が鞘に収まる音がした。
   信じられない気持ちでそれを聞いた。
   すかさず、燕雷の声がした。
「それで良いぞ。偉かった。朔夜、やっと帰ってきたな」
   わっ、と。
   火のついたような泣き声。
   その合間に、しゃくり上げながら、ごめん、と。
   何度も繰り返すそれを夢現に聞きながら、龍晶は闇に意識を溶かした。

   目覚めると、変わらぬ場所で、燦燦と日光の射し込む中。
   項垂れて枕元に座る朔夜が居た。
   部屋にあった血は全て拭われていた。無論、屍も無い。
   それでも良い気分のするものではない。実際、血の匂いは染み付いている。
   朔夜は龍晶の動きを感じて、恐る恐る顔を上げた。
   まさに怯える子供のそれで、龍晶は口元で笑ってしまう。
   それでも悄気返る顔に変化は無かった。
   龍晶はそっと重たい腕を布団から出し、朔夜の膝に掌を乗せる。
   動いても腹部の痛みはそれ程でも無い。和らいでいる。
   朔夜は膝に乗せられた手を恐々両手で取った。
   そして彼は呟いた。
「…まだ、自分が何なのか、分からなくてさ」
   龍晶は黙って独白を聞いた。
「俺は俺で居るつもりでも、いつの間にか他のものに意識を奪われてる。俺は俺のつもりのまま、お前を……殺さなきゃって…」
   そこまで言って、急に何かにまた怯えた顔をして、龍晶の手を布団の中に押し入れた。
「ごめん、龍晶。駄目だ。俺に触れたら駄目だ。こうやって油断させて、俺はまた、お前を…」
「俺はまだ殺されてやってないからな」
   幾ばくか高圧的に龍晶は返して、そして鼻で笑った。
「悪魔になってもお前はお前だ。だから俺を殺す事も出来ないんだろ。優し過ぎてな」
「龍晶…」
「謝るべきは俺だ。悪かった。そんな思いさせて」
   真顔で、正面から目を見て、龍晶は詫びた。
「俺は償うつもりだ。お前からお前自身を奪った事を。何をしてでも」
「そんな事…」
「俺を殺して気が済むならそうしてくれ」
   驚いた顔を見せ、しかし直ぐに朔夜は項垂れた。
「殺したくないよ。ないけど…お前にそう言わせるような事を、俺はしてしまったんだな」
   力無く、立ち上がる。
「やっぱり俺、消えなきゃ」
「待て」
   呼び止めて。
   何を言うべきか迷った。何を言えば友の悲しみを和らげてやれるのか。
   分からない。友など今まで居た事が無かった。だからこんな時何を言うべきか知らない。
   分からないから、心の中の言葉がそのまま口をついて出た。
「お前に側に居て欲しい。俺はお前を頼っているんだ。だから、消えないでくれ。生きてくれ…どんなお前になっても」
   殆ど背中を向けた横顔。
   微動だにしなかった。
   あまりに反応が無くて、龍晶はじわじわと後悔した。
   こんな剥き出しの言葉、伝えるべきでは無かった。
   逆に傷付けたのか。気持ち悪がられたか。
   また何か言えばそれを助長させそうで、それ以上言葉を継げないまま、ひたと視線だけ向けて。
   朔夜は、やっと息を吸い込んだ。
「良いのかな、龍晶」
   自信無げに、少しだけ振り向いて。
「俺、もう少しだけお前を居場所にしても良いのかな…」
   龍晶は、笑って頷いた。
「良いぞ。俺が雨宿りの屋根にでもなってやる」
   朔夜もやっと、笑った。
   それは永遠ではない。そんな事は分かりきっている。
   いつか終わりは来る。永劫の時を生きる者からすれば、そうでない者の生など瞬く間の事だろう。
   それでも、自分がもし永劫を生きても、このひと時は絶対に永遠に忘れ得ぬと。
   朔夜はそう信じた。龍晶の変わらぬ友情と共に。
「おお、気が付いたか」
   燕雷が入ってきて、龍晶の様子を確認し声を上げる。
   一緒に入ってきた丹緋螺も嬉しげな声を上げた。
「仲直りは出来たようだな」
   朔夜の表情を見て、燕雷は揶揄い混じりに言い、続けて龍晶に問うた。
「で、気分はどうだ?動けそうか?」
「大丈夫だろう。何せ朔夜が治してくれたんだろ?」
   え、と彼は小さく声を漏らした。
   そして決まり悪そうに言った。
「ごめん、俺…何もしてない」
「えっ?」
   てっきり朔夜が治療を施してくれたお陰で痛みが和らいだのだと思っていた。
「傷なら治すよ。今からでも」
   ああ、と龍晶は納得する。
   あの状況で自身の身体に何が起きたかなど、朔夜に知る術は無い。
「腹の中の傷が開いたみたいだ」
   あまり悪魔の行為を思い出させてもいけないと思って言葉少なに説明する。
   すると朔夜は首を傾げた。
「中だけ?外傷は?」
「それは…」
   あの時お前が自分で治したんだろう、と。
   口には出来なかった。
「俺、触れる場所なら治せるけど、中は…。そりゃ、毒の時は偶々上手くいったけどさ」
「あ?ああ…」
「自信は無いけど、やるだけやってみようか?」
「いや、それには及ばない。大丈夫だ」
   違和感を視線にして燕雷にぶつける。
   彼は何も気づかなかったようで、何食わぬ顔で言った。
「ああ、昨日お前が朦朧としている間にちょっと感覚を鈍くする薬を飲ませたんだが、そいつがまだ効いてるのかもな」
「何だ、薬のお陰か」
「だから傷自体はまだ治ってないだろうよ。それで動く訳にもいかんだろうが…」
   言い淀む燕雷の言葉尻を攫って、龍晶は自ら決定を言い渡した。
「もう行かなきゃならない。こんな所でいつまでも油を売る訳にはいかないだろ」
「まぁ、そういう事だが…」
「俺は何日こうしていた?」
「二日目だよ。俺達がここに来たのが昨日の朝方」
「早く移動した方が良いな。追手も増える」
   言いながら、起き上がる。
   身体に力が入らない。腕を支えにして無理矢理半身を起こす。
「大丈夫か」
   脇に居た朔夜に背中を支えられ、そのまま床に足をついて立とうとした。
   が、駄目だった。
   痛みが走る。足の力が抜けて座り込む。
「龍晶、やっぱり俺に治させてくれよ。出来るかどうかやってみなきゃ」
   朔夜に言われ、頷くのが精一杯。
   寝台に戻され、上半身の衣服を緩めて患部を晒す。
   朔夜は戸惑ったように訊いてきた。
「何処だ?傷痕も残ってないんだな」
   龍晶は確信した。
   こいつは、悪魔であった時の記憶を持ってはいない。
   ならば、そのままにしておきたい。
「腹の辺り一帯だ。中は全部襤褸襤褸になっている」
「どうしてそんな酷い事に」
   言葉に詰まって、どうにか嘘を用意した。
「王や、その取り巻き連中に殴られた所為だと思う。いつの間にか内臓が裂けてたんだ…俺もその時の事は気を失って覚えてないけど」
「うわ…大変だったんだな。俺が側に居ればそんな事はさせなかったのに」
「ああ…間が悪かったよ。これからは頼むな」
「うん、任せろ」
   朔夜は何の疑いも無く微笑んで頷いた。
   龍晶は微笑み返す事など出来ず、天井を見詰めていた。
   腹部に朔夜の手が触れる。随分冷たい手だ。
   目を閉じ、その掌と己の呼吸だけを感じている。
   例え、本当にこの苦痛の原因を忘れられていたとしても。
   朔夜を責めるつもりは元より無い。況してや、その資格など己には無い。
   そもそも彼は忘れているのではない。元よりその記憶が無いのだ。
   そう、頭では分かっている。
   頭では。
「…悪い、やっぱり駄目だ」
   朔夜の声で目を開く。
   彼は落胆した表情で手を離した。
「気にするな。駄目で元々だろ」
   龍晶は襟元を直しながら言った。
   そして燕雷に目を向ける。
「その薬はまだ有るか?あと、丹緋螺」
   一歩下がって様子を見ていた少年に声をかける。
『出立する。支度を頼む』
   彼は頷いて自分達の荷物を纏め始めた。
   その彼も何処か表情が冴えない。
「この体で馬に乗る気か?」
「他に術は無いだろう」
   燕雷に問われ、至極当然の如く返す。
   今度は倒れないよう用心しながら立ち上がり、彼らに告げた。
「俺の体なんかに構っている場合じゃないだろう」
   燕雷は難しい顔をしていたが、何も言わず支度を始めた。
   その日、日暮れ近くなってから、一行は出立した。

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