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月の蘇る
  7
   微熱を持て余して、龍晶は床から窓の外を眺めている。
   鍬を振るい、苗を植えてゆく男達。その農作業の音と、二つの言語、時折笑い声。
   麗らかな秋晴れ。暖かな日差しと、冬の近さを思わせる冷たい風。
   嘘のように平穏な日々。
   もう何日目だろう。数えようとして、真っ暗に記憶の中で口を開ける洞窟を思い出し、止めた。
   名前と共に過去は捨てた。
   そして何も見えぬ未来。それを考える事すら出来ない。
   ただただ、穏やかな風のように時間が流れてゆく。
   このままで良いとは思えなかった。しかしだからと言って何も出来ないし、どうすべきか考える体力も無かった。
   枝から離れた葉のようにここで朽ちてゆく予感と、いつかは追手にこの平穏を崩されるであろう恐怖と。
   漠然と未来に対して考えられるのは、それだけだ。
   人の近付いてくる気配に、思考を現実に戻す。
   上半身を起こして相手を待ち受けていると、二人の男がこの小屋に入ってきた。
   一人は桧釐。もう一人は彼の仲間だろう。
「殿下…じゃなかった」
   早速睨まれて桧釐は言い直す。
「どうにも慣れない。大目に見てくださいよ黄葉さん」
   更に呆れの込められた眼を向けられ、桧釐は笑いながら頭を掻いた。
「何用だ?」
   やれやれとばかりの溜息を吐いて、龍晶改め黄葉は問う。
「報告です。…あ、そうだったこの言葉遣いも駄目だった…。報告…だ」
「良いから普通に喋れよ」
   自分で注文した事だが、ここまでぎこちなくされるといっそ煩わしい。
「ではお言葉に甘えて」
   待ってましたとばかりに流暢になる。
「民を近隣の村に逃がした仲間が、宗温と繋ぎを取って来ました。彼は今、我々を探しているようです。俺は今から彼の元へ行って、この村に迎えようと思っています。味方は多いに越した事は無い」
「それはそうだが…」
   言い淀む理由を桧釐に目で問われる。
「宗温は俺達の手助けをしてくれていたとは言え、軍の一員には違い無い。その彼をここに連れて来るという事は、軍での立場を全て捨てさせるという事だ。間者とさせたいなら別だが」
「何を仰いますか。彼は引き続き俺達の味方で居たいと言ってくれるからこそ引き入れるんですよ」
「ここに来て望みはあるか?」
   悪魔を逃がした失態はあるとしても、軍に居続ける事は可能だろう。
   その方が、未来は保証される。ここで先の見えない生活を送るよりは。
   それも重々解った上で、桧釐は口を開いた。
「あいつは己の身の保証よりも、俺と同じく正義を求める男です。腐った軍に居続けるより、あなたの側に仕えたいと考えている筈。あなたもそういう男だと知っているでしょう?」
「やめてくれ。俺は正義なんかじゃない」
   桧釐の言葉を遮って、龍晶は言った。
「間違いを犯し続けた為に、ここへ追い詰められたというだけだ。国や軍が正義だとは言わないが、俺も正しいとは言えない。何も確かな事は無いんだ。だから宗温にはよく考えるよう伝えてくれ。来てくれるのは嬉しいが、俺はもう空蝉も同然だと」
「…よく考えろというのは俺も同意ですけどね」
   それ以上の言いたい事は胸の内に仕舞って、桧釐は共に来た男の肩を叩いた。
「そうそう、この蓉等(ヨウトウ)の話も聞いてやって下さいよ。みんな言葉で苦労してるんでね」
   自分よりは二、三歳は年上らしい青年に龍晶は視線を移す。
   素朴な顔立ちに泥を付けて、農作業用のほっかむりがよく似合う。
「では、お尋ねさせて貰います。その、今菜っ葉を植えている所なんですが、霜で苗が全滅しないよう覆いを作りたいのです。それを哥の言葉でどう説明したものか、あなた様にお伺いしたいのですが…」
「成程、それは難しいな」
   微笑んで、龍晶は考える。
「桧釐、何かに書いてやろうと思う。筆と、紙か何か持って来てくれるか?」
「ええ、木片で良ければ」
   貴重品の紙は、この辺境の地では手に入らない。
   用意された木片に、霜、苗、と単語を並べて。
   全滅、という言葉に、思わず筆を止めた。
   哥の人々を、全滅させた。
   あの戦。否、悪魔の所業。
   俺はそれを望んでいた。あいつを悪魔にする事。あの無惨な殺戮を。
   戦の勝利の為に。同胞を救う為に。あいつ自身を逃す為に。何より、己が生き残る為に。
   その結果が、あの血に染まった井戸。
   彼はーー自分達を救ってくれた馬卑羅(マヒラ)は、あの井戸の中で今も無念を抱き続けているだろう。
   彼が死なずに済んでいれば。
   あの陣の中で、自分も朔夜も死んでいれば。
   あれからの、悪魔の作り出した地獄が脳裏に浮かんでは消える。
   全て、自分達が生き残ったという過ちから起こった事。
   悪魔の出現を望み、生み出した、己の罪。
   何が正義だ。俺に正しさなど無い。
   あるのは、己が死に切れなかった代わりに作り出された夥しい数の屍ーー
「殿下?」
   訝しむ桧釐が呼び掛ける。
   途端に、錯綜した記憶は怒りとなった。
「それは止めろと言っているだろう!俺は死ぬべき人間だったんだ…!俺は…」
   息が切れ、手から筆が落ちた。
   頭を抱える。割れそうな程痛い。
「黄葉様…すみません。覚えの悪い奴で」
   面食らった桧釐が謝った。
   頭を抱えたまま、ゆるゆると首を横に振る。
「いや、悪いのは俺だ…」
   息を落ち着けて、恐る恐る、顔を覆っていた手を離す。
「全て枯れると書こう…良いか?それで」
   蓉等に問うと、彼は何度も頷いた。

   桧釐は心配そうな顔をしながらも行ってしまった。
   歩いて半日はかかる道でもあるし、宗温に考えさせる暇を与える為、今夜中に帰ってくる事は無いだろう。
   人の息吹は近くにあるのに、孤独な夜だった。
   宗温はどんな結論を出すだろうと考える。
   自分が願っているように、考えを曲げてくれる事は無いだろうとは思う。
   願っているのだろうか。また会いたいとは思うが。どちらの決断を喜ぶべきかも分からない。
   桧釐はこの先をどう考えているのだろう。味方を増やすとは、俺を守る為にだけだろうか。それとも。
   否、明白だ。ここに集まっている、または集められている連中の目的は一つ。
   国に楯突く事。
   自分はその為に掲げられる旗印。
   だから生かされる。空蝉となっても。
   そうして蜂起した果てにーー否、そこまでは考えたくない。
   悲惨な未来に眼を瞑る事だけが、今出来る事。
   過去も未来も自分には残されていない。
   あるのは悪夢だけ。
   ぎし、と。
   床がきしむ音に息を飲み、身を固くする。
   誰かが入って来た。こんな時間に、この小屋に入って来るなど桧釐しか有り得ないのだが、そんな筈は無い。
   心臓が早鐘を打つ。息を殺して、存在を気付かれぬように。
   祈る。早く何事も無く去ってくれ、と。
   桧釐で無ければ、そこに居るのはーー
『お前は何者だ?』
   思いがけぬ哥の言葉に、きつく閉じていた瞼を開けた。
   悪魔ではない。この小さな里の住人だ。
   一息ついて、龍晶は半身を起こした。
『お前こそ、何をしに来た?許可無くここに入る事は禁じている筈だ』
   桧釐を通じて、彼の許可無しにはここに入れない事にして貰っている。己の存在を周知されたく無かった。
『禁を破ってでもお前の正体を知る必要がある』
   相手の答えを訝しんで、とにかく暗闇で対面するのも気味悪いので枕元の燭台に灯りを入れた。
   漸く相手の顔が見える。
   四十代ほどの、痩せ型の男。
   その男の方が、龍晶の顔が見えた事に大きな意味を持ったらしい。
   目を見開き、今度は顔を顰め何かを思い出すような表情を見せ、最後に呟いた。
『矢張りお前か』
『…分かったか。壬邑の地下牢以来だな』
   ここに居る哥人は皆、あの地下牢から出した捕虜だ。
   自身の顔を覚えられていても不思議は無かった。
『我々の言葉を解する人間が来たというので、貴様ではないかと思っていた。問いたい事がある』
『何だ?』
『我々をどうするつもりか』
『…どうする、とは?』
『何のつもりか捕虜たる我々を殺さず、ここで飼う理由は何だ?土地を与え畑を耕させ、まるでここに定住させようとしているようだが』
『その通りだ。お前達にはここの住人になって貰いたい。それに不満が?』
『無論、殺される所を生かされたのだ、感謝している者も居る。衣食住全てを与えられ、生きてゆくには不満は無い。だが俺は納得出来ん。お前達に飼われるくらいなら、故郷に帰りたい。待っている家族がいる。その自由を与えられないなら、我々は上部を飾られた奴隷だ』
   不意に、龍晶は鼻で嘲笑った。
『何が可笑しい』
『いや…お前が可笑しい訳じゃない』
   嘲笑を収めると、口許に自嘲が僅かに残った。
『上部を飾られた奴隷か。俺と同じだと思って』
『同じだと?何処がだ。お前は恐らく上流階級の倅だろう。奴隷を使役する側の人間だ。一体我々の何と同じだと言うんだ』
『いかにも、俺はこの国の前王の倅だよ。奴隷になどなる筈の無い立場だった。だが、現王が即位してからは…彼の奴隷だ。王族という飾りを与えられただけの、王の玩具だよ』
   龍晶は男に向け、あんたは俺よりマシだろうと問う笑みを向けた。
   そして独白を続ける。
『解るか?夜毎に薬を飲まされ、訳の分からなくされた頭で嬲られるんだ。言う事を聞かねば血を吐くまで殴られる。ある日を境に俺は人間として扱われなくなった。奴隷の方がまだ良いかも知れない。何度も死にたいと思った。…でも、死ぬのも怖かった。生きても地獄ではあったが』
   深く、深く息を吐いて、男に告げた。
『知りたいのなら教える。あんた達は、俺の復讐の為にここに連れて来た。王を…この国の王、硫季を、倒す。その反乱軍の一員となって欲しい』
『お前の為に戦えと言うのか』
『ああ。嫌なら逃げるか?それも良いだろう。今の俺には追う事も出来ないからな』
   遠巻きに龍晶を見、動き兼ねる男に微笑んで、問うた。
『急に自由を与えられても持て余すよな?俺もそうだ。今や俺は反逆者となり、王に服従する必要も無くなった。なのに、あの人から逃れられた俺は俺じゃない気がして…どうして良いのか分からない』
『復讐を願う相手なのに?』
『変だよな。殺したい相手だけど、俺は彼を殺せる気がしない…。その前にきっと、向こうが俺を見つけて殺すだろうな』
   そこまで言うと、寝台から出て立ち上がり、外套を羽織った。
『何をする気だ?』
   問われ、ふうと息を吐いて。
『ここから逃げる』
『お前が?何故?』
『共に来てくれるか?哥までとは言わない。ここから一番近い街道まで。軍の連中に見つかる場所なら何処でも』
『…殺される気か』
   頷く。口許に微笑を宿したまま。
『何故だ?』
『ここを奴らに見つけられる訳にはいかないから。俺が出て行けば、奴らは探索を止める。ここに残るお前の仲間は、ここで一生穏やかに暮らすだろう。奴隷だとしても、それに越した事は無い。そう思わないか』
   男の答えを待たず、龍晶は小屋の扉を潜った。裸足で、寝間着の上に外套を羽織っただけの格好で。
   男が戸惑いながらも後に続く。
   夜の山道を歩く。
『貴様は狂人か?尋常だとは思えない』
   男に問われ、龍晶は声を出して笑った。
『どうやったら狂わずに済むと思うんだよ?普通は狂うよ、こんな人生』
   解っていた。己の異常をずっと客観的に眺めていた。それこそ異常だった。
『変だよな。今まで誰にも言わなかった事を、どうしてあんたに教えたんだろ。捨てようとした過去を、何で今になって、何の関係も無いお前に』
   自分でも分からない。
   だが、そこには諦めがあった。
   もう終わらせて楽になりたい、その前に誰かに全てを話しておきたいという諦めと願望。
   吐いてしまえば、これまで己が溜め続けた鬱屈が嘘のように、身が軽くなった。
『お前、名は?』
『狂人に名を教えて良い事になるとは思えない』
『それもそうだな。でもまぁ、冥土の土産に良いだろう?』
   胡散臭いという顔で見られたが、彼は名を教えてくれた。
『旦沙那(タンサナ)』
『…懐かしい響きだ』
   哥の名前。馬卑羅と同じ響き。
『ずっと昔はな、俺は哥の人々と仲良くなろうと考えてた。そうしたら戦をせずに済むから。だから、言葉を知ろうと思った…』
   戔の戦の相手は、大抵の時代は哥であった。
   言葉の違い、文化の違いから、和解される事無く今日まで至った。
   それを、幼い頃の自分は変えようと本気で思っていた。
『今日やっと、望みに向けて一歩だけ進んだよ。哥の友人が出来た』
『お前は…』
   旦沙那は言葉を飲んで、選び直し、言ってやった。
『お前は、心根の優しい馬鹿者だな』
   龍晶は笑った。心から笑えた。
   終わらせると決めると、何もかも清々しかった。

   街と街を繋ぐ主要路を眼下に置く、壊れかけた祠。
   ここまで山を降りれば里は見つからぬだろうと、龍晶はその小さな屋根の下に腰を下ろした。
『ここまでだ』
   旦沙那に告げて、片手を差し出す。
   彼は、その手を握り返してくれた。
『俺には関わりない事ではあるが、お前が死ぬ理由が分からない』
   握手の手を離しながら、旦沙那が問う。
『何の為に、誰の為に死を選ぶ?殺したい相手に己を殺させる理由が皆目分からない』
   壊れそうな壁に寄りかかって、龍晶は相手を見上げた。
   仄かな、諦観から来る笑みを浮かべて。
『俺も分からない。ただ、疲れた』
   昼間にはっきり知った事がある。
   自分はもう、過去の悪夢から逃れる事は出来ない。
   何処へ行こうが、何をしようが、己の内に住み着いた悪魔に心身を蝕まれてゆく。
   そうと分かれば、もう逃げる事すら無意味で。
『ずっと誰かの為に生きようとしてきた。もう良いんだ。自分の為に死にたい。休みたい』
   旦沙那は、少年をじっと見下ろした。
   あの地下牢で初めてその姿を見た時から、憎むべき相手だと今日まで過ごしてきた。
   刺し殺してでも己の自由を奪い戻そうと、今宵近付いた。その筈だったのに。
『旦沙那、頼みがある』
   最後に、龍晶は彼を仰ぎ見て口を開いた。
   もう、その眼は朦朧として、焦点を結んではいなかった。
『何だ?』
『無事哥に戻って、家族に会って欲しい。それが俺の願い』
   それを言うと、頭を支えていた首をかくりと前に落とし突っ伏して、あとは呼吸音だけ。
   持てる力を全て使い果たしたような様だった。
『何故…』
   問うても、もう何も返らない。
   敵国の、あの忌むべき戦を起こした憎むべき男。
   悪戯に運命を弄び、自由を奪って異国まで連れて来て。
   その、同じ人間が、故郷に帰る事を願う。
   理解出来なかった。出来ないが、一つだけ分かった。
   彼は、捕虜である自分に自由を与える為に、里を抜け出しここまで来たのだろう。
   数多いる捕虜の中で、自分一人の故郷に帰るという願いを叶える為に。
   愚か者だった。
   ならば一人ではなく、あの里に連れて来た全員の願いを聞いてやるのが筋なのに。
   よりによって、たまたま今宵殺そうと近付いた自分を選ぶとは。
   まさしく、心根の優しい馬鹿者だった。
   理解など出来よう筈が無かった。相手は狂人だ。
   過酷な人生と夥しい死の上に産まれた、あまりに優し過ぎる狂気。
   旦沙那は一歩、壊れかけた祠から退いた。
   もう彼は動かない。蹲って眠っているのか起きているのかも分からない。
   中身を抜かれた空の人間。
   未来を棄てた人間。
『…じゃあ、な』
   別れを告げて、背を向ける。
   木々の隙間から、朝日が差し込み始めた。


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