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月の蘇る
  11

 ――これで良かった、否、こうなるより無かったんだ。
 朔夜と於兎は苴軍の陣の外へ向かって疾走していた。
 囲まれた際、群集から切り抜ける為、一瞬『力』を見せ付けた事で、活路は開けた。相手が恐怖に戦いた隙に、何とか最低限の距離は稼げた。
「貴様ら、あの悪魔をみすみす逃がす気か!?」
 行く先から聞こえる声。朔夜は舌打ちする。
 孟柤だ。
「逃がすな!さっさとしろ!」
 闇の中、兵士達が行手にはだかる影が見えた。
 一例に並び、道を塞いで跪づく。
 朔夜の耳に届いた、弓弦を引き絞る音。
「…行け、於兎」
 低く、しかし切羽詰まった声で彼は言った。
「俺が奴らを引き付ける。お前が巻き込まれる必要は無い」
 後ろから聞こえたのは、意外にも、怒声。
 それも朔夜に向けられたものではない。
「ちょっと!!あんた達!!」
 目前で弓を構える兵士達、そして孟柤に向けて叫んでいる。
 思わずぎょっとして朔夜は振り返った。
「なんで私達を殺そうとする訳!?こんなお子様があの将軍サマを殺したと本気で思ってるの!?」
「お前、何言って…」
「そんな訳無いじゃない!!この子は千虎に指一本触れてないのよ!!私が見てた!」
 苦い顔で制止しようとしていた朔夜は、その言葉を飲んだ。
 千虎を殺したのは紛れもなく俺なのに。
 だけど。
 殺したくなかったのも、紛れもなく俺だ。
「必死の命乞いなんだろうが…無駄だ」
 孟柤の声。
「そやつの正体を我々が知らぬとでも?女、お前が知らぬなら教えてやろう。そやつは指を触れずとも人を殺める悪魔だ。死を悪戯に操る死神だ」
「そんなの…馬鹿げてるわ!」
「やめろ、於兎」
 食ってかかる於兎を後ろに押しやって、朔夜は孟柤に言った。
「お前には千虎の事なんざ関係無いんだろう?俺を殺して手柄が欲しい、違うか?」
 孟柤はふんと鼻で笑う。
「そんな事は無い。邪魔物を消してくれた事はお前に感謝しても良いと思っている」
「邪魔物!?あんたそれ千虎の事言ってるの!?味方に向けて…最低ね!!」
 叫びまくる於兎を邪魔そうに更に後ろへ押してから、朔夜は孟柤を睨んだ。
「分かってるよ…俺が貴様の望みに手を貸した。だから孟柤、貸しは返してくれよ。この女は黙って逃がせ。お前が殺したいのは俺一人だろう?」
 孟柤は考える間も無く、兵士達に命じた。
「撃て」
「孟柤!!」
「甘いな、悪魔よ」
 放たれた矢の雨。
 現実より遅く、目前に迫る。
 ――約束。
 逝くべきなのは、俺だった。
「朔夜!!」
 於兎が耳元でつんざく様な悲鳴を上げた。
 抱き留める手。億劫な視線を動かせば、歯が鳴る程に震える女の顔が間近にある。
 分かっている。背中の鈍い痛み。否、本当は身を刔られる耐えられぬ程の鋭い痛みなのだが、それを感じる事が出来ない。
 意識ではない自我が遠くなる前に、朔夜は囁いた。
「先、行ってろ」
 於兎の答えも知らず、朔夜は身を翻した。


「…これが、悪魔の成す業か」
 蘇る意識で遠い声を聞いた。
 笑いの混じる孟柤の声。嘲笑や冷笑の類ではない。
 目前の事態が受け止められなくて、壊れた感情が声を引き攣らせるのだ。
 朔夜は醒めた目で辺りを見渡した。
 累々と転がる、屍。
 将一人が、そこに立っている。
「…孟柤」
 視線を落としたまま、呟く。
「もう十分だろう。これ以上お前の国の傷を広げる前に、退け」
「馬鹿馬鹿しい…手負いの獣に命じられる程、我々は被害を被ってはいないぞ…。千虎などは居ない方が余程…」
「殺されたいのか!!」
 明かにびくりと身体を震わせて、孟柤は一歩下がった。
「行け…。もう、俺に構うな…」
 見開いた目で朔夜を捉えたまま、孟柤はじりじりと後退していたが、追われる事は無いと判ると、背中を向けて走り去った。
 その愚昧な様を鼻で笑うと、背中の痛みが一気に押し寄せてきた。
「いっ…つ」
 痛みに加えて、肉体の疲労が身体を地面に吸い寄せる。
 また意識が遠くなる。痛みは薄れるが、あまり歓迎は出来ない。
 恐らくこのままでは、そこらの死体の仲間入りをしてしまう。
「朔夜!!」
 呼ぶ声。於兎だ。
「朔夜!!」
 消えそうな意識を振り絞って、朔夜は応えた。
「於兎…!」
 微かな声と僅かな動きでも、命無き静寂の中だからこそ目を引いた。
 於兎が駆け寄ってくる。
 挙げた手を、掴む。
 死から引き上げられ、その地獄から離れて。
 もう、自ら命を手放す事も、贖罪も、千虎との約束も、朔夜の頭には無かった。
 無意識に、だが絶対的に、生を掴み直すべく、藻掻く事を選んだ。
 誰もがそうする様に。
「…もう、大丈夫だろ…」
 身体を支える於兎に告げて、そこに俯せる。
 深い森の中。真夜中の、押し潰されそうな濃い闇。
 その中へぽっかり開いた空間。柔らかく注ぐ、月明かり。
「朔夜…大丈夫…死なないでよ…!?」
 死ぬか、馬鹿。小さく悪態を付いて、呼気だけで言った。
「矢を、抜いてくれ」
 えっ、と於兎は戸惑いの声を上げる。
 背中に深々と刺さった矢は、戦いの中で半分程の長さに折れているが、まだ身に突き立ったまま。
「抜いて…このまま放っておいてくれ」
 いいの?と於兎は震える声で訊いた。
 多量の出血は、彼女でも容易に想像出来る。それが命に関わる事も。
 更には、鏃を引き抜く時の、想像を絶する痛み。
 全くの素人である自分が抜く事で、その痛みは増幅されるだろう。
 そんな優しさから来る躊躇を知ってか知らずか、朔夜は舌打ちした。
「お前しか居ないんだ。…早くしろ」
 その悪態ぶりに多少カチンと来た勢いで、於兎は矢に手をかけた。
「…知らないからね!」
 言って、一思いに。
 引き抜いた。
 強く歯を食い縛っているのだろう、くぐもった絶叫、しかしそれは不意に途切れた。
 於兎は手元に残る厭な感触を振り払う代わりに矢尻を投げ捨て、震える手で少年の銀糸を掻き分けると、耳元の脈を確かめた。
 動いている。
 ほっと於兎は息をついた。止まりそうなのはこっちの心臓だ。
 朔夜は痛みの限界の為に気を投げ出しただけだ。そもそも動いた後の睡眠時間でもある。
 しかし於兎が安心したのは束の間で、目前の傷口から流れ出た血液が、見る間に面積を広げていく。
 止血しなければ危ないのは素人目にも明白だ。
 だが、どうやって。
 思い付くのは血の脈を縛って止める事だが、傷はほぼ心臓の真裏だ。どこを縛れば良いかも解らないし、効果も疑わしい。
 とにかく傷口を押さえてみようと思い立ち、手巾を取り出してふと思い出した。
――このまま放っておいてくれ。
 まさか、その意味は、何もするなという事ではないか?
 はっとして、血に濡れた衣を剥ぎ取った。動かない身体を支えて、肌に吸い付く布を脱がすのはかなり難物だったが、夢中だった。
 ようやく現れた傷口。
 痛々しい様を覚悟して目を向ける。だが、予想だにしない光景がそこにはあった。
 闇の中に、怪しく浮かび上がる、燐光。
 傷口付近が、青白い光に包まれている。
 蛍の様な微かなものだが、確かに。
「…何、これ…」
 不気味と言えばそうだが、恐くは無い。寧ろ、魅入った。
 これが、“月”の所以なのだ。
 この光は、月の光。
 だとすれば、美しいのは道理だ。
 それは、月が傾き、山の端に沈むと同時に、すうっと消えた。
 そこにはもう、少し赤い、腫れ程度のものしか無かった。


 たっぷり一日半眠り続け、少年は漸く目覚めた。
 しばらく横たわったままぼうっと考え、ここは何処だったか、今まで何があったか、思い出した。
 眩しい程の日の光。正午か、その前後だろう。
 半身を起こして首を回す。ついでに肩も。射られた箇所は、もう痛みすら無い。
 一人だった。
 気を失うまで共に居た女は、今は居ない。
――当たり前だ。
 逃げない筈は無い。あんなものを見て。
 人は、人であって人ならざる者に、生理的に恐怖を抱く。
 責める気も、恨む気も無い。
 逆に、逃げない方が朔夜にとっては恐ろしいのだ。
 また、自分の意に反して誰かを――
「…もう…いい。どうでも…」
 面影が脳裏にちらつき、払拭したくて呟いた。
 もう終わってしまった事だ。何を悔いようと、己を責めようと。
 脇に置かれた短刀。
 日の光の下で見ると、意外に凝った作りだった。
 鞘に彫られた虎。
 アイツの為の刀だったんだと、ぼんやり思った。
 抜くと、血錆と歯毀れが目立った。
 あの夜のせいで。
 これで約束を自ら果たせば楽だろうか、と。
 斬れない刃を首に当てた時、背後で声がした。
「馬鹿な事はやめなさい!!」
 於兎が、必死な顔で、朔夜の手から刀を奪おうとする。
 何故か取られたくなくて、手に力を込め反抗する代わり、朔夜は叫んだ。
「そっちこそ馬鹿な勘違いしてんじゃねぇよ!!」
 驚吃して於兎は手を緩める。
「ちょっと…ふざけただけだ」
 言葉とは裏腹に、顔は、泣くのを我慢する子供の様だった。
 見捨てられてなかったなんて、これっぽっちも思ってなかったから。
 力無く、刀を持つ手をだらりと地に付ける。
「…斬れるか、こんな刀で…」
「……」
 於兎も言葉無く刃を見つめていたが、急にぱっと顔を起こした。
「水。喉乾いたでしょ?」
 そこに投げ出していた竹の水筒を引き寄せ、朔夜の鼻先に突き出した。
 受け取ると、その辺に散らばった荷を次々と引き寄せては少年の前に積んでいく。
「その辺に生えてた木の実を集めたの。なかなかいける味よ」
 於兎の言動に唖然としていた朔夜だが、暫くしてぽつりとぼやいた。
「…案外逞しいな、お前」
 於兎が笑う。
 つられて朔夜も少し、笑った。
 夜は明けた。全ての哀しい事実を押し流して、光が差し込む。
 それは、心まで完全に届きはしなくとも。
 昇る陽に、悲しみを諦めに変える事は出来る。
 今まで幾度もそうしてきた。
 結局、生きるしかないから。
「朔夜」
 少しずつ果実をかじり始めた少年の頭を撫で、於兎は言った。
「このまま、どこか逃げようか」
 朔夜は手を止め、無表情で於兎を見上げた。
 が、その視線を少し横に逸らす。
 於兎の後ろ。
「何…?」
 視線の不自然さに気付いて於兎も後ろを窺おうとした時、聞き慣れぬ男の声が降ってきた。
「苴軍追撃に出る。来い」
 黒づくめの、昼間にも係わらず濃い影のような男。
 於兎は息を飲んで凍り付いた。
 言っている事から察するに、繍軍の忍だ。
 ――見つかった。
 望みは、口に出した途端に潰えた。
 於兎は朔夜を振り返った。
 どうするのかと目で問う前に、彼女は信じられないものを見、聞いた。
「分かった」
 立ち上がった朔夜は、そう言った。
 そして、男の方へ、踏み出す。
「待って!!」
 思わず於兎は叫んだ。だが、続く言葉の前に、男は無感情に彼女へ口を開いた。
「西へ向かえ。道がある。そこへ馬車を用意した」
「繍に帰れって言うの!?」
「何喚いてんだよ」
 背を向けたまま、朔夜が言った。
「あんなに帰りたがってたじゃねぇか」
 愕然と。
 大きくはない背中を見上げる。
「…朔夜」
 顔は見えない。
 どんな顔をしているのか、何を考えているのか、全く――読めない。
「いいの…?」
 血に汚れ光を鈍くした銀糸が少し揺れた。が、振り返る事は無かった。
「…まともな刀が無い。予備くらい準備があるよな?」
「無論だ」
 淡々と男と会話しながら、戦へ向けて遠退いてゆく。
「千虎の望みを踏みにじる気!?」
 於兎は禁断の問いを叫んでいた。
 が、虚しく梢に響き渡るだけで。
 背中は、遠く、過ぎ去っていった。


 主将を失った苴軍はたったの三夜で禾山を明け渡した。
 恐らく追撃も予測していなかったのだろう。そもそも苴兵の士気は戦どころの話ですら無かった。
 副将、孟柤はあの夜を境に兵達の前に現れず、悪魔に恐れをなして一人都に逃げ帰ったと噂された。
 率いる将を失った苴軍の瓦解は早かった。が、一部の兵だけは異様に粘り、繍軍を苦しめた。
 朔夜は彼らが千虎の部下達だと分かっていた。分かっていて一夜のうちに殲滅した。

「…俺に、復讐したかったんだよな」
 身に滴る鮮血を、月光に照らして。
 一人、生きる。墓場の如き戦場に。
「…悪い…」
 翻す身に、抜かぬ短刀が一振差されている。
 その鞘には、虎の彫刻がなされていた。




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