月の蘇る 3 流石に痛かった。 龍晶は容赦せず蹴ってきたようだ。骨が折れたとは言わないが、ちょっとすぐには動けない痛みだ。 それでも朔夜は這うようにして牢に入った。 「おい!お前…本当に入らなくても」 後ろから桧釐が驚き慌てる声を上げたが、制止にはならなかった。 牢の中で仰向けに転がる。 決して気持ちの良い場所ではない。 「俺が入りたいって言ったんだ」 「そう聞いたけど、だからって」 「良いよ。ここが俺の居場所だから」 幾許か語気強く言って桧釐を黙らせる。 心配してくれる気持ちは嬉しい。だが、問題は自分ではない。 「桧釐は早く…龍晶の所へ行って、あの人達を助けるべきだ」 「捕虜を?」 「俺のせいで死なせちゃいけない」 桧釐は動かなかった。動く動機が無かった。 「…忘れろって言っただろ」 桧釐にとって、捕虜は捕虜だ。助ける理由など無い。 「それを聞かなかったからこうなった?」 「ああ。お前は余計な事をしたよ。彼らにとっても」 朔夜は仰向けのまま唇を噛んでいた。後悔させるには効き過ぎる一言だったろう。 桧釐まで辛くなって堪らず口を開いた。 「お前は優しいよ。それはよく分かっているし、だからこそ俺はここでお前に無駄口も叩くんだけどさ。だけど、優しさは必ずしも正しいとは限らない。お前はそれを覚えた方が良い」 「じゃあ、どうすれば良かった…?」 殆ど掠れた声で朔夜は訊いた。 「俺には分からない。どうして怪我した人を放っておくのか。死にそうな人を助けてあげないのか。それが正しいの?元々敵だから?牢の中の人だから?…分からない。正しいとは思えない…俺がおかしいの…?」 桧釐は溜息で答えを遅らせた。 時間を稼いで考えても傷付けぬ言い方など無いと割り切り、口を開く。 「理屈なんか捏ねるな。お前は何もしないべきだった。敵の事より、味方の為になる事を考えろ」 朔夜は口を閉ざした。 天井をぼんやり眺めている。 桧釐がここに居る事の無意味を感じ始めて立とうとした時。 聞こえるか聞こえないかの、囁き声が聞こえた。 「もう…嫌だ」 余程無視してやろうと思った。が、二度目とあらば出来なかった。 ここで無視して行ってしまうのは、あまりに無責任な気がして。 つい聞き返した。 「何が」 朔夜は聞こえていたのかと言う顔で桧釐を見、少し考え、つっかえながら答えた。 「…敵とか味方とか…そういうの、嫌だ。もう誰も死んで欲しくない。戦が嫌だ」 だんだんとはっきり、大きくなる心からの声。 桧釐は完全に足を止めた。 もう無視出来なかった。 「そんな事を言って良いと思ってるのか?」 「知らないよ!分からない!駄目だって言うなら桧釐だって俺を殴れば良い!でも俺は間違いだとは思わない!」 記憶を無くしてから、初めてこんなにも激昂する声を聞いた。 無論、殴ろうなどとは思わない。これ以上何か言って考えを改めさせる気も失せた。 従順な子供だと思っていたが、違った。 これは、北州の反乱に対して決して首を縦に振らなかった、あの朔夜だ。 この意思の固さは、記憶を無くしても同じだった。 「何故そう思う?」 そこまで言うのならば根拠を聞いてやろうと思った。 朔夜は一度言葉に詰まって、そして言った。 「だって…龍晶のやってる事は…奴らと一緒だ」 「奴らって?」 「え?」 「哥の奴ら?」 朔夜は口を開けたまま答えられない、と言った風で桧釐を凝視していた。 違和感を感じながらも、桧釐はもう一度問う。 「お前が捕虜になった時、乱暴してきた哥の連中じゃないのか?」 朔夜は答える言葉を失って、牢の外の桧釐を見詰めるだけ。 違う。頭の中ではそう答えている。 だが、何が違うのか分からない。 今し方自分が何を思い出していたのか。 ただ、感覚として残っているのは。 顔に叩きつける、雨の冷たさ。 ーー俺は誰も救う事は出来ない。 この絶望は? 一体何処から。 「桧釐殿」 呼ぶ声に階段側を振り返る。 宗温がこの場に戻って来た。 「殿下よりお話があるようです。後ほど参られた方が良いですよ」 「何だ。お呼びって訳じゃないのか」 宗温の口振りでは急ぎの用では無さそうだ。 だが、用件が読めない。先刻の事と関わりが無いとは思えないが、ならば叱言か。 「俺にお守りされるのが嫌になったか。御役御免の通達かもな。北州へ帰れってか」 「なんだ。お分かりじゃないですか」 「…何だって?」 冗談のつもりが冗談じゃない。 流石に顔色を変えた桧釐を取り成すように、宗温は得意の穏やかな笑みを向けて事務的口調で付け加えた。 「殿下は大層お疲れのようなので、気にはなるでしょうが少し時間を置いて聞かれた方が宜しいですぞ。詳細は私の口からは申せませぬ」 「…お前な」 ならば気にさせる言い方をしないで頂きたいものである。 「朔夜殿、傷は大丈夫ですか?」 宗温は取り敢えず桧釐の事は置いておいて鉄格子の向こうの朔夜へと向き直った。 「え?」 こちらはこちらで頭の中の整理に手一杯で人の話を聞いていない。 宗温は牢の前に屈んで再度訊いた。 「大丈夫ですか?」 「あ、うん。まぁ」 見た目からも大丈夫と言える範疇かは怪しいが、取り敢えず普通に話は出来るので問題は無い。 「ここに居た人達は?」 何よりもの問題はそこだ。 宗温は顔色を変えずに答えた。 「彼らは処刑されます」 「本気で言ってるのか?」 朔夜の顔が剣呑になってきても、宗温は眉一つ動かさず頷いた。 「殿下の命令です。君も聞いたでしょう?」 「だからって…そんなに簡単に…!」 「それが戦です。殿下は君にそれを教えようとしただけ。お恨みめさるな」 「俺のせいだって解ってるよ!解ってるけど…でも、解りたくない。間違ってるのは龍晶だ」 きっぱりと言ってはならぬ事を言い切る。 宗温は振り返り桧釐と目を合わせた。 彼は軽く肩をすくめる。 どうしようも無い、と。 「ならば暫しここに居て頂きましょう。殿下のお考えを理解できるまで」 そう言われても尚、朔夜は絶対に自分は考えを曲げる気は無いという顔をしている。 宗温は立ち上がり、わざと聞こえる声で桧釐に言った。 「捕虜の処遇は貴殿に任されるようです。何でも北州へ連れて行くとか」 「…何?俺に北州で処刑しろと?」 「処刑するならわざわざ北州まで運ぶ必要は無いでしょう。殿下もまだまだ戦慣れしていらっしゃらないのでしょうよ」 宗温は意味深に笑い、その笑みのまま朔夜を振り返る。 「朔夜殿は、不要な事を言わぬようお気をつけ下さい」 口止めして、牢の中に残していた重症人の捕虜を検分し一旦この場を後にした。 半信半疑のまま取り残された二人。 「…龍晶はあの人達を助けるってこと?」 考え考え、朔夜は訊いた。 「…らしいな」 上の空で桧釐は答える。 宗温の嘘かも知れないが、朔夜にはそう信じさせた方が良いだろう。あながち嘘とも思えないが。 龍晶を朔夜の中で悪人と断定されては、今後彼を動かし辛くなる。だから、嘘でも良い。 桧釐には捕虜の生死など二の次だ。それよりも、それが本当に龍晶の言ならば何を狙っているのか測りかねる。 戦場から桧釐を離したいのか、或いは龍晶からか。 勝手に捕虜を北州に連れて入って、王からのお咎めが無いとも思えない。 とにかく直接話を聞く事だ。 ここを去る前に、桧釐は朔夜に念を押した。 「宗温も言っていたが、この事は他言するなよ。龍晶には特にだ。宗温は、お前が頑固過ぎるが故に仕方なく教えたんだからな?」 「どういう事?」 分からんか、だろうな。苦笑してから、肝心な事だけ繰り返した。 「絶対に誰にも喋るなよ。いいな?」 頷く。 桧釐も頷き返して、漸く地下牢を後にした。 扉を叩いても何も返って来ないので、入りますよと前置いてから扉を開けた。 龍晶は寝台に仰向けに転がっていた。口元に右手を置き、目は天井を向いている。 聞いた通り疲れた顔をしている。それも、何か打ち拉がれたと言ったような。 とは言え、打ったのは自分だ。打たれた方は拉がれるどころか己の主張を声高に叫び出したというのに、これでは何が何やら。 だから言ったのだ。傷を広げるのは自分だと。 そんな恨み節のような、しかし哀れむような思いを向けて、桧釐は龍晶を覗き込んで言った。 「少しは後悔していらっしゃるとお見受けします」 ちらりと目が動く。だが、瞼ごと閉じられた。 「朔夜はちっとも堪えてませんよ。寧ろ逆効果と言っても良いでしょう。悪いのは殿下だと、はっきり言いました」 「…だろうな」 「分かっておられたので?」 「悪人を指差して悪だと言っているだけだ」 「本当の悪人なら、こんな姿は見せませんよ」 龍晶は起き上がり、膝を立てて座った。 黒髪を片手で掻き、そのまま頭を抱えるようにして俯く。 ここはまだ牢の中だろうかと錯覚してしまう。囚われの人を見るようだ。 「殿下は悪人になどなれませんよ。捕虜の処刑を止めたのも、どうやら宗温の嘘ではないようですね」 「端からそんな気は無かった。ただ、朔夜の気が変わるかと思って」 「自分だけでは済まされない…ですか」 自身が脅され続けている事だ。言う事を聞かねば、自分だけの命では済まぬと。 それでも朔夜は突っ撥ねた。 「俺が侮られているんだろうな。そんな事は出来ぬと、あんな奴にまで見切られている」 自嘲が痛々しい。 自分がされてきた事と同じ事をして、朔夜は動じなかった。後悔は元より、激しい戸惑いと、己の卑小さ、劣等感を突き付けられた。 これまで耐えてきたものは、何だったのか。 「朔夜はそこまで考えてませんよ。それより、どこまでが本意だったんですか」 「は?本意もなく俺が動いているとでも?」 「誤魔化さないで下さい。俺が止めに入った時、あなたは明らかに我を失っていた」 ゆっくりと、視線を起こして目前の人物を目に入れる。 桧釐には大人を怒らせ顔色を伺う子供のように見えた。 そうやって、龍晶は意外な事を口にした。 「俺の中にも悪魔が居るんだ」 「…え?」 「お陰で朔夜の事が少し理解出来た。…自分の意思では止められなかった。お前が羽交締めにしてくれなければ、俺はあいつを殺していた」 桧釐は呆気に取られて返す言葉を忘れていた。 龍晶はじっと桧釐を見上げている。次に何を言われるか、恐々待つように。 沈黙の中で桧釐は考えた。 朔夜と龍晶。二人の中に巣食う悪魔は異質なものだろう。だが、全く違うと言い切れるのか。 龍晶が過去の辛い経験から己の中に悪魔を生み出したのなら、朔夜にもそれは言える筈だ。 尤も朔夜のそれは全く人智を超えている。だが、龍晶は精神の破綻から来るものだ。ならば、人の力で何とかなると思いたい。 それがこの人の元を離れられない理由かも知れない。 救いたい、と。 「俺は北州に左遷ですか?」 宗温から聞いた事を尋ねると、龍晶は少し考え、片頬で笑った。 「人が親切で休暇をやろうってのに、左遷などと言うのか。それだけの邪魔をした自覚があるようだな」 「残念ながら、その休暇がただの親切とは思えないんですよ」 にやりと龍晶が口端を上げる。 「…魂胆は何です?」 何か企みがあるのだ。ただ自分が邪魔になったから離すというものでも無さそうだ。 「人は使いようだろう、桧釐。あれだけの人数の、それも兵として使える連中を北州に置くんだ」 「…それは…」 桧釐は先を言い淀んだ。 どういう意味なのか、まさかこの人が急にこんな事を言い出すとも思えない。 「殿下、どうされました?悪い物でも食べましたか?」 「馬鹿。俺は真面目に話している」 「俄かに信じられませんが」 「別にお前の企みを助長してやる気は無い。ただ、北州の民を守れと言っている」 「民を…ですね」 龍晶は頷く。目に確かな光が戻っている。 「捕虜は丁寧に扱え。そして信頼を集め、鍛錬させろ。本来兵士なのだから彼らもそれが苦痛にはならぬだろう。何より、王に露見せぬよう努めろ」 「良いのですか」 それが露見した時、立場も命も危うくなるのは龍晶だろう。 だが、意外な返しをされた。 「俺は別に?何せ、全責任はお前が負うんだ」 思わず桧釐は吹いた。 ここまではっきりと、何かあればお前を切り捨てると宣言されるとは。 だが、嫌な気はしない。 「分かりました。命懸けで努めよという事ですね」 「ああ。俺はお前に付き合って命を棄てる気は無いからな」 「良いですよ、それで」 何が何でも反乱を起こすなというこれまでの態度から考えれば、かなりの譲歩である。 何に使うかは知った事では無いが兵はやる、そういう事なら有難い話ではある。無論、捕虜なので一筋縄にはいかぬだろうが。 「しかし、どういう風の吹き回しですか。本当に気まぐれじゃ無いでしょうね?」 何が彼を変えたのか。そんなきっかけは無かったように思うのだが。 龍晶はぽつりと答えた。 「死ぬ為の準備だ」 「…え?」 感情を抜かれた端正な顔を向け、しかしすぐにまた俯いて。 「俺が消えても北州は守らねばなるまい。その為の力をお前にやる。それだけの話だ」 いつ、何が起こっても良いように。 「…そんなに朔夜を怖れるのですか」 「悪魔だろ?当然じゃないのか」 「恐怖故に暴力で従わせようとしたと…そういう事ですか」 「それを訊いてどうする」 大体はそれで正答だろう。自身もはっきりとした理由など言えないが、その理由の無さが恐怖の裏付けなのだ。 従わせねば、反逆の刃は真っ先に己に向かう。その為の手段を、龍晶は他に知らない。 だが、その手段が裏目に出た以上、覚悟せねばならない。 「そういう事ならこの任務、お受け致し兼ねます」 桧釐は丁寧に断りを入れた。 意外だったのだろう、龍晶はまともに顔を見上げてきた。 「何が気に入らない?断る理由など無いだろう」 「捕虜を北州に入れる事が気に入らぬ訳ではありません。それは喜んでお受けします。だが、俺が今その任を負う訳にはいかない」 「何故だ?」 「殿下を死なす訳にはいかないからです」 じっと、龍晶は桧釐を見詰める。 何度も同じ事を言ってきた。それは確かに己の目的の為の言葉でもあった。 だが、いよいよそれが現実になるやも知れぬ今、ただ利己の為に言っている訳では無かった。 「俺はあなたを救いたい、そう思うんです。別に俺の目的の為ではなく、ただあなたの縁者として、そして一人の人間として。それに、朔夜がもし本当にあなたに刃を向けるとしたら、誰よりも傷付くのは朔夜自身でしょうよ。それも俺は避けたい。だから、今ここを離れる訳にはいかないのです。お許し下さい」 二人を救いたい。 これは偽らざる本音だ。 「…分かった」 一笑に付されてもおかしくなかったが、真面目な顔で龍晶は言った。 心は通じたようだ。 「北州への捕虜の搬送は、宗温の采配に任せる。お前はここへ残り、使いを立てて北州へ次第を伝えよ。お前の信頼出来る者に捕虜の扱いは任せると良い」 「そう致します」 龍晶は頷き、再びごろりと横になった。 桧釐に背を向け、顔は見えない。 「お疲れのところお邪魔を致しましたな」 苦笑して桧釐は言ってやる。今までは何とか上に立つ者の顔を保っていたのだろう。 「ただの疲れではあるまいよ。…主従ではなく従兄弟として聞いてくれるか」 「はい」 初めてそんな事を問われた。逆に構えてしまう。 予想通り、独白は想像を絶していた。 「俺はこの国を滅ぼすやも知れぬ」 何を言っているのか、すぐには聞き返せなかった。 何がどうなったらそんな言になるのか、そもそもそんな事を口にしても良いのか、疑問符だらけのまま次の言葉を待った。 「お前に感化された訳ではないだろうが…近頃は兄に逆らう事も必要だと思うようになった。全ては民を守る為だ。まずは北州だ。北州の民を守る為なら、俺は兄と刺し違える覚悟も要るのかも知れない」 だからこその、この采配なのかと、それには納得するが。 「刺し違えるとは…穏やかではありませんな」 「反乱だの復讐だの口にするお前に言えた事か。俺は心構えの問題を言っているだけだ。だが…現実とならぬとも限らんだろう。そうなればこの国を継ぐ者が居なくなる」 だから、滅ぼすやも知れぬ、と。 「どこまでが本気なのです?」 冗談で話せる事ではなかろうが、だが話が突飛過ぎる。 これまでの慎重な姿勢を見てきているから、尚更。 「刺し違える為には怪しまれず近寄らねばなるまい。だから俺は兄に取り入る。その為の、この戦だ」 「朔夜を使って」 「ああ」 それが目的なのだ。 冷めた態度でずっと煙に巻いていた、悟られてはならぬ到達点。 「だからまだ死ぬ訳にはいかぬ。…お前に俺を守る覚悟があると言うなら、そう心得ておいてくれるか?」 主従ではなく、生きる目的を同じくする同志として、行動の理由を明かしたかったのだろう。 そしてより強固な約束とする為に。 「お約束します。あなたを守ると」 龍晶は顔を背けたまま、小さく頷いた。 [*前へ][次へ#] [戻る] |